第2話④

絢音の住まいは、京都市内から少し離れた閑静な住宅街に佇む、小さな1DKのアパートだった。


部屋に入ってまず初めに驚いたのは、壁際に並べられた本棚の群れだった。


どの棚にもぎっしり本が詰められ、そのほとんどが、かの文豪…太宰治のものだった。


「なんや…ほんまに太宰、好きなんやな。」


既に絶版になった珍しい作品集を手に取りながら聞いてきた藤次に、台所でコーヒーを用意していた絢音は目を輝かせながら答える。


「大好き!なんだか、素敵じゃない?世界観が。」


「ふぅーん。世界観なぁ…。ワシは無教養やさかい、こう言うのはなんやよう分からんから何とも言えへんけど、ええことやん?何かに夢中なのって。」


パラパラと適当に捲って棚に戻す藤次に、絢音はコーヒーの入ったマグカップを差し出す。


「じゃあ…良かったら何か読んでみない?走れメロスとか?」


この出版社の読みやすいわよと言いながら本を手に取り、絢音は当たり前のように藤次の横に腰を下ろす。


楽しそうに本の内容を話している絢音。しかし藤次は、いつも以上に距離を詰められ、柔らかい身体の感触を肩や腕に感じて、今すぐ押し倒したい衝動を必死に抑えていて、それを聞いてやる余裕などなかった。


「聞いてる?藤次さん?」


反応がないのを訝しみ、自分を見上げる絢音。


纏めた髪の毛から流れた後毛と、長いまつ毛。黒い大きな瞳に映る自分の影。形の良い唇。


何もかもが愛しくて、触れたくて、藤次はマグカップをテーブルに置くと、絢音の頬に手を滑らし、軽く口付ける。


「と、藤次…さ……んっ!」


戸惑う絢音に構わず、今度は舌を口腔に挿し入れ、深く口付ける。


頭の中では、止めておけと理性が警鐘を鳴らすが、抑えていた欲求は強く、抗えない。


髪を留めていた飾りを解き、長い黒髪が流れるように露わになると、憂いを帯びた表情が益々色っぽくなり、藤次の情欲を更に煽る。


「藤次さん…私…」


唇が離れる刹那の瞬間、行為の中断を訴えるかのような絢音の震えた声すら、今は愛しくて仕方なかった。


「分かってる……せやけど、ワシもう、我慢できん…」


息をするのももどかしいくらい、何度も深く口付けながら、服の上から身体の線をなぞるように手で愛撫していくと、絢音の吐息にも徐々に熱がこもってくる。


「好きや…」


俄に潤んだ瞳を見つめて、これから先の行為を許して欲しいと囁く代わりに呟いた言葉。


「わ、私も……好き…だから、」


クッと息を呑んで、決心したように絢音は藤次を見据える。


「だから私…ちゃんと……したい……です……」


徐々に消えていく声でそう言った彼女が可愛くて、藤次は優しく笑いながら、絢音の頭を撫でて、額にキスを落とす。


「優しいするから…怖がらんでええで…力抜いて?」


「うん…」


頷き、自分に身を委ねる絢音の身体をそっと横たえさせ、唇にキスを落としながらブラウスのボタンに手を掛け、一つ一つゆっくり外して行く。


怖がらせないように、思い出させないように、早る気持ちを必死に抑えて、ゆっくりゆっくり、壊れ物を扱うように行為を進めて行く。


記憶を書き換えてみせる。


そんな決意を込めて、首筋にキスを落とし、赤い花を咲かせる。


「可愛いで…綺麗や…」


はだけたブラウスから垣間見える白い肌と、レースが愛らしい水色の下着に包まれた、少し小ぶりな柔らかい膨らみ。


「で、でも私……小さいから…」


「大きけりゃエエいうもんちゃうで?」


可愛い可愛いと言いながら、恥じらう絢音の頬にキスをする。


本当は巨乳派だが、小さいのもそれなりに良い。


絢音だからそう思うのか。


そんな事を考えながら、下着の中に手を入れて、優しく胸を愛撫する。


その度に、小さな口から溢れる声一つ一つが気持ち良くて、もっと聞きたい、鳴かせたいと、固くなった胸の先に、そっとキスをすると、一際甲高い声が響く。


逃げるように身体を捩るのを押さえて、舌を使って巧みに転がしたり吸い上げたりして、激しくなる喘ぎ声に聞きいる。


スカートを捲り、太腿をなぞるように撫でながら、下着越しに秘所に触れると、じんわりと濡れていたので、痛い思いはさせてないのかとホッと胸を撫で下ろし、徐に自分のシャツに手を掛け脱ぎ捨てる。


