第6話 式神
目の前に手紙を差し出されて明神は視線を投げた。ショートボブの女の子が顔を赤らめ、俯き加減で手紙を持っている。半袖シャツから伸びた腕はほんのり日焼けしていて胸元の赤いリボンが目を引いた。
「何?」
休み時間の教室なのに、しんと静まり返ってクラスの視線が集まっていた。今にも泣き出しそうな潤んだ瞳は不安気だった。少女は躊躇いながらも、意を決して声を上げた。
「あの……読んで下さい」
徐に手紙を取り、少女の眼の前で手紙を開いた。少女は今、読んでくれるのかと更に顔を赤くする。手紙の中身をさらりと読み終わると、何も言わずに封筒に戻して彼女に差し出した。少女は想像していた少女漫画の展開と違って目を丸くし、戸惑った。
「あの……」
「恋愛ごっこがしたいなら他所でやって」
少女はまごついていると、徐に手紙を破った。少女はその光景に呆然とし、涙が溢れてその場を後にした。振り返らずに去って行く少女の後ろ姿が見えなくなると、溜め息と一緒にゴミ箱へ手紙を放り投げた。
「何だよ今の!」
教室の隅で事の顛末を見届けていた橋本 直人が近付いて言い放った。
「もっと他に言い方があるだろ? 他に好きな子が居るんです〜とか、今は勉強に集中したいからそういうのごめんね〜とか!」
直人の言葉に、少年は瞳を宙に投げた。表情が変わらないので何を考えているのかは分からないが、何か考え事をしているのだろう。
「そういうありもしない言い訳はどうかと思う」
「例えばだよ例え! お前の近況なんか聞いてねぇよ! あの子の気持ち考えてやれよ!」
直人の言葉に、明神は眉一つ動かさなかった。
「じゃあ聞くけど、俺に手紙を書いて渡して来る奴らが、一度でも俺の気持ちを考える事があるの?」
「んな事言ってたら大半が片思いで終わっちまうだろ」
「お前、今の子の名前知ってる?」
明神に聞かれ、直人は頭を悩ませた。教室では見ない顔なので隣のクラスの子だろう。
「名前も知らない、話したこともない。そんな相手から一方的にメモみたいなの渡されて、はい付き合いましょうって言う方がどうかしていると思う」
それを言われるとそうかもしれない。直人は明神の隣に腰掛けると腕を組んだ。
「けど、だからって手紙を破く事無いじゃんか」
「紙の真ん中に二文字だけ書いたものを手紙とは言わない」
明神が参考書に視線を落とすと、直人はもやもやした気持ちを吐き出した。
「わっかんねぇなぁ。それでももらったら嬉しいだろ。俺なんか未だにもらった事ないのに……」
明神は何か返事をした方が良いのだろうかと瞳を這わせたが、それ以上直人が何も言わないので放っておいた。授業の予鈴が鳴り、直人は自分の席に着く。
明神は窓の外を眺めると、入道雲が迫ってきていた。
肌を刺すような日差しの中、橋架下に松本 友美は佇んでいた。両思いになれると信じていたのに、呆気なくふられてしまい、学校に居るのが辛くて外へ出てしまった。もっと自分が可愛かったら上手くいったのだろうか? 自分がもっと賢かったら……と、悩みに悩んでどツボに嵌っていた。
「あ〜あ……」
友美の溜め息が橋架下に響いた。
「どうしたの?」
不意に何処かから幼い子供の声がした。驚いて辺りを見回したが、誰も居ない。
「こっちこっち」
また、声がして川の方へ視線を投げた。水嵩は低く、透き通った水の底には大小様々な石が転がっている。その石の間に、石で出来た小さな家があった。家と言っても、長四角の石の箱に、石で出来た三角の屋根をつけただけの単相なものだ。
「道通様?」
その小さな家が、小さな蛇を祀ったものだという事を友美は知っていた。ただ、それは道端の隅や神社の裏なんかにあって、川の中にあるのは初めて見た。
「まさかね」
「何があったの? 話してみて」
また、声が聞こえてきた。気味が悪いが、誰かに聞いてもらいたかった。そして、その不思議な声に興味があった。
「あのね、今日学校で好きな男の子に告白したの。でもね、ふられちゃった」
