第2話 噂

 駅前の自動販売機の前に二人の小学生が立っていた。二人とも黒い制服を着て、ランドセルを背負っている。

「すごいよな! ここにお金を入れて、ボタンを押したらジュースが出てくるんだってさ!」

 先に声を上げたのは橋本 直人だった。設置されたばかりの真新しい赤い大きな機械を舐めるように観察している。その彼から少し離れたところで、同級生の明神はぼうっと立っていた。

「中は一体どんな感じなのかな? 中におじさんが入ってて、冷蔵庫からジュースを出してくれるのかな?」

 小学一年生らしい素晴らしい発想を直人が言葉にしてみたのだが、明神は静かに首を横に振る。直人はそれに気付くことなく目を輝かせていた。

 山を越えた街へ行けば割と何処にでもあるのだが、この里に産まれ、里から出たことのない子供にとっては珍しくあるのだろう。

 夏の暑い日差しの中、自販機の裏側へ回り込んでみたり、下を覗き込んだりする直人の姿を明神は眉根の一つも動かさないで眺めていた。学校帰りに「一緒に自販機を見に行こう」と直人が言った時、明神はなぞなぞだろうかとさえ思った。けれども知らない事を知ろうとする彼の姿勢に明神は関心していた。だから直人に誘われた時、断る事が出来なかった。

 急に背後から水をかけられた。直人は反射的に驚いて振り返ったが、明神は反応が遅れたのかさっきと面差しが変わらない。だが、制服もランドセルも濡れ、水が滴っていた。直人が明神の後ろに目をやると、小学校高学年らしい生徒が三人いて、一人が空のバケツを持っていた。

「ほらな! 俺の言う通りだろ?!」

 一人がそう声を上げて明神に指をさした。直人は直ぐに察して明神の腕を掴む。「行こう」と呟いて明神を引っ張りながらも先輩達を睨みつけていた。

「あっ鬼が逃げるぞ」

 一人が叫び、他の一人が足元を弄る。直人はそのまま走り出した。

「待て! この鬼が!」

 心無い言葉と一緒に三人は石を投げつけた。直人と明神の頭やランドセルに石があたる。直人は突き当りを左に曲がろうとしたが、踏切の警告音が鳴り、遮断器が降り始めたのを見て踵を返した。踏切とは反対側へ走り出した時、不意に明神が直人の腕を振り払った。

「明神!」

 直ぐに引き返そうとしたが、足が縺れて転んだ。暑いアスファルトで膝に血が滲む。直人が顔を上げると、明神は遮断器をくぐり抜けて踏切に入っていた。その明神の後を追って上級生達が石を投げている。

「やめろよ! なんで……明神が何したって言うんだよ!」

 足が痛くて立ち上がれない。友達なのに何もできない自分が不甲斐なかった。例え石を投げられ続けたって一緒に逃げるつもりでいたのに、それを彼に拒まれた事が悔しかった。

「やめろ!」

 必死に叫ぶが、踏切の警告音と、ブレーキの音でかき消された。

 何かがぶつかる大きな音がして目の前に子供の右足が飛んできた。白い運動靴に白い靴下を履いたその足は、潰れた傷口から溢れた赤い血でじんわりと染まる。それを目の当たりにした時、直人はその足から目をそらすことが出来なかった。周りからあらゆる音と色が消え、時が止まったように思えた。呼吸をするのも忘れ、顎先から汗が流れ落ちた。やがてゆっくりと周りに色が戻り、煩い蝉の声に背中を押される形で顔を上げる。ディーゼル機関車が通り過ぎた踏切の向こう側に立っている明神の姿が、陽炎の様に揺らめいていた。

「明神……」

 ちゃんと足がついている事を確認して安堵した。けれども明神は表情一つ変えることなく立ち尽くしていた。



 数年後、二人は中学生になっていた。

 教室の一番後ろの窓際の席に座って参考書を読んでいる明神に直人は声をかけた。

「明神! 体操服忘れたんだ! 明日返すから貸してくれ!」

 直人は両手を合わせ、祈るように頼み込んだ。明神は良いとも嫌とも言わず、後ろのロッカーから体操袋を取り出して差し出した。直人はぱっと目を輝かせると、両手で丁重に受け取った。

