第2話 復讐

 数年後。

 ある戸建の家の中は、ホームパーティのように飾り付けられていた。ピカピカのリビングに、芳雄が立っている。左薬指にはシルバーの指輪。

 玄関に、奈々子が入った。手を繋ぎ、とてとて歩く幼児も入る。くりくりした目の、あいくるしい女の子。安枝だ。

 奈々子は家を見渡した。


「わあ。大きな家。それにきれいに飾ったね」

「おまえたちを気持ちよく迎えたくて、がんばったんだぞ。大手のゼネコンにも再就職したんだ」

「もう一度確認だけど、もうあんなことしない?」

「ああ、誓うよ。安枝も大きくなったなあ」

「パパ、会いたかった」


 芳雄のほうへ安枝はたたたと駆け、ぎゅっと抱きついてきた。だっこしてやった。

 ほくそ笑む。

 どうだ『安枝』。俺はこんなに幸せだぞ。

 この家の下のコンクリートには、前妻の死体が沈んでいる。あの工事現場だった場所だから。

 奈々子たちを呼び戻すついでに、ちょうどよかった。この家の下に埋まった前妻に、今の自分がいかに幸せかを見せつけ、屈辱を味合わせ、今までの憂さ晴らそう。

  



 夜の寝室。同じベッドで、芳雄は奈々子と眠る。


「今日いいだろ」


 芳雄はうとうとする奈々子に覆いかぶさった。


「うん」


 ギィっと、ドアのほうから音がした。


「なにしてるの?」


 びくりとした。

 聞き覚えのある声。前妻の『安枝』の声。

 奈々子が起き上がる。ベッドから降りると、急いでドアのほうへ向かった。


「子供は早く寝なさい」 


 小さな安枝が、クリクリした目でドアの隙間から2人を覗いている。

 ほっとした。『安枝』ではない。

 奈々子はパタンとドアを閉める。ベッドにもぐり、芳雄の隣に寄り添った。


「続きね」


 ギィっと、安枝がまたドアを開けた。


「ねえなにしてるの?」

「早く寝なさいったら」


 奈々子はまたドアを閉めた。

 安枝がまたドアを開ける。


「なにしてるの? なんで教えてくれないの? ねえなんなの? なにしてるの?」

「こら。ひとりで眠れないの?」


 奈々子が安枝の小さな背をなで、寝室に連れて行った。

 ひとりになった芳雄は、じわじわ恐怖にむしばまれた。

 安枝のあのしつこさは一体なんだ?

 『安枝』の呪いか? 『安枝』の霊でもいるのか?

 いや、そんなはずない。そんなはず……。



  

 休日の閑静な住宅街。奈々子は安枝の小さな手を引き、道を歩く。たむろする近所の人たちに声をかけた。


「こんにちは。犬飼の妻です」

「ああ、単身赴任の犬飼さんの?」

「え、ええ。でも身の回りが落ち着いてきたので、私もこっちに来て同居することにしたんです」


 芳雄は適当な嘘をついていたようだ。


「そう。奥さんこんなに若くてきれいな人だったんだ」

「犬飼さんの奥さんなんていいわよねえ。とっても優しい旦那さんで。年収もいいし。うらやましい」

「子供さんあそこの幼稚園通わせるの? だったら私たちママ友ね」

「はい。よろしくお願いします」

「堅苦しくしないで。敬語にしなくていいわよ」

「あ、うん。よろしくね」


 笑い声で溢れた。

 奈々子は満足した。うまくやっていけそうだ。

 安枝のつぶらな瞳が、暗くなる。

 



 夕刻になると、幼稚園まで、奈々子が安枝を迎えに行った。この間知り合ったママ友たちが、たむろしているのを見かける。


「お疲れ。安枝まだ遊んでる?」


 ママ友たちは奈々子を避け、ひそひそ話した。

 戸惑っていると、保育士がやってくる。冷たい目を向けられた。


「犬飼さん。安枝ちゃんのこと、児童相談所に報告しましたから」

「え?」

 