「あら、その男の子は見る目がないのね。あなたはこんなに可愛いのに」
その声はとても心地良い言葉をかけてくれた。
「そう……かな?」
「そうよ。こんなに魅力的な子、そうはいないわ。そうね……あとは、もう少し肌が白かったら良いんじゃないかしら?」
ほんのりと日焼けした腕を見た。言われてみれば確かに、日焼け止めクリームなど塗った事がない。多少焼けている方が健康そうだと母も言っていた。だから今から白くする……となると時間がかかってしまうだろう。
「良いことを教えてあげるわ」
その声に友美は身を乗り出した。水の中へ手を伸ばすと、道通様の小さな家を持ち上げた。
白い狩衣姿の幼児が昼間から里を彷徨いていた。
「あ〜あ、面倒臭」
溜め息交じりに呟いた。眼の前には広い田畑と、高い山々が見渡せる。狛は川へ下りると、魚を見つけて舌舐めずりをした。琥珀色の瞳を輝かせ、身体をうずうずさせる。魚目掛けて水の中へ飛び込むと、小さな両手に捕まえられた魚が身をくねらせ、するっと幼児の掌から逃げて行く。
「あ〜〜あ」
狩衣の袖を捲り上げ、再び川の中へ視線を向ける。陽の光を反射させた魚の身体目掛けて何度も手を伸ばした。水飛沫が灰色の髪を濡し、白かった狩衣は苔や泥がついて汚れてしまった。そうこうしているうちに日が陰っていた。
幼児は満足そうに屋敷へ戻った。袖の中には山で拾った栗が大量に入れられている。けれども歩く度に脇縫いから零れ落ちていた。右手には柿を、左手には木通を持っていた。四脚門を抜け、玄関の引き戸を開けると、鶯色の作務衣を着た明神が立っていた。幼児はその写真の様な明神の顔に、何故か恐怖を覚えた。何か言わなければと思うが、蛇に睨まれた廿日鼠の様に肩を竦めてそこに立ち尽くした。明神が無言で手を差し出すと、幼児は薄ら笑いを浮かべた。
「その、無かったのじゃ」
幼児がそう言うと、明神はそのまま幼児に手を伸ばした。襟首掴むと風呂場へ向う。栗や柿の実が音を立てて廊下に転がった。幼児の身包み剥いでシャワーの蛇口を撚ると、幼児が悲鳴を上げた。
石鹸の匂いに幼児は不機嫌そうな顔をしていた。立涌文柄の甚平を着せられ、外の井戸端で自分が汚した狩衣を洗濯させられている。もう星が幾つも瞬いていたが、やっと終わって物干し竿に引っ掛けると幼児は裏口から屋敷の中へ入った。欠伸をすると眠たそうに目を擦った。階段を上って部屋に入ると、布団の中へ身体を埋める。けれどもそこに明神の姿が無くて再び起き上がると、幼児は家の中を見渡した。居間にも台所にも居ない。廊下を歩いていると、声がした。
「主人なら居ませんよ」
縁側から外へ見やると金木犀の大きな木が庭の端に生えていた。幼児はそれを聞くと欠伸をした。
「何じゃ? またバイトとかいうものへ行ったのかのぅ……」
「般若堂から逃げた災いを探していると言っていたではありませんか。狛も、昼間はそれを探していたのでしょう?」
金木犀に問い質され、遊んでいたなどとは口が裂けても言えなかった。
「夜は寝る為にあるのじゃ」
「そうですね。もう少し主人には体を休めていただきたいですね」
金木犀がそう言って枝を揺らした。狛は欠伸をすると再び布団に戻った。
橋本 直人は学校へ着くと明神を見やった。相変わらず参考書を読んでいる。直人は一度目を反らしたが、周りに誰も居ないことを確認して明神の前の席の椅子をひいた。
「明神、実は俺さ、見つけちまって……」
直人が囁くと、明神が珍しく直ぐに顔を上げた。
「何を?」
いつものように無視されると思っていたのに直人は少し驚いていたが、鞄の中から若い女性の水着写真が載った雑誌を取り出すと、明神は呆れた様に溜息を吐いた。
「昨日さ、公園裏の芝生に棄てられてたの見つけてさ、これが世に言うエロ本ってやつ……」
「春香に報告しとく」
「男のロマンだろ!」