「ありがとう!」

 直人が叫ぶように歓喜して言ったが、相変わらず返事は無い。明神がそのまま席に着くと、直人は一つ前の席の椅子をひいて座り込んだ。

「さっき公衆電話から家に電話かけようとしたんだけどさ、このテレカ使えねーの。壊れてんのかな? 東京に居る叔父さんがくれたんだけど……」

 指で摘んで見せびらかす様に直人が左右に振った。興味があるのか、明神が何も言わずにそのカードを凝視している。不意にカードを指し示すと、直人は首を傾げた。

「何?」

 人差し指と親指で、カードをひっくり返す様な素振りをした明神に頭を悩ませながらテレカを見つめた。

「クオカード? 何それ、テレホンカードじゃないの? ファミリーマートって何? 家族で行くお店ってこと? じゃあ農協とかで使えるのか?」

 直人の質問を聞いて明神は溜息を吐いた。

「それは二千円分のカード型金券で、コンビニエンスストアで使えるって書いてあるんだ」

 それを聞いた直人が目を丸くした。

「こんびにえんす?」

「深夜スーパーとも言って、二十四時間開いてるお店だ」

「はあ? 夜は寝るためにあるのに、夜にお店開けても猪や鹿くらいしか来ないだろ。何処にそんな店があるんだよ」

 直人には全く意味が解らなかった。そんなお店、この田舎では見たことも聞いたことも無かった。

「世の中には昼夜逆転している人も一定数居るって事だろう。市駅前に一軒あったと思う」

「市駅……って県庁の?! はあ? こっから鈍行で六時間かかるじゃん! なんてものくれたんだ叔父さん!」

 それならせめて現金でくれれば良いものを、これだから都会人の考えることといったらよく解らない。

「なあ、何で明神はそんなこと知ってるの?」

「何年か前の新聞に載ってた」

 しれっとそう話しながら参考書に目を落としていた。直人はそうなのか……とぶつぶつ言いながら自分の無知を恥ずかしく思う。公衆電話の前で喚いていた数分前の自分が情けなかった。



 五時間目の体育の授業前、更衣室で体操服を着替えている時に他のクラスメイトが体操服の名前を指していた。

「橋本、お前の母ちゃん離婚したの?」

 一瞬、何を言われたのか解らなかったが、体操服の名前が「明神」になっているのを見て理由が解った。普通に、体操服を家に忘れたので借りたのだと言えばよかったのだが、クラスメイトが誂うように言ったので、直人も冗談半分で

「実は俺、婿入りしたんだよ〜」

 と言ってしまった。周りが一瞬どよめいたが、直ぐに笑いが湧き上がった。

「お前って本当、面白いよな」

 その時はそれで終わりだと思っていた。まさかこの一言で、明神が実は女なんじゃないかという噂に発展してしまうなど、直人は夢にも思わなかった。

 それというのも、身長が平均より低いのだ。クラスに160cmの男子が居る中、彼の中一最初の健康診断での身長が148cmだった。小柄な上に、顔が中性的というか、女の子だと言われたらそうかもしれないと思う程可愛らしい顔をしていた。その上体育の授業はいつも休んでいたから、生理なんじゃないかと勘繰る男子までいた。

 授業が終わったら直ぐ謝るつもりだったのにどういうわけか早退していた。彼の居ない所で噂が大きくなるのが何とも遣る瀬無かった。止めさせようとしたのだが、人の口に戸は立てられない。こっちがムキになればなるほど、周りは面白がって有る事無い事尾鰭がついていく……

何も出来ないまま、部活を終えて帰宅するしかなかった。



 橋本 直人は小高い丘の住宅街に住んでいた。家は戸建ての一軒家で、青い屋根の、白い壁が特徴的な家だった。両親が新婚の時に建てた家で、周りの瓦屋根の家に比べると少し新しめの建物だった。

