第十九話 ロイヤルアンバーの死神 2/2

 コハクがシンジュからその暗器を譲られたのは、彼女が姉よりも身体能力に秀でていたからだ。


「魔物たちに里を……壊されて。家族も……近所のひとも、友達も。……住んでたお家も、みんなの集まる集会所も…………大人のひとたちに内緒で忍び込んで、姉さんとたくさん遊んだあの高台も、全部なくなってしまった。……わたしが守れなかった、から」


 まるで告解だと、永一は思った。

 声ににじむのは怒りでも憎しみでもなく、胸を割くような後悔だけ。コハクはいつもの変化に乏しい表情のまま、大きな瞳を涙で潤ませた。


「わたしは、このクナイを……姉さんに譲ってもらったのに。……なにもできなかった。なにも……守れなかった」

「その長子苦無は、コハクにとって重みになっていたんですね。……ごめんなさい。ワタシは姉失格です。ずっといっしょにいたのにまるで気付かなかった」


 譲ってもらった、能力を評価されたという誇りは、いつしか重みになった。

 いや。いつしか、などと曖昧なものではない。決定的な瞬間、出来事がある。

 大泛溢マッドポップだ。結局のところ姉妹の運命をねじ曲げたすべては、三年前のその襲撃に収束する。永一にとっての宿命が畢竟ひっきょう、六年前の火竜顕現、始まりの怪獣災害に収束するように。


 誇りだったはずの長子苦無は、里を守ることができなかったという、悔恨の象徴になっていた。

 呪い。苦無を譲られた、評価されていたはずの力で、なにもできなかったという悔い。

 それがどれだけ、コハクの心を苛んできたのか。

 姉からもらったものと言えばクナイではなくせいぜいカワイイ習字セットのお下がりくらいだった永一も、その気持ちの一端くらいは理解できた。

 そもそもが類似した境遇だ。無力の後悔など、夜の数だけしている。


「でも、コハク。守れなかった、なんてのは絶対に間違いですよ」

「……え? そんな……だって、里はもう……なんにも、場所だけしか残ってない」

「いいえ」


 優しく伸ばされた姉の手が、妹の手を包む。そこに握られた誇りのろいごと。


「だって、ワタシがここにいます。あなたはワタシを守ってくれました。なにもかもが壊されていくあの故郷で、殺到する魔物から手を引いて逃がしてくれたのは、ほかでもないあなたじゃないですか」

「あ……。それは、でも……自分が逃げるついでみたいなもの。わたしは……里を見捨てて、逃げ出した」

「ワタシだってそうです。仕方のないこと——なんて今だって言いたくありませんが。それでもやっぱり、どうしようもないことだったんですよ。当時のワタシたち、いえ、きっと今でさえあの魔物の大波を退けることはできないでしょう。けれどそんな中でも、コハクはワタシを助けてくれた」

「ねえ、さん……」

「なにもできなかっただなんて、そんなことは言わないでください。ワタシたちは里を守れなかった。でも、あなたは、コハクはワタシのことを助け出した」

「ぁ——、っ、ぁ」


 そっとシンジュはコハクを引き寄せた。コハクも逆らわず、薄い胸に顔を埋める。

 無二の妹を慈しむ手が、ゆっくりと銀の髪と頭を撫でる。語りかける声も優しく、慈愛に満ちた柔らかさだった。


「コハクが後悔に打ちひしがれるたびに、ワタシは何度だって言いますよ。あなたは無力じゃない。ワタシがここにいるのは、あなたのおかげだから」

「う、ぁ……ぁっ、んっ、ぅ——」

「やっぱり、長子苦無を持つべきはコハクです。あの日、あなたに譲ったこと、どうしても間違いだなんて思いませんよ」

「ぅぁ……! ぁあ、あ——、ぅ……姉さん、ねえさん……、——おねえちゃん……っ!」

「はいはい。ふふ、小さい頃みたい。……懐かしいですね、なんだか」


 泣きじゃくる妹を慰めるシンジュは、苦笑こそ浮かべていたが、どこか楽しげでもある。

 姉失格だとさっきのシンジュは言った。しかしわんわん泣く妹に胸を貸すその姿は誰が見ても良き姉そのものだ。

 自分にもこんな時期があったかもしれない。睦まじい姉妹に永一はしばらく、悲劇の以前にあった遠い昔の自分とその血を分けた姉の姿を重ねる。

 だが、微笑ましい姉妹のやり取りにもそろそろ水を差す必要があった。


「……ところで、そろそろオレのことも気にかけてもらっていい? そこそこ重傷なんだけど——ごぼふッ