「そういうのは売れるようにわざと過激に書かれているからそれを鵜呑みにするのは感心しない。性教育の教材として扱えないから成人向けって書いてあるんだ。女の身体に興味があるなら保健体育の教科書読んでいれば事足りるだろ」
明神に説教され、直人は渋々雑誌を鞄にしまった。これなら同じ年頃の男の子だし、共通の話題で盛り上がれるのではないだろうかと期待していたのだが、敢え無く撃沈した。
「明神も読んだ事あるの?」
直人に問い質され、明神は一度視線を宙に投げた。相変わらず表情から感情が読み取れない。
「正直、そういうのを見ると吐き気がする」
それを聞いて直人はたじろいだ。
「……ごめん」
「好奇心旺盛なのは良いけど、母親を泣かせる様な事はするなよ」
直人はこくりと頷いた。
「おはよう」
不意に女子に声をかけられて直人はそっちへ視線を流した。真っ白な肌が目を引く少女が直ぐ側に立っている。直人は見覚えのない少女に首を傾げた。
「お……」
挨拶を返そうとすると、不意に眼の前に扇子が広がった。虎斑竹で出来た扇子が、直人の顔を覆う様に広げられている。明神を見ると人差し指を立てて静かにするように合図されて押し黙った。
「あれ? おかしいなぁ」
さっきは確かに少女の声だったのに、低い老婆の様な声だった。扇子で見えないが、何かが這う音がする。廊下から黄色い声がすると、その何かがそっちへ向かおうとする。明神が扇子を閉じると教室中の窓も戸も勝手に閉まった。廊下へ出ようとしていた少女が引き戸の前で右往左往している。少女の髪が蛇の様に伸びて教室中を這うと直人は驚いて声を上げた。
「わぁっ」
声に気付いて少女が振り返った。顔に赤い漆塗りの鬼面を着けている。長い髪の毛が直人に迫ると、直人は自分の顔を庇う様にして固く目を閉じた。
明神が扇を開いて宙空を仰ぐと、突風が吹いて髪の毛を巻き上げた。巻き上げられた髪が一塊になるとそのまま明神目掛けて降ってくる。明神が扇を再び振ると髪が弾け飛んで床に散らばった。散り散りになった髪が寄り集まって一塊になると明神は溜息を吐いた。寄り集まった髪が三方向へ飛び出すと、札を出して少女と直人へ投げた。二つの毛束がそれぞれ札に弾かれ、残りの一束を扇で床に叩き落とす。
脇腹の傷が開いてよろけると、扇を持っていた右腕を貫かれた。
「明神!」
直人が駆けつけようとすると髪の毛が直人へ襲いかかった。明神は扇に左手を翳すと目を伏せる。
「左慶」
扇の表面から刀が出てくると、明神は左手で掴んで髪を薙ぎ払った。切られた髪が床に散乱するが動かない。そのまま少女に向かって刀を振ると、少女の着けていた鬼面が真っ二つに割れた。
少女の顔から面が外れ、髪が千切れてショートボブに変わる。肌の色が戻ると、昨日、明神にラブレターを渡しに来た子だと直人は気付いた。
「明神……?」
何が起こったのか分からず聞こうとすると、不意に明神と目が合った。その濁った瞳に気圧されてたじろぐと、明神が歩み寄って刀を振り翳した。直人は恐怖で体が動かない。刀が振り下ろされる瞬間、直人は悲鳴に似た声を上げた。
「止まれ!」
刀の切っ先が直人の目前で止まった。刀が小刻みに震え、明神の右瞳が碧く光ると、直人は声を絞り出した。
「明神!」
明神が顔を歪め、左手から刀が消えると明神は溜息を吐いた。踵を返し、気を失っている少女の元へ駆け寄ると舌打ちした。
「……逃げられた」
明神はそう呟くと少女の体を起こそうとするので直人も手を伸ばした。眠っているのか、息をしている少女にほっと胸を撫で下ろした。
「保健室へ連れて行って貰えるか?」
「それは良いけど、お前は?」
「こいつに取り憑いていた妖かしを捕まえに行って来る。体調悪いから休むって先生に言っといて」
明神はそれだけ言うと教室の窓から外へ出て行った。
「全然体調悪そうに見えないけど……」
ぼやきながらも、まあこればかりは仕方がないかと思う。ただ、さっき直人に向かって刀を振り上げた事を思い返せば、なまじ体調不良も本当なのかもしれないとも思った。