「ただいま〜」

 玄関を開けると、家の中が薄暗かった。壁に備え付けられた電気を点けて居間を覗くと、テーブルにメモと、蝿帳のかけられた夕飯が置いてある。綺麗な字で

 春香が風邪で寝込んでいるので静にするように

 冷蔵庫にサラダ入れてる。

 味噌汁くらいは自分で温めること。

 と書かれている。春香は直人の母の名前だった。父は単身赴任で今は青森に居ると聞いている。蝿帳を取ると、豚の生姜焼きと茄子の煮浸しが置いてある。直人は電子レンジにそのまま入れるとあたためスイッチを押して台所に立った。片手鍋の中に味噌汁が出来上がっている。コンロに火をかけて炊飯器を開けると、白いご飯が炊けていていい匂いがした。ご飯を茶碗に盛って冷蔵庫からサラダを出すと、テーブルにあたため終わったおかずと味噌汁を並べて座った。

「いただきます」

 手を合わせて箸を取った。いつもの母の料理と違って塩気が少なく、出汁がきいていて美味しい。母の作るカレーや焼きそばも好きではあるが、この和食というものに日本人の精神が詰まっている様な気がしないでもない。

「同い年なんだよなぁ……」

 思わず呟いた。食事を終えて風呂に入ると、パジャマの畳み方が母とは違うので、洗濯物もしてくれたのだろうと思う。歯を磨いていると玄関ドアが開く音がした。時計を見ると九時を過ぎていた。居間を覗くと、直人が食べ終わった食器を台所で片付けている後ろ姿があった。

「置いとけよ。後でするから」

 直人が声をかけると、小柄な彼が振り返った。

「宿題は?」

「母さんみたいなこと聞くなよ。今からするよ」

「身長縮むぞ」

「説得力あるけど自分で言ってて虚しくないのかよ……」

 紺の作務衣に、赤い梅結びの柄がついた手拭いを巻いた明神は溜息を吐きながら手を動かしていた。直人は明神の隣に立つと、明神が洗った食器を布巾で拭き始めた。

「あのさ、今日体操服貸してくれただろ? で、その……名前が明神だったから、親が離婚したのかって誂われて……」

 直人が説明しようとするが、明神は相変わらずつまらなそうな顔をしている。

「それで、その場のノリで俺が婿養子になったんだって言ったら、明神が実は女なんじゃないかって噂になっちまって……」

 明神は鼻を鳴らしただけで興味が無さそうだった。

「その……ごめん」

「ほっとけ」

 やっと言葉を発したと思ったらそんな一言だった。

「けど……」

「そのうちまた他の話題に移るんだからいちいち気にするな。他に娯楽のない田舎なんだから、噂話くらい好きにさせてやれ」

「好きにって……普通怒るだろ? 俺がお前の立場だったら……」

 直人が言いかけると明神は溜息を吐いた。

「お前に悪気がなかったことは解っている。取り返しのつかないことをして反省して謝っている奴を詰って責め立てていられる程、俺は暇じゃない」

「そんな言い方……」

 と、言いかけたが今に始まったことではない。

「前みたいな事にならないかな?」

 今でも時々、頭の中に過ぎる事があった。空から降ってきた子供の足の根本から赤い血がアスファルトを濡らしている。暑い日差しと、煩いくらいの蝉の声が耳の奥に響いていた。

「俺には関係ない」

「けど、あの時だって変な噂が流れて、それで……」

「遮断器が下りたら汽車が来ることくらいあの年頃なら既に理解していた。それを無視して他人を貶める為に人に石を投げて、遮断器を潜って追いかける選択をしたのも彼奴等で、その結果命を落としたのは自己責任だろ」

 彼の話は尤もだった。

「それはそうなんだけど……」

「俺が線路へ逃げなければ彼奴等が死なずに済んだんだろうな」

 明神が抑揚の無い声で呟いた。

「違う。先輩達が明神に石を投げて追いかけなければ……あんな噂さえ無ければあんなことにならなかったんだ」

「だから……」

 直人の言葉に明神は溜息を吐いた。

「どうでもいい。今更どうこう言っても失った命は返って来ない。噂話くらいで留めておけばいいものを、正義の名の下に人に石を投げたり追いかけ回したりして自分の日々の鬱憤を誰かに押し付けようとするからそういう目に遭うんだ。そんな人間の事を一々気にしていたら切がない」