 建設機械がせわしなく動く、建設現場。

 作業服の芳雄は、現場監督をしていた。


「あともう少しだな」


 職員や作業員たちは笑う。


「犬飼所長のおかげで工期も短くなったし、現場も黒字になりましたよ」

「能力のある人が来てくれたおかげで助かりました」


 芳雄は満足した。

 パトカーのサイレンの音がする。


「なんだ?」


 現場にどかどかと、警察が来た。


「犬飼芳雄さんはいらっしゃいますか?」

「私ですが?」

「事情をお聞かせ願いますか? 娘さんのことで」


 芳雄は混乱した。職員たちがヒソヒソ話す。



 

 家に帰ると、奈々子は机に突っ伏し、しくしく泣いていた。

 芳雄は部屋をぐるぐる歩き回った。


「違う。全部誤解だ」

「なんで安枝にあんなことしたのよ。なんで」

「俺は知らない。実の娘にそんなことするわけないだろ。安枝が勝手に俺たちの寝室を見て、よくわからずに口走っただけだ」

「もうママ友にもご近所にも合わせる顔がないじゃない。安枝も児相に取られちゃうし」

「そんなくだらないことで泣くな! 俺なんて仕事がなくなったんだぞ!」

「自分のことばっかり」


 カッとなり、奈々子を殴った。どんなに泣き喚こうが、殴るのをやめない。

 ピンポーンとチャイムが鳴った。

 芳雄は殴るのをやめ、ドアを開ける。


「パパー」


 現れた小さな安枝が、芳雄に抱きついた。児童相談所の職員が、玄関先にまっすぐ立つ。


「犬飼さんの説明と安枝ちゃんの強い希望で、お家に帰ってもらうことになりました」

「ああ、どうも」

「犬飼さんは証拠不十分で、これ以上捜査されないんですね」


 児相職員は、殴られた奈々子と、芳雄を見比べた。冷たい目を芳雄に向けてくる。心底軽蔑した目。

 芳雄は目を逸らした。その目を見るのがなぜだか怖い。

 職員は帰っていった。奈々子が安枝の柔らかい肩をさする。


「安枝、本当なの? パパがあんなことしたって」

「うん。もう20年くらい前だけど」

「20年前?」

「あの頃のパパは優しかったの。だから安枝もパパが好きだったの。幸せだったの」

『あの頃のあなたは優しかったのに』


 聞き覚えのあるセリフ。殺した前妻が、口癖のように言っていたセリフ。


「あの女……。そうか、あの女が安枝に余計なことを教えたんだな」


 霊にでもなって。

 芳雄はしこたま壁を蹴った。ありったけの物を壊し、空中に放り投げる。


「消えろ豚女!」

「あなた、やめて」


 止めようとする奈々子も殴った。


「この豚女。頭空っぽのくせに俺に歯向かうのか? おまえみたいな女を養ってやってるだけ感謝しろ」


 何度も何度も殴りつけた。

 安枝はテーブルの下に隠れる。



 

 数年後。

 以前働いていたのとは違う建設会社の本社に、芳雄は通っていた。大手なので、職場は高い高いビルの上にある。


 芳雄は職場の社員たちに拍手され、社長に肩を叩かれた。


「おめでとう。君はこれから建築部の部長だ。我が社のためにこれからもよろしく頼むよ」

「はい。より一層精進いたします」

 