竹林を駆ける髪の束があった。草木を掻き分けて山を登ると、不意に動きを止めた。大分里から離れた為か人の気配はない。
「なんだい、あの娘の惚れた男がまさかあれだなんて私も運が無いね」
髪の束が頭を擡げて嘆息した。やっと般若堂から出られたというのに、あんなのに祓われてはあまりにも惨めだ。かといって、あの男が持っていたあの刀に、殆どの力を削がれてしまった。
「厭だね。呪われているじゃないかい。なんだってあんな男に惚れちまうのかね」
ゆるゆると尾根伝いに山道を行く。不意に木の根に髪が絡まって縺れると、髪の束は何が起こったのか分からずに周りを見渡した。鬱蒼と茂る葦の隙間から紺の作務衣に、赤い梅結びの手拭いを頭に巻いた少年の姿を見留た。総竹扇を開いて口元を押さえている。逃げようとするも、どういうわけか木の根が絡み付いて動けない。
「畜生! やっと自由になれたのに!」
「お前達は何故、般若堂に縛られているんだ?」
明神の言葉に髪の束が鼻で笑った。
「そんなことを知ってどうするつもりだい?」
「全員呪詛を解いて空に帰してやる。それが本来あるべき姿だろう」
「笑わせんじゃないよ!」
髪の毛が幾つか蠢いたが、いつの間にか大きな木の根に押し潰されていた。
「私達はこの世を恨んで死んで逝ったのよ。だからこの世に恨みを晴らすまでは成仏なんぞする気はないね!」
「……そうか」
明神が扇を畳むと、髪の毛が木の根に吸い込まれていく。断末魔と共に抵抗していた髪の束がやがてただの髪の毛になると、大樹が消えて赤い袴を履いた十歳程の子供の姿に変わった。地面に残った遺髪を手に取るが、灰になって消える。
「すまない。手間をとらせた」
明神の言葉に子供は軽く頭を下げた。
「呼ばれたのに、直ぐに駆けつけられなくて申し訳ない」
「お前が自分を責める必要はない。俺の力不足が招いた結果だ」
それを聞くと再度頭を下げた。
「あんなのがあと何体般若堂に居るんだろうな」
「百体は軽いだろう」
子供の言葉に明神は目を細めた。
「右慶の見立てでもそんなもんか」
「俺の場合と状況が同じであるならばそうだろうと思っただけだ。俺も九十九程度は人を殺している。あれが本当に疫病による死者の怨念であるなら、そうだろうとは思うが、あの当時は割と何処でも疫病だの飢饉だのは流行っていた。だからそれだけが理由では無いだろう」
右慶の話に明神は頷いた。
「右慶でも、般若堂の事は知らないのか?」
「俺があいつの式神として下った頃にはもうその噂はあった。俺は事情があって直ぐに屋敷に封印されたから詳しいことは分からない」
「そうか……」
明神が溜息の様に呟くと、右慶は思いついた様に呟いた。
「あいつもあのお堂には手が出せないと言っていた。実力的には可能な筈なのに……だからそういった呪詛がかけられているんだと思う」
「厄介だな」
「だから放っておけばいい。今迄の先代達もそうしてきたんだ。だから彦が今手を引いた所で誰も文句など言わない」
彦というのは男の子という意味で、所謂渾名として式神からはそう呼ばれていた。
「生あるものは皆、何れ死に逝くものだ。その瞬間、亡くなる理由が病気だったか、戦争によるものだったか、はたまた呪詛によってなのかという違いだけで、そこに大差を付けたがるのは人間だけだ。彦が気にする事ではない」
右慶の言葉に明神が沈黙した。右慶が首を傾げると、明神は嘆息する。
「いや、右慶が俺を気遣ってそう言ってくれているのは解るが、それを言われると俺も死に時を選べるうちに死んでおかなければならないと思う」
「何でそんなに偏屈なんだ!」
右慶が怒鳴ると、明神は背を向けた。明神が山を降り始めると右慶もついて行く。尾根伝いに山の南側へ出ると、小高い般若山を見下ろした。右慶も見下ろすと、幾つかの魂が黒く染まって般若堂辺りを彷徨いている。もう人だった頃の姿も忘れ果て、生きていた頃の記憶もそう残ってはいないだろうに、執着という呪いに阻まれて大地に縛り付けられている。