 明神は洗い物を終えると、テーブルの上を拭いた。ソファの上に脱ぎっ放しにしていた制服の上着を取ると、ハンガーにかけていた。肩の所が解れているのを見つけると、玄関に置いていた東袋を持って来て、針と糸で繕っていた。

「そんなのしなくていいって」

「いいから宿題して寝ろ。こないだの小テストの順位親に黙ってるだろ? もうすぐ中間テストもあるんだから少しは親に胸張って見せられる点数取れるように勉強しとけ」

「何で知ってんだよ……」

「春香がそろそろテストとかあったんじゃないかと聞いてきたけど黙っといた」

 そうこう話している間に、ポケットの穴まで塞いでくれていた。手際良く片付けると、ハンガーラックに制服をかけた。

「……ありがとな」

「自分の事くらいは自分でやれ。それが自分の為でもあるし、親の為にもなる。親が生きている間くらいは孝行してやれ」

 明神はそう言い残すと東袋を手繰って出て行った。直人は一人になると、居間の電気を消して二階の自室へ上がった。



 朝、パンが焼ける匂いで目を覚ました。目を擦りながら一階へ降りると、台所に学生服を着た明神が立っている。直人は欠伸をしながら明神に声を掛けた。

「飯作りに来るなら泊まれば良かったのに……」

「こっちにも事情があるんだ」

 そう言いながら二人分の朝食がテーブルに用意されていた。具沢山のコンソメスープに、目玉焼きにウインナー、茹でブロッコリーに、こんがり焼けた食パンが並んでいる。直人が椅子に座ると、コップに牛乳を入れてくれて、切ったバナナとりんごが添えられたヨーグルトが並べられた。直人が手を合わせて食べようとすると、髪がボサボサの母が悲鳴を上げて隣の部屋から出て来た。

「明神くん、ごめんね! もう大丈夫だから……」

「いいから寝とけ」

 まだ熱があるのか、顔が赤く、おでこに冷却剤を貼っている。

「本当に大丈夫だから……」

「じゃあ飯食って。薬飲んで」

 明神にそう言われ、春香は髪をかき上げながら申し訳無さそうにしていた。

「食欲無いならうどん作る」

「食べます! 頂きます! 上げ膳据え膳で文句などありません!」

 春香はそう言って椅子に座っていた。

「明神くんは……」

「俺は要らない」

 直人はそれを聞いてパンを噛じった。春香もコンソメスープを飲んでほっとしている。

「ごめんね。昨日は40°熱が出て死んだように寝てたわ。さっき測ったら38だったからもう大丈夫よ!」

「薬飲んだら寝てろ」

 明神に窘められ、春香は眉根を寄せていた。

「心配しなくても大丈……」

「無理して体壊された方が迷惑なんだ。申し訳ないと思うなら日頃から自分の体調管理くらいしっかりして。休める時に休んどけ」

「……はい」

 言い負かされて春香はヨーグルトに手を伸ばしていた。それを見た明神がパンを引っ込めると、卵粥を作って春香の前に置いた。

「ごめんなさい」

「食べられるものだけ食べたんでいいから。一応スポーツドリンクとかゼリーとか冷蔵庫に買い置きしておいたから水分は取って」

 明神はそう言いながら下げたパンやおかずにラップをしていた。

「明神くん、良かったらそれ食べてよ」

 春香がそう言って隣の椅子を引いた。明神は溜息を吐くと、テーブルにそれを置いて椅子に腰掛けた。

「たなつもの 百の木草も 天照す 日の大神の恵み得てこそ」

 手を合わせて静かに呟くと、頂きますと言って箸を取った。

「え、何それ?」

「本居宣長の和歌で、太陽や自然の恵みがあってこそ、毎日食事が出来る。とても有り難いことだって意味」

 直人には全く意味が解らなかった。本居宣長という名前も初耳だったし、和歌に興味が無かったが、割と前からこういう奴だった。いつだったか雨の日に傘を貸してくれと言ったら

