なまえ

@88chama

第1話 そんなに沢山の名前、困る!

僕の名前は木村一。みんなは「はじめちゃん」と呼んでくれる。ワンちゃんとか、イッチとかのニックネームは3つあるが、お爺ちゃんが僕に呼びかける名前は色々で、ほんとに幾つあるか分からない。

 

 僕達がこの家に越して来たのは、お婆ちゃんが亡くなった3ヶ月ほど後のこと。お爺ちゃんを、一人ぼっちにさせられなかったからだ。本当にあんなに明るくて元気なお爺ちゃんだったのに、お葬式が終わってしばらくすると、まるで萎れた花のように、歩くのもご飯を食べるのも何をするにも、力が全然入っていないみたいで、いつものお爺ちゃんとはとても思えなかった。だから僕達は心配でたまらず、急いで引越しを決めたのだった。



今にも天井が落ちてきたり床が抜けてしまいそうでスリル満点の家だから、一緒に住むのをきっかけにお母さんは、お爺ちゃんの家とついでに隣に建っている古いアパートの建て替えを強く希望した。でもお爺ちゃんは、お母さんが

「ちょっとしゃれた洋風のマンションに・・」と言っただけで、プイと部屋からいなくなってしまうので、なかなか計画は進まなかった。



 空き部屋だけになったボロアパートは、僕と友達の楽しい遊び場になった。時々お爺ちゃんも仲間になって遊んだけれど、一番楽しそうなのはお爺ちゃんでワイワイ遊んでいると、ずっと昔にアパートの子供達と遊んだ時を思い出すらしく、

「いやぁ、けん坊があの時、押入れに隠れたまま眠っちゃったから、皆で探しまわって大変だったんだよ」

 などと、懐かしそうに押入れの中に入って、とても嬉しそうに話すのだった。



壊れそうなアパートを、このままにしてはおけないと訴え続けるお母さんの熱意に負けて、お爺ちゃんはとうとう新しいマンションのオーナーになった。 でも立派なマンションが出来上がったというのに、お爺ちゃんはあまり嬉しそうではなかった。


 お母さんのたっての希望で、ワンルームマンションにしたので、この建物には僕達の他は一人暮しの学生や、会社にお勤めの人ばかりが住むことになった。初めから分かってはいたものの、やはりこれではお爺ちゃんの理想とは遠く離れたものだった。


 以前のアパートは、お爺ちゃんの大好きな落語に出てくる長屋のようで、大勢の人達がまるで一つの家族のように、お互いの部屋を行き来して、おしゃべりしたりお茶を飲んだり、細々した用事を手伝いあったりしていた。


 アルバムにある沢山の写真の中で、楽しそうに笑っている子供達は、このアパートの皆が一緒になって育てて大きくなったんだよって、お爺ちゃんは嬉しそうに、そしてとても懐かしそうに見せてくれる。それらは本当に、皆の大きな笑い声が聞えてくるような写真ばかりだった。


 大家さんと呼ばれ色々と頼りにされていたお爺ちゃん達は、それが何よりも嬉しくて二人はいつも皆が気持ちよく楽しく暮らせるようにと、ピカピカに掃除をしたり季節ごとに行事を作って、皆で一緒に楽しんだりしたそうだ。


ではこのマンションの住人はといえば、お勤めの人達の朝は忙しくて、お爺ちゃんにろくに挨拶する暇もない程だし、夜は遅くていつ帰ったかも分からないことが多い。学校をさぼりがちな学生さん達は、お爺ちゃんが眠る頃に起きだし、そろそろ起きようかと思う頃に眠りについたりもする。

 そんな訳で、お爺ちゃんはこの住人達とはあまり親しく話す機会がないから、とてもつまらないとぼやいてばかりいる。



 昔は家を貸す方は大家さん、借りる方を店子と言って、その間柄はちょっとした親子のようなものだったし、住人達はお互いを家族のように思い、おしょう油などの貸し借りや子供を預かってあげたりは毎日のことだった。病気になれば看病したり、誰かが亡くなったりすれば、自分のことのように悲しんで、残された人の力になりたいと頑張ったものだそうだ。



 家族であった皆の数えきれないほどの名前を、もしかしてお爺ちゃんは懐かしみながら、僕の名前に代えて遊んでいるのかも知れないな。他人に喜んでもらうことが嬉しいお爺ちゃんなのに、どんなに自分は「大家」なのだからってアピールしてみても、今はお爺ちゃんの出番は全くない。


 そんな物足りない気持ちを察してか、お母さんが代わりに色々とお願いをきいてもらっている。

「大家さん、この荷物運んでいただけないかしら」

「大家さん、電球が切れちゃったの。取り替えていただけません?」

 などと言うと、

「がってん、おやすいご用だよ、おさきさん」

 と、嬉しそうにお母さんの頼みに応えている。


お母さんには待子という名前があるのに、「このおさき、大家さんを頼りにして暮らしておりますのよぉ」と真剣な顔で調子を合わせている。丁度そこに、僕がいたりすればなおのこと

「おお、与太、こっちぃ来な。お前にも大家さんからいいものあげよう」

 と言って、お爺ちゃんは嬉しそうにおこずかいをくれるのだから、僕もうんと助かっている。


 でも本当はこの名前には大いに不満もあるのだけど、お母さんに

「まぁ大家さん、いつもすみません。ほら与太、お礼を言うのよ」

 と無理やり頭を押されると、与太になった僕はおこづかいが嬉しいから、大きな声でお礼を言う。

 そして、そればかりか与太の他にも、時々ぼくは「金坊、お湯屋へいくぞ」と言われて銭湯に連れて行ってもらうし、おつかいに行かされる時には定吉になったり、本屋へはぜん公、釣堀へは半ちゃんとなってお供をする。


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