「根が深いんだろうな」
「山の外側の事なんか気にしていたらきりないぞ」
「それはそうなんだが、土地神の力も衰えているから、範囲がこれ以上広がるのは本意でないなと。多少周りを結界で囲ってやることも出来なくは無いが、なにせ相性が悪いから気休めにしかならない」
呟いて右慶へ視線を向けた。
「俺は呪術のことには詳しくないから相談されても困る。俺を式神にしたやつはあの当時でもずば抜けて呪術の天才と言われていた。そいつでも手が出せなかったのに彦に何か出来るとは思えん」
右慶に言われ、明神は考える様に視線を空に飛ばした。
「狛を使えば?」
右慶の言葉に明神は目を伏せた。
「あいつをいつまで遊ばせておくつもりなんだ? あんたの呪力の半分をあいつが持っているのに何故、あいつの扱いに慎重なんだ?」
「狛を俺の式神として使うつもりで置いている訳ではない。呪力半分持っていかれているのは狛の元々の性質だろう。俺が敢えてそうしている訳ではない」
右慶が驚いた様に目を丸くした。
「はあ? 何でそんなお荷物……」
「俺の身体には呪詛がかかっている。だから常に身体の中の呪力を調整する必要がある。その調整をする役割の為に置いているだけで、左慶とは目的が違う」
右慶はあからさまに不満気な顔をした。
「それで呼んだのに来ないから左慶に謹慎処分か」
「本人がそれで反省すると言っているんだ」
「納得出来ない。左慶は今迄、彦の為に式神として働いて来たのに、たった一回命令に背いただけでその扱いなのか?」
「そのたった一回で、俺は鬼に堕ちる所だった」
明神の言葉に右慶は息を飲んだ。
「俺が自分の身体の呪詛を抑えられなくなった時に、自分の始末を自分で出来ない。その時の為に左慶を作ったんだ。それは左慶も承知しているはずだった。俺は鬼になって人に仇なす存在になるのは不本意だ」
明神はそこまで言って溜息を吐いた。
「まあそもそも、俺が般若堂へ近付いたせいだから、俺の甘さが招いたことではあるが」
「俺には分からん。そんなにあの親子が大切なのか?」
右慶の質問に明神は視線を宙に投げた。
「まあ、そうなんだろうな」
明神は自分でそう言っておいて深い溜息を吐いた。頭を掻きむしると、面倒臭そうに再び息を吐いた。
「俺にもよく分からない。春香が俺の母親の姪にあたるからなのか、長い時間を一緒に過ごしたから情が移ったのか……餌付けされて飼い馴らされたか……」
明神の言葉に右慶は目を伏せた。
「顎が痛い」
狛は右頬を擦りながら明神に打ち明けた。明神は今、家に帰って来たばかりで土間に突っ立っている。玄関を開けた先で仁王立ちになり、待ち構えていた狛に急にそんな事を言われて視線を宙に泳がせた。
「戸棚に入れておいた雷満月が無くなっていたな」
明神が呟くと、狛は気まずそうな顔をした。雷満月は兵庫のかりん糖の事で、明神がバイト先で貰ってきたものだった。戸棚に隠していたのを黙って食べた事がばれていると知って冷や汗が流れる。
「し、しらなーいのじゃ」
「最近、里のお寺の檀家さんがお供えした菓子が消えているそうだ」
「ふ、ふーん、そうなんじゃあ……」
狛は視線を明後日の方向へ向け、白を切ろうとするが、明神は徐ろに狛の首根っこを掴み上げた。短い手足をばたつかせていると、左慶が居る部屋の障子を開けた。青い袴に、髪を一つ結びにした十歳くらいの男の子だ。反省文を書いていた左慶が驚いた様な顔をしてこちらを見ている。
「左慶、押さえてろ」
明神に指図されるまま、左慶は狛の上に馬乗りになった。両腕を押えると、明神がやっとこ鋏を持って来た。それを見た狛が真っ青な顔をして首を横に振る。
「ごめんなさいなのじゃ! 雷満月を食べたのも、お寺の落雁を食べたのも、冷蔵庫のつるの子を食べたのも全部俺様なのじゃ!」
地獄絵図で見た様に舌を抜かれると思った狛が洗い浚い吐くと、明神は溜息を吐いた。