「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」

 なんて言われたが意味が解らなかった。どうやら貸せる傘が無いという意味だったらしく、それならそう言ってほしかった。

「江戸時代の終わりに国学を完成させた人物だ」

「え、もしかしてそれ、テストに出る?」

 直人の質問に明神は直人を一瞥した。

「日本史のテストに出るけど、この国に日本人として産まれたのに、その国の歴史に興味がないなんて勿体ないと思う。知らなくても困りはしない。生きてはいける。けれどもそれなら蟻の門人と変わらないだろう」

 明神の言葉に直人は眉根を寄せた。

「因みに蟻の門人というのは、

 蟻の門人となることなかれ

 という福沢諭吉の学問のすゝめに出てくる言葉で……」

「わかった! わかんないことはわかったから!」

 直人は明神の話を遮った。直人はこの手の話についていけなかった。ゲームの話しならば直人も淀みなく話せるのだが、逆に明神はゲームに興味が無いのでそもそも話が噛み合わない。

 食事を終えて直人が着替えている間に明神が食器を片付けてくれている。母がやると言っているのを遮っていた。



 なんだかんだしているうちに予鈴が鳴り終わるぎりぎりに教室へ滑り込んだ。直人は息を切らせているのに、明神は平然と自分の席に着いている。同じ時間に家を出た筈だったのだが、道無き山道やら田んぼの畦道やらを駆けて行くのを追えなかった。

「そんだけ足速いなら体育の授業出ろよ」

 先生がまだ来ていないのでこっそり話しかけたが、明神は顔色一つ変えることなく

「平地は走れない」

 なんて言われて訳が解らなかった。

「ランニングみたいに腕を振ったり、上半身と下半身を撚る動きは腰に負担がかかるから苦手なんだ。山育ちだから傾斜や砂利道は慣れてるけど、アスファルトや校庭の地面じゃ踏み込んだ時に足腰をやられる」

「……全くわからん」

 直人がそう言うと、視線が黒板へ向かった。直人も先生が来た事に気付いて自分の席に着くが、納得いかなくてもやもやする。結局の所、ズル休みをしているんじゃないかと思った。多分あの足の速さなら直人よりも50m走の記録は上だろう。それなのに手を抜かれていたのだと思うとなんだか悔しかった。



「今日は仲良く二人で登校だなんて、マジで付き合ってるの?」

 休み時間にクラスメイトから早速そう話しかけられたが、今はそんな気分ではなかった。

「偶々だよ」

「あいつが鬼の一族の末裔だって噂本当?」

 思わず驚いて目を剥いた。その表情を見た行定 淳が意外そうな顔をする。

「え、マジで?」

「そんなわけ無いだろ? 本当、田舎だなぁ」

 そう言いつつも冷や汗が流れていた。

「何年か前に三人くらい汽車に轢かれたらしいじゃん。それの汽車の損害賠償だかなにかが払えなくて家族まで首吊ったとか夜逃げしたとかって……それが明神のせいだって本当?」

 直人の脳裏にまた、あの子供の足が降ってくる映像が思い起こされた。

「……知らない」

 言葉を絞り出すのがやっとだった。この里には山に住んでいた鬼がこの土地を治めていたという伝説が残っていた。その子孫が明神だとしても、その事件とは全く関係ないことだった。

「ふーん、じゃあ本人に聞いて来よ」

 行定がそう言って明神に近付いた。

「ちょっ……待てよ!」

「明神、お前が鬼の一族の末裔だって本当?」

 直人が止めようとしたが、行定がそう聞くと、参考書を読んでいた明神が不意に顔を上げた。じっと行定の顔を見つめるその表情はいつもと代わり映えしない。

「知らない」

 明神が呟く様に言うと、行定が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「は? 何年か前に汽車で子供が轢かれたのもお前のせいだって……」

「俺が子供を突き落としたわけでもないし、そもそもそれと俺の出生とは関係ないだろう。誰かを貶める免罪符でも探している暇があるなら、英単語の一つでも覚えろ。鬱陶しい」

