阿修羅の子
Meg
第1話 殺人
夕暮れの、ある建設現場。家の骨組みが組み立てられ、地面にはコンクリートが流されている。
作業服の
若い職場や作業員に、笑顔を作って言った。
「おまえら疲れただろ。今日は焼肉奢ってやる」
「さすが所長」
「俺所長に一生ついていきます」
みんな大喜び。
「犬飼所長、ちょっとよろしいですか?」
甘い声を出しながら、若い女がやってきた。現場事務所の派遣の事務員、奈々子。芳雄より20歳年下。
芳雄は奈々子の、広い腰のあたりを凝視した。
現場事務所の物陰へ行くと、芳雄は奈々子のはち切れそうな胸や尻を撫でまわした。唇をはむ。
「ねえ、いつになったら結婚してくれるの? 約束したじゃない」
「もう少し待てよ。今離婚調停中だから」
「まだやってんの?」
「あの豚女しつこいんだよ。けど子供いねえから親権でもめない。楽勝だぜ」
深夜、酔っ払っていい気分の芳雄は、ガチャリと玄関のドアを開けた。
リビングには、電気が付いている。
「うぃー。おい
ふらふらしながら、リビングの椅子にどさりと座った。テーブルの上に無数の写真が置いてある。
芳雄と奈々子が手を繋いでいる写真。
一緒にドライブしている写真。
物陰でキスをしている写真。
ホテルに入る写真。
頭が真っ白になった。
「毎晩毎晩残業って言ってたくせに。お盛んね」
驚いて振り向く。
背後に、痩せこけ、あざだらけで、蒼白な、亡霊のような女が立っていた。妻の安枝。あざは芳雄が殴った跡だ。
「慰謝料、たっぷりとらせてもらいますから」
「豚女。裁判のためにこんなもの捏造してたのか? その金は誰の金だ? そもそもてめえは誰の金で暮らしてる?」
「そう言って私を奴隷にしてきたわよね。押し付けがましい」
安枝は芳雄を淡々と眺めた。冷たい目、心底軽蔑したような目。
リビングのカラーボックスの上に、スタンドのついたフォトフレームが置かれている。新婚の頃の、芳雄と安枝の笑顔の写真。芳雄は若く、安枝はふっくらとして肌艶がよかった。
「あの頃のあなたは優しかったのに。あの頃の思い出があったから我慢できたのに。優しいあなたに戻ると信じてたのに」
安枝はフォトフレームを、写真が見えないように倒した。
「その写真、弁護士さんに全部コピーしてもらってるから。DVの証拠や音声も。あなたの不倫やDVの証拠、会社にも送ってやる」
「そんなことしたらおまえが侮辱罪で逮捕されるだけだぞ。おまえにできるわけがない。な。わかるだろ。俺はおまえのためを思って言ってるんだ」
「嘘つき。自分の世間体を気にしてるだけのくせに。私に謝ることはしないの?」
「待ってくれ。写真のことだけはやめてくれ」
「あなたの親や知り合い全員にもバラしてやる。ざまあみろ。クズ男」
安枝はさっとリビングから出ていこうとした。
芳雄はとっさに、近くにあったゴルフクラブを握りしめた。安枝の頭めがけ、思い切り振り上げる。
気づけば、安枝は木材か土塊のように倒れていた。頭から血をどくどくと流している。
芳雄はぜいぜい息をした。
「おまえみたいな豚女と暮らしてやっただけ感謝しろ」
夜が明けないうちに、芳雄は建設現場まで車を走らせた。
場内の鍵をあけ、現場に入る。さむざむとした現場に、家の骨組みがさみしく立っていた。
キョロキョロ見渡し、周囲に誰もいないことを確認する。車のトランクから、やせ細り、今にも折れそうな安枝の死体を降ろした。固まっていないコンクリートに、ポシャリと放り込んだ。
アルカリのにおいがした。
それからしばらく経った。
建設会社の本社ビルで、芳雄と奈々子は職員たちから花束を受け取った。さかんに拍手される。
ふたりとも左薬指に、きらっと照り光るシルバーの指輪をしていた。
「おめでとう。君たちが結婚するなんてね」
「ありがとうございます。今度こそ幸せな家庭を築きます。前の妻は男を作って夜逃げしてしまいましたから。弁護士の尽力でようやく公的にも離婚できました」
職員たちはひそひそと、「犬飼さん気の毒」
「前の奥さんひどいね」
「でもおかげでもっといい相手と結婚できたじゃん。結果オーライだね」
「若くてきれいな奥さん。うらやましいな」
奈々子が芳雄を見上げ、はにかむように笑った。
芳雄も彼女を見下ろし、にこりとする。
やっぱり女は美人で頭が空っぽで若いのに限るな。
数年後。穏やかな表情の奈々子が、病室で赤ちゃんを抱っこし、授乳をしていた。赤ちゃんは女の子だ。パタパタ小さな腕をふり、澄んだ無垢な目で奈々子を見つめている。
そばに芳雄が座った。