「つるの子も食べたのか」
明神が呟くと、狛は押し黙った。松山銘菓で、カスタードクリームが入ったメレンゲのお菓子だった。これも、明神が新聞配達のバイト先で今朝、お土産に貰っていたものだった。日持ちしないので今日中に食べておくように言われていたのに、学校があるからと冷蔵庫へ入れたのが運の尽きだった。
明神は狛の口を手で開けると、やっとこ鋏を狛の口の中へ押し込んだ。右下奥歯をやっとこで挟むと、ぎりぎりと音が頭に響く。顎が小刻みに振動し、頭から抜けるような痛みに悶えるが、左慶に押さえつけられていて身動がとれない。奥歯が緩んで明神が狛の口へ手を入れると、堪えきれなくなった狛が歯を噛み締め、明神の手に噛み付いた。明神の手から赤い血が吹き出ると、左慶が声を上げた。
「なっ狛!」
明神は顔色一つ変えることなく両手で狛の口を開けると、奥歯を引き抜いた。明神が合図すると左慶が狛を離す。狛は口を押さえて悶絶していた。明神は抜いた歯を見ると、虫歯になって穴が開いている。
「なんてことするんですかこの……」
「痛いのじゃ痛いのじゃ痛いのじゃー!!」
「自業自得じゃないですか!」
「左慶」
狛と左慶が喚いていたが、明神の声で二人共黙った。
「痛み止めを頼む」
「甘やかし過ぎです!」
「俺が使うんだ」
明神が噛まれた右手を見せると、左慶は眉間に皺を寄せた。明神は狛の首根っこを掴むと部屋を出た。
「片付け頼む」
明神はそれだけ言うとそのまま風呂場へ向かう。じたばたする狛を風呂釜に入れると、シャワーを捻った。
気を失った狛に立涌文柄の甚平を着せると、明神は布団をかけてやった。
「甘やかせ過ぎですよ」
痛み止めの効果がある香炉を持って来た左慶が明神の側に座り込むと、適当に布を巻いていた右手を取って手を翳した。傷口が光って少しずつ塞がると、左慶は安心した様に息を吐いた。
「麻酔無しで抜歯は甘やかしていないと思うが」
「そもそもどうして式神の狛が飲み食いする上に虫歯になんてなるんですか」
明神は考える様に瞳を泳がせた。
「さあ? 考えたことがない」
明神の回答に左慶は眉根を寄せた。
「どうして……」
「そういう体質なんだろう」
「体質って……そのせいで主人の呪力も削がれているのに、普通だったら主人を貶める為に誰かが送り込んだ刺客でしょう?!」
左慶にそう言われ、明神は視線を宙に投げた。
「それは無いだろう」
「本当にもう……飼い犬に手を噛まれて、冗談じゃ無いですよ。どうしてこんなお荷物置いているんですか……」
「左慶もつるの子が食べたかったのか?」
「要りません!」
左慶が怒ると、明神は嘆息した。
「俺を気遣ってそう言ってくれているんだろうが、俺にはよく解らない。狛が居ないと自分の身体の呪力の調節もままならない。あいつに半分でも俺の呪力を渡しておかないと、鬼に堕ちた時に左慶の手に余ってしまう。偶々、狛が俺の余分な呪力に耐えれているだけで、左慶に同じ様にすれば気が触れてしまう。その影響で腹が減ったり、甘いものが欲しくなったりしているだけだと思う」
「そんなのそもそも必要無いでしょう!」
「狛が居なければ俺はこの屋敷から出られない」
明神の説明に左慶は頭を悩ませた。
「そんなはず無いでしょう」
「お前は知らないだろうが、俺単体で屋敷を出ると呪力の調節が出来ない。だから周りに悪影響を及ぼす。そのせいで何人か人が死んだ。汽車に跳ねられて亡くなったり、それを苦にしてその家族が首を吊った。俺が屋敷を出なければ死なずに済んだし、石を投げられた事に腹なんか立てなければ呪力を抑えていられた。それなのに一時の感情に任せて力の操作を誤ったが為に寿命を取り上げてしまった。俺の身勝手な行動で死者が出る。見せかけだけでも人となりの生活を送る為には呪力の調整がいる。その受け皿に偶々見合ったのが狛なんだ」
左慶は苦虫を噛み潰した様な顔をした。
「それを狛に黙っている」