 明神があしらうと、行定が明神の参考書を取り上げた。

「何だよ。勉強出来るからって調子に乗りやがって! ムカつくんだよそういう態度が!」

 行定が怒鳴ると、明神は深い溜息を吐いた。

「学校は勉強をしに来る場所だ。分からない所があるなら教科書を読むなり、先生に聞くなりすればいいのに、その時間を他人の勉強の邪魔をするのに充てているなんてつまらない人間だな」

「こんのっ……」

 行定の顔が真っ赤になっていた。頭に血が上り、拳を振り上げる。明神の顔面目掛けて振り下ろされた拳が、明神の右手に受け流され、そのまま体制を崩して行定は床に転がった。明神は落ちた参考書を拾うと、何事もなかったかのように参考書を開いていた。起き上がった行定が隣の席の椅子を持ち上げると、直人は思わず立ち塞がった。

「やめろよ!」

 直人が叫ぶが、行定が椅子を振り下ろした。直人がそれを止めようとすると急に窓から突風が吹いた。風に煽られた行定が尻餅を着くと、振り上げていた椅子が行定の頭に当たった。風が止むと、行定は頭を抑えて蹲っていた。

「痛ぃ……」

「大丈夫か?!」

 直人は行定の肩を持つと、そのまま保健室へ連れて行った。教室を出る前に一度振り返ったが、明神は何事も無かったかのように参考書を読んでいた。



 保健室で先生に診てもらうと、たんこぶが一つ出来ていた。氷嚢をあてている行定の隣に座ると、直人はこれくらいで済んで良かったと胸を撫で下ろしていた。

「行定、何で明神に突っかかるの? そりゃあ、最初に俺が余計な事を言ったせいなんだろうけど、あんなの冗談だって、誰でもわかるじゃん?」

 直人の質問に行定はつまらなそうな顔をしていた。

「だってムカつくだろ。頭いいの鼻にかけて人を馬鹿にしてさ」

 それは単なる行定の思い込みだと思うのだが、まあ表情が乏しいので誤解されやすいのは前からだった。

「あれで女子に人気があるなんて信じられないだろ」

 成程、要するに嫉妬しているのだと思った。女子に人気があるかどうかは直人にはよくわからないが、小学生の頃から度々ラブレターを貰っている所は見かけたことがあった。全員手酷くふられていたので、女泣かせな奴だと噂になっていた。そもそも明神は女に興味がない。勉強は出来るだろうが、性格に大分問題があると思う。特にあの表情の乏しさは致命的だと直人は思っていた。

「だからって暴力は良くないよ。まあテストで勝負したって勝てる気がしないからなんかスポーツで負かしてやったら?」

 とは言いつつも今朝、足の速さで負けた自分が言うのもなんかなぁと口籠る。

「スポーツって?」

 聞き返されて、何も思いつかなかった。

「相撲とかレスリングとか? 俺、ルールわからないけど……バスケットボールで、多くゴールに入れた方が勝ちにするとか……」

 と、言いかけて昔、一足立ちでのワンハンドシュートのやり方を教えて貰ったことがあった。身体の軸を捻らない様にするのだと言われた気がする。日本人は外国人とは体格も身体の造りも違うから外国人の真似をすると身体を痛める恐れがある。若い時は良くても年をとってから身体に不調を来す事があるから身体の使い方はよく考える様に言われた。その時に簡単な受け身のとり方まで教えられた気がする。よく思い返せばあの頃はよく転んで膝を擦りむいたりしていたのに、体育の授業や部活でも怪我をすることが無くなった気がする。

