愛しくて悲しい僕ら

寺音

プロローグ

 深く、息を吐いた。白くなったそれが冷えた空気と混じり合い、町に溶け込んでいく。


 三月後半、春とは言え、早朝ともなればまだ冬のような寒さだ。

 薄手のカーディガンの下は長袖のTシャツ一枚。お気に入りのプリーツスカートも完全に春物だ。うっかり薄着で出てきてしまった彼女は、背中を丸めて自分の両手を擦り合わせる。


 地元民や学生で賑わっている商店街も、今はとても静かだ。なぜか懐かしく感じる八百屋や精肉店、彼女お気に入りの喫茶店も、少し錆びた灰色のシャッターを下ろして開店の時を待っている。

 アーケードを一人歩いていると、まるで別世界に迷い込んだような気がして気分は高揚した。


 聞こえるのはパンプスの踵がコンクリートにぶつかる音と、携帯電話につけた鈴の音くらいなものだ。歩く度、カーディガンのポケットの中で軽やかな音を立てている。


 早く目が覚めてしまったわりには、体も心も羽根のように軽い。

 何か良い夢でもみただろうかと彼女は首を捻った。


 今度はもっと奥まで行ってみよう。そう思い一段と大きく足を踏み出す。


 足裏が地面についたと同時に、それは聞こえた。

 彼女の心臓が大きく跳ねる。


 誰かの声だ。

 ただの声、ではない。歌だ。誰かがこの先で歌っている。

 誰が、歌っているのだろう。

 好奇心に突き動かされ、彼女は再び一歩ずつ、歌が聞こえる方へ足を進めていく。


 スポーツ用品店の隣でアーケードが途切れた。桜の木と花壇で周囲を囲まれた広場が見える。花壇の前にはいくつかベンチが置かれていて、その中の一つに青年が腰かけ、歌を歌っていた。


 ジーンズに薄手のパーカー、シンプルな格好でベンチに背を預け、彼は空を見上げている。枝からこぼれ落ちた桜の花びらが雪のように舞い降りた。

 その桜に語りかけるように、彼の唇がメロディを紡ぐ。低くて柔らかい声。少々ぎこちない歌声は、早朝の冷えた空気を包んで温めていくようで、彼女は感嘆の息を吐く。



 ふと彼女は、どこかでこの歌を聞いたことがあると思った。

 この前行った喫茶店のBGM、友達がカラオケで歌っていた歌、どれも違う気がする。もっと最近、いや、ついさっき。


 朝日で青年の頬が薄ぼんやりと輝いている。彼はこちらには気づかず、夢見るような眼差しで歌い続けていた。


 夢。そうだ、夢だ。この歌を聞いたのは、今朝見た夢の中だ。


 それに気づいた途端、今朝の夢の内容もするすると思い出される。

 何故、自分の心がこんなに穏やかなのか、その理由も。


 あれは、青年の歌声のように切なく温かく優しい、不思議な夢だった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る