「どうして?」
「そもそもそれは俺の事情であって、狛には関係無い。狛は前の飼い主を探している。逸れた母親をずっと探しているんだ。それが見つかればそっちへ帰すつもりでいる。だからそれまでの間だけ、狛の体を間借りしているだけなんだ」
「狛が居なくなったら屋敷から出られなくなるのでしょう?」
左慶が詰め寄ると明神は頷いた。
「俺としては、親が亡くなってから三年、ずっと屋敷に居てつまらなかった。興味本位で外へ出て学校へ行って、自分の力の調整が出来ないことに気付いて苦悩した日々もあった。けれども、狛が俺の元へ来てくれた事で学校へも行けたし、バイトも出来たから、狛が自分の幸せを選んで出ていくと言うのであればそれで良いと思う。俺の我儘に付き合わせるわけには行かない。屋敷から出られないと言っても、人と会いさえしなければ大丈夫だろうし」
明神の言葉に左慶は眉根を寄せた。
「狛の重要性は承知しましたが、だからと言って鬼になって人を殺す前に主人の首を撥ねるのは納得いきません」
「納得いく、いかないの話じゃない」
そう話すとそっと左慶の頭を撫でた。
「お前にとっては嫌な役回りかもしれないが、鬼になって人を殺して、陰陽師か霊媒師だかに消されるのを憐れと思ってくれるなら、俺の最期の頼みくらい聞き入れてくれてもいいだろう」
明神がそう呟いて部屋を出て行くと、左慶は唇を噛み締め、縁側から外へ出た。
狛は栗ご飯の匂いで目を覚ました。部屋には誰も居ない。廊下を歩いて居間へ行くと、自分が拾って来た柿が皮を剥いて切り分けられ、厚い砥部焼の器に木通と一緒に盛られている。狛が目を輝かせてそれに手を伸ばすと、台所に居た明神が南瓜の煮物と茄子の煮浸しと味噌汁を持ってきた。味噌汁には茸や人参、大根が入っている。狛が伸ばしかけた手を引っ込めると、卓袱台に料理を並べて明神は端座した。
「甘いものばかり食べていると体に悪いから、バランスよく野菜も食べること。あと」
明神はそう呟いて子供用の新しい歯ブラシを狛の眼の前に差し出した。
「食べ終わったら丁寧に歯を磨くこと。それさえ約束してもらえれば菓子を食べたことは咎めない」
「了解なのじゃ!」
狛は返事をすると、箸を取った。明神が差し出した栗ご飯に箸を伸ばすと、不意に思い出して明神へ視線を向けた。
「落雁を盗みにお寺へ行った時に説法をしておったのじゃ」
狛が話し始めると、明神は表情を変えることなく軽く頷いた。
「三尺三寸箸というもので、あの世の箸はえらく長いらしいのじゃ。地獄へ落ちた者はその箸の使い方が解らなくて、遠くに並べられた馳走を自分の口に運べないのじゃ。じゃが、天国へ行った者達はお互いに向かい合って、お互いにその長い箸で馳走を取り合って食べさし合うのじゃ」
狛の話に明神は静かに頷いた。
「けれどもこの話は嘘じゃと思うのじゃ」
明神は不思議そうに瞬きをした。
「自分の心掛け次第で、この世は地獄にも極楽にもなるのだという例え話であって、本当の話ではないと思うのじゃ」
明神は納得したように頷いた。
「俺様も、自分一人で雷満月やつるの子を食べていると、母ちゃんを思い出すのじゃ。母ちゃんにも食べさせてやりたいと思うのじゃ」
明神はそれを聞くと首を傾げた。狛は箸で柿の実を一つ取ると、明神に差し出した。
「じゃからの、彦も一緒に食べるのじゃ」
明神はゆっくりと瞬きすると、首を傾げた。
「狛の食べる分が減ってしまう」
「一人で食べるのはつまらないのじゃ」
狛がそう話すと、明神は台所から自分の箸と、茶碗に栗ご飯を注いで戻って来た。
「たなつもの……」
手を合わせてそう言い掛けると、狛も箸を置いて手を合わせた。
「いただきまーす!」
狛が大声で言い、早々にご飯を口に入れていた。明神は最後まで呟くと、狛が美味しそうにご飯を食べる姿を眺めていた。
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