「剣道なら打ちのめせるかな?」

 行定の言葉に直人はどうだろうかと頭を悩ませた。明神が棒を持った所を見たことが無かったから、それならあるいは勝ち目があるかもしれないと直人も思った。



「……と、言うことがあって、昼休みにちょっと行定に付き合ってやってよ」

 直人は教室に戻ると明神に保健室での行定とのやり取りを説明した。

「は?」

 表情は変わらないが、何で自分が……と言いた気なのは伝わった。

「綱引きとかの方が良かった?」

「そういう問題じゃなくて、何で俺がそれに付き合う必要があるのかってこと……」

「行定の奴、自信失ってるだけだと思うんだよな。取り敢えず適当に相手して勝たしておいたら落ち着くんじゃないかと思って」

 直人の説明に明神は溜息を吐いた。

「俺には関係ない」

「そう言うなよ。一回だけ、な?」

 直人の懇願に明神は呆れた様に再び溜息を吐いていた。



 昼休み、直人が明神の腕を捕まえて体育館へ行くと、行定が既に来ていた。竹刀を投げて寄越すと、明神は行定を見据えた。

「防具は?」

「そんなの必要ねぇだろ」

 行定が吐いて捨てるように言うと、明神は溜息を吐いた。左手で竹刀を構えると、行定も直人も目を丸くした。直人も剣道に詳しくは無いが、普通竹刀は両手で持つものだろう。それに、明神は普段右利きだ。だから明神がど素人なのだと二人共思った。

「明神、剣道のやり方知ってる?」

「いや」

 割と何でも知っているので意外だった。それを知った行定がしめたと笑みを浮かべる。振りかぶった行定が明神の脳天目掛けて竹刀を振り下ろすと、明神は竹刀の切っ先で相手の竹刀を薙ぎ払う。そのまま態勢を崩しかけたが、行定は何とか持ち直した。

「何だ今の……」

 行定が明らかに動揺していた。もう一度構え直すが、明神はやはり左手一本で竹刀を構えている。

「まだするの?」

「明神、剣道は相手にユウコウダ? だっけ? 一本当てなきゃなんないんだよ確か……」

 直人がうろ覚えで話すと、明神は溜息を吐いた。

「防具着けてない奴を棒で撲る趣味はない」

 明神がそう言って竹刀を手放すと、行定が竹刀で突きをするが、明神が避けて行定の腕を掴むとそのまま行定を捻じ伏せた。行定は何をされたのかわからないまま、床に寝転んで天井を見上げている。

「え? 何今の?」

「小手返し」

「はあ?」

 聞き慣れない言葉に直人が困惑していると、明神は行定から離れて直人に向き合うと右手を取った。

「相手が刃物等で人を刺す場合、頭よりも腹部を狙う事が多い。これは頭よりも胴体の方が面積が広く、当る確率が高いから。腹部に短剣もしくは拳を突かれた場合、自分の身体の向きを相手の腕の側面に持っていく、左手で上から相手の小手を取り、相手と同じ方向を向いて足を引く。もう一歩下がってからもう一方の手を被せて相手を捻じ伏せる」

 明神が説明しながらゆっくりと直人に技をかけるが、直人は床に転ばされて首を傾げた。

「護身術の一つくらい学校で教えておいてもらいたいものだな」

 明神がそう言って体育館を後にすると、直人と行定は呆気に囚われていた。体育館へバスケをしに来て偶々のそ状況を目撃した女子が羨望の眼差しで明神を見つめていたことなど彼は知らない。