 キャバクラに行くと、芳雄と芳雄の取り巻きは、ドレスの若い女の子たちに囲まれた。

 取り巻きがたたえる。


「すごいですね犬飼さん。中途入社なのにすぐに部長になるなんて」


 キャバクラの女の子たちが、黄色い声をあげた。


「えー、そうなんだ。すごーい」

「赤字現現場を連続で黒字現場にしましたからね。よその部の部長も泣いて喜んでましたよ」

「いや。あれは現場のみんなや、俺の家族が俺を支えてくれたおかげだよ。それにいろんな運も重なった。俺自身はもっと経験も積んで精進しないと」


 わあっとみんな歓声をあげた。


「謙虚」

「犬飼さんが次の社長になったらいいのに」

「私は犬飼さんが旦那さんだったらいいのになって思います」


 女の子が、芳雄の腕に寄りかかってきた。

 気分がよくなり笑う。

 女の子の一人が、こそっと話しかけてきた。


「犬飼さん。この後2人で飲み直しませんか?」

「いいね。君は気の利く子だ。うちの妻にも見習ってほしいよ。自分勝手でグータラなんだ」



 

 大きな家に帰れば、やせ細った奈々子を何度も殴る。


「誰のおかげで食えてると思ってる。俺様はこの若さで部長になる能力のある男なんだぞ。口のきき方に気をつけろ」


 奈々子は床にうずくまり、ただ泣くだけだった。

 テーブルの下に、小学生になった安枝が隠れる。



 

 小学校の教室。

 机に座った子供たちがそわそわし、教室のうしろにいる大人たちはにこにこしていた。

 今日は授業参観だ。

 前の黒板には、白い文字で『作文 テーマ わたしの家族』と書かれている。

 子供たちはひとりひとり立ち上がり、作文を読み上げた。


「私のパパは力持ちでとってもカッコいいです」

「私のママはいつもおいしい料理を作ってくれてとっても優しいです」


 ひとりが読み終わったら、生徒も、親も、先生も、一斉に拍手した。

 大人たちの中には、芳雄と奈々子もいる。お互いによそよそしい。

 机に座った安枝が、くるっと後ろを向く。無邪気に父と母に手を振た。

 芳雄がにこやかに手を振りかえした。奈々子はいぶかしそうに見上げた。

 家では安枝も馬鹿にして殴るくせに。

 よその家の親が、こそこそふたりに話しかけた。


「仲良しでいいですね。うちなんて、子供がすごく反抗してきて大変なのに。うらやましい」

「お父さんが来るなんてめったにないですよ。娘さん想いなんですね」


 奈々子は青ざめ、うつむいた。

 芳雄は満足した。このために来たのだ。この私立の小学校は家から遠い地域にあるので、誰も安枝の幼稚園時代の『事件』を知らない。


「次は犬飼安枝さん。よろしくお願いします」


 安枝が立ち上がる。自分の作文を目の高さまで持ち上げ、大声で読み上げた。


「はい。私の家族を発表します。私のママはいつも泣いています。理由はパパがいつもママを怒鳴って叩くからです。私は怖くてテーブルの下に隠れます。するとパパは私を引っ張り出して、私をできそこないと言って叩きます」


 教室はしんとした。芳雄も奈々子も凍りつく。


「パパがぶたおんな、誰が食わせてやってると言うと、ママはもっと泣いてしまいます。でも私はパパが大好きです。何年か前に、パパは私にいいことしようと言って、私の体中を触りました。パパに触られたところはとっても気持ちよくなりました」

「あ……、ああ……」


 奈々子が両手で顔を覆い、耐えきれないといった風に泣き出した。


「この前ママがいないところで、パパが知らない女の人とチューしていました。また別の日にはまた別の人と。そのまた別の日にもそのまた別の人と」

「安枝、やめなさい」

「パパはとっても嬉しそうでした。パパが嬉しいと私も嬉しい。だって私のパパだもん。そんなパパは新しい会社ですぐに出世しました。そのうち社長にでもなるんじゃない? きゃははは」


 親が、子供が、先生が、じろりと芳雄のほうを見た。冷たい目。心底軽蔑するような眼差し。

 泣く奈々子が、さっと教室を飛び出した。


「おい」


 芳雄が奈々子を追いかける。

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