「俺、ずっと子供がほしかったんだ。奈々子のおかげやっと願いが叶った」
子供がいたほうが世間体がいいからな。
奈々子はほほえんだ。赤ちゃんは乳房から口をはなし、まぶたを閉じてうとうとしだす。
芳雄は赤ちゃんの丸い頬に触ろうとした。
ギャアアっと、勢いよくギャン泣きされた。
奈々子は、泣き喚く赤ちゃんの小さな背中を、とんとんとあやすように叩く。
「びっくりしたね。安枝」
その名を聞き、芳雄は腰が抜けそうだった。
「は? なんだよその名前。女の子なら苺にするとか言ってただろ」
「この子の顔みたら頭に浮かんできたの。安枝。いい名前でしょ」
「やめろよ。ババアみたいな名前じゃん」
「何よその言い方」
ギャアア、ギャアアと、赤ちゃんの泣き声がひときわ大きくなる。
「あなたのせいで泣いちゃったじゃない。出てって」
「ちっ」
赤ちゃん、安枝と暮らしだしてから、しばらく経った。芳雄が家に帰ると、リビングの床に奈々子と安枝が寝ている。スヤスヤと寝息を立てて。
「おい。今日は仕事が早く終わったぞ。飯は?」
奈々子のまぶたはぴくりともしなかった。
芳雄は怒鳴る。
「おい! 飯はどうした!」
寝ながら奈々子も怒鳴った。
「うるさい! 今寝てんの! ご飯ぐらい自分で作って!」
「なんだと? 調子に乗るな」
芳雄は脅すように、ドカッと壁を殴った。何度も何度も殴った。穴が空きそうな勢いでだ。
奈々子はしぶしぶ起き上がる。
「安枝が夜通し泣くから昼寝てるんじゃん」
「知るか! 早く飯作れ!」
「子育て何も手伝わないくせに、偉そうに」
カッと頭に血がのぼった。奈々子の胸ぐらをつかむと、顔に拳を叩き入れる。
「やめて!」
手を振り、奈々子は泣きした。安枝はすやすや寝たままだ。
ピンポーン、と、チャイムの音がした。
「でろ」
芳雄はどかっと再び椅子に座った。
奈々子はうつろな目で、インターホンの受話器を取る。
「はい。犬飼です」
中年の女性が、インターホンの画面に映っていた。
『あの、管理人ですけど大丈夫ですか? 周りの部屋の人から知らされたんですが、さっきからその、音が……』
「あ、あの……」
『夜通し赤ちゃんの泣き声がしてるのと関係ありますか?』
すぐさま芳雄が奈々子から受話器を奪い、ぺこぺこ取り繕った。
「なんでもありません。大きな物を落としまして。お騒がせしてしまい申し訳ありません」
突然、ギャアっと安枝がギャン泣きしだした。世界が終わったかのような叫びだ。
『あ……。やっぱり……』
中年の女性は青ざめた。
「違います」
芳雄はガシャンと受話器を置いた。
途端に安枝はすやすやと静かに寝息をたてる。
「あいつ、わざとやったのか?」
「そんなわけないじゃん。赤ちゃんだよ?」
夜になると、オギャー、オギャーと安枝が泣き続けた。
奈々子が疲れたように安枝を抱きあげ、授乳する。おしめを変えた。抱き上げてあやした。
なにをやっても安枝は泣き止まない。
ベッドで寝ていた芳雄は、バッと起き上がった。
「うるさい! 俺は明日仕事なんだぞ」
「でも」
「暇な主婦とは違う。早く泣き止ませろ」
「ミルクひとつあげないくせに偉そうに」
芳雄はムカムカとして、奈々子を床に倒し、何度も殴った。
「痛い! やめて!」
奈々子が喚くと、オギャーっと安枝の泣き声がひどくなった。
これまで聞いたことのない、絶叫に近い声。
「うるさい! こんなやつ、最初からいなければよかった」
芳雄は安枝をつかもうとした。奈々子にしがみつかれる。
「やめて! 安枝には手を出さないで!」
「この野郎。離せ!」
外からパトカーの音がした。ドンドンとドアが叩かれる。
「大丈夫ですか? 開けてください! 虐待があると通報がありました」
「助けて! このままじゃ殺される」
奈々子は安枝を抱え、ドアのほうへ逃げた。
芳雄は怒って、周囲の物を床に落として壊した。
建設会社の本社。芳雄は、デスクの前に座る部長の言葉を聞き、愕然とした。
「懲戒処分……?」
「上が君に色々と不祥事があったことを聞いたそうだ。もう明日から現場にいかなくていいから」
「待ってください。誰が言ったんですか? 奈々子か? あの女、散々金をやったのに……」
職員がざわざわし始めた。
「犬飼さん赤ちゃんに虐待したんだって。奥さん赤ちゃん連れて逃げたって」
「ありえない。人間じゃないよ」
「外面はいいけど家では……って噂、本当だったんだ」
芳雄は歯軋りした。
俺の世間体が。
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