しかし、露わになった藤次の身体を見た瞬間、絢音の中で何かが軋み始める。


「もっと可愛い声…聞かせて…」


耳元で囁かれる優しい声。


そう。これは違う。この人は違う。


頭では分かっているが、どす黒い闇が脳裏に浮かび上がり、次第に過去の記憶が蘇る。


手足を抑え付けられ、何度も殴られ蹴られ、強引に行為を迫られる記憶。


身体の上を、複数の男達が変わるがわる通り過ぎては、嬲られ、汚され、泣いて許しを乞うても止められず、朝か夜かも分からない狭い空間で、ひたすら犯されていた恐怖が、一気に溢れる。


「いや……いやあああああ!!!!」


「ッ!!」


興奮が止まらなかった。


投げ出していた手が途端に意思を持ち、藤次の顎のあたりを叩く。


爪先が肉に食い込み切れる感触が走り、藤次が身体から離れると、絢音はハッと我に返り青ざめる。


「ご、ごめんなさい!私…こんな…私…」


押さえた顎から滲む血を見て、ポロポロと涙が溢れてくる。


傷つけてしまった。


大切な人を。


本当に、心から愛していたから、結ばれたいと思ったのに。


どうして……


「泣かんでええて…こんなん、大したことあらへん。な?」


それでも泣きじゃくる絢音を、藤次はそっと抱き締める。


「ごめんな…」


腕の中で、何度も頭を振り、違うと訴える。


「好きよ……」


「うん。ワシも、好きや…」


嗚咽で潰れた喉を必死に鳴らして囁いた言葉に応えて、藤次は絢音が落ち着くまで、彼女の長い髪を撫でた。


隣の部屋の軒先に吊るされた風鈴が、夏の熱を帯びた風に揺られ、静かに鳴った…


暗い夜の帳が深みを増した深夜、泣き疲れて眠りに落ちた絢音をベッドに寝かせて、藤次は部屋を後にした。



「(広島の…安藤浩一で検索すれば、見れると思う。)」


付き合って間もない頃に伝えられた、一人の男の名前。


検察の事件や犯罪者履歴で照会してみると、浮かび上がったのは、一つの事件だった。


「あー。これ、私も見ました。確か主犯の男、最高裁まで争いましたよね?」


「ああ…そうみたいやな…」


佐保子から差し出されたコーヒーを口に運びながら、藤次は絢音の心の闇を見つめる。


事件は20年前の3月の深夜。帰宅途中の絢音は、後ろから来たワンボックスカーに無理やり押し込まれ、その場で強姦。


その後、安藤浩一の住むアパートに3日監禁され、彼の仲間の…当時未成年だった為名前は伏せられていた少年3人にも暴行され続けたと言う…凄惨なものだった。


「アパートの大家さんが異変に気づいて通報してくれたから発覚しましたけど…誰も気づいてなかったらどうなってたか…」


次の被告人の資料を整理し始めながら、佐保子は続ける。


「少年達は直ぐに罪を認めて少年院に送られましたが、安藤は最後まで抵抗しましたよね。あれは合意だったって…」


「あぁ。結局、最高裁で有罪が確定して、6年服役か…」


「以降再犯はないみたいですけど、怖いですよね?こんなのが平然と街中にいるなんて……で、この事件が、どうかしたんですか?」


「ん?ああいや、別に…ちょっとな。」


「?」


不思議そうに自分を見つめる佐保子から逃げるように、トイレと言って、藤次は検事室を後にする。


その時感じた、言い表せない怒りが、ハンドルを握る力を強くする。


「(藤次さん…)」


脳裏に浮かぶ、幸せそうに微笑む絢音。


その笑顔を奪った男は、たった6年で出所し、今も平然と生きている。


なのに、絢音は…今もその影に怯え、苦しんでいる。


「なんで絢音やねん…なんで…」


激しい怒りが込み上げるが、シャツに付いた絢音の残り香が、先程の行為の記憶を呼び覚ます。


「(好きよ……)」


自分の下で切なく喘ぐ絢音の姿。


鮮やかに蘇ったその様に、秘めていた情欲が首をもたげる。


「…ホンマ、どうしょうもない生きもんやな。男っちゅうんわ…」


自嘲気味に呟き、藤次は車を走らせ、夜の街へと消えていった。





















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