 部活を終えて家に帰ると、元気になったのか母が家で待っていた。直人が学校での出来事を話すと、母は夕飯を食べながら笑っていた。

「明神くんらしいわね」

「あいつらしいって、行定の奴また落ち込んでたんだぜ? 勝たしてやれって言ったのに……ゴシンジュツって何だよ」

「自分の身を護る術の事よ。あんたも明神くんと一緒に合気道行かせてたのに、真面目に行かないから……」

 母に言われ、直人は首を傾げた。

「いつ?」

「小学校に上がって直ぐ。一ヶ月もしないで嫌がったから直人は辞めちゃったけど、明神くんは続けてたと思うわよ。今は知らないけど」

 そんな子供の頃の事なんか覚えてない。

「それにさ、あいつ駆けっこ速いと思うんだよな。山道とか田んぼの畦道走っていくの速くて……」

 直人の話に春香は再び笑った。

「確かに逃げ足は早いのよね。私も捕まえれた事ないわ」

「絶対に体育サボりだよな」

「サボりかどうかはわからないけど、あの子バイトしてるからしんどいんだと思うわよ」

 春香に言われ、直人は首を傾げた。

「え、まだ中学生で……」

「新聞配達のバイトしてるわよ」

「まじかよ」

 そうこう話をしていると玄関が開いて明神が顔を覗かせた。春香が笑顔で手を振ると明神が家に上がる。

「熱は?」

「もう36°まで下がったから大丈夫よ。一緒にご飯食べない?」

 春香の申し出に明神は首を横に振った。台所に立つと食器を洗い始める。春香はそれを見るとにこりと笑った。

「明神くん、うちの子にならない?」

 春香が声をかけると、明神は手を止めて直人を一瞥した。春香が何度か養子にならないかと明神に迫っていたことは直人も知っていた。

「直人から聞いたんだけど、体育の授業休んでるんですって? バイトのしすぎでしんどいならうちで……」

「体育の授業を休んでいるのは、身体を撚る動作が多いから見学しているだけで、点付けや道具の準備や片付けはしているんだからサボっているわけじゃない。バイトは社会勉強の一貫で、それを理由に成績落としている訳でもないのにとやかく言われる筋合いない」

「そんな言い方……」

 直人が反論しようとすると春香が窘めた。

「明神くん、しんどい時にしんどいって言えない性格だから、給食費の事とか、修学旅行の積立金の事とか日々の生活費とかで手一杯な筈なのに、こんなに良くしてもらって申し訳ないなって思っただけなの。うちへ来ればいくらか援助出来るのにと思っただけなの。気を悪くしたならごめんね」

 春香の言葉に直人は俯いた。明神の母親は明神が幼い頃に亡くなってしまったらしい。詳しい事は知らないが、それが原因で父親も家を出て行ってしまい、明神は一人暮らしをしているらしい。春香が何度かうちの養子にならないかと提案していたが彼は断っていた。施設へ入るという手もあるのに、家から出るのを嫌がったのは、父親が帰ってくるのを待っているのではないだろうかと春香が話していた。それで生活に困ってバイトしているのだろう。

「自ら助け、自ら守り、自ら治め、自ら活きる、これらと同様な自尊なれば宜い

 そう思っていたが、金銭に基づく凡百の弊害に苦しんでいるように見え、あんたの安静を害しているのだとしたらそれは俺の身の振り方の問題だが、笑っているわけでも無いのに勘繰るのはよしてほしい」

「……もう少し解り易くしてもらえるかな?」

「人に頼らないで自分のことをちゃんとしていればそれで良いと思っていたけど、あんたが今言ったみたいに、給食費だの積立金だの煩わしい事に忙殺されてお金の事しか考えていない様に見せてしまったならそれは俺が悪いけど、悲しみや怒りを笑顔で堪えているわけでもないのに強がっているんじゃないかと勝手に思い込まないでほしい」

 明神の説明に春香は微笑した。

「因みに

 自ら助け、自ら守り、自ら治め、自ら活きる、これらと同様な自尊なれば宜い

 というのは渋沢栄一の論語と算盤の……」

「解ったから。直人のテストの点数が悪かったから興味持たせようと思ってくれているのは解ったから」

「ええ?! 俺?!」

「今朝、それってテストに出る? って直人が言った時にもしかしてと思って机の中を調べたら小テストの答案が出てきました」

 春香が得意気にそう言って直人の答案用紙を見せびらかした。直人が取ろうとしたが、時既に遅し。

「欠点は回避したのに……」

「32点は情けないわね」

 片付けが終わると明神は早々に帰ってしまった。春香が泊まって行かないかと聞いたが、そこまで暇ではないとあしらわれてしまった。真っ暗な夜へ帰って行く彼の姿を春香は笑顔で見送っていた。

「あの子が女の子だったら是が非でも直人のお嫁さんにしたのに、勿体無いわね」

 春香が呟くと直人は吹き出して咳き込んだ。

「やめろよ。そういうの」

 直人はそう言いつつも、明神が女装した姿を想像した。背が低いし、目鼻立ちが整っているので可愛いと思う。ただ、だからといってあの口の悪さと、何を考えているのか分からない表情の乏しさでは相手が苦労するだろうと沁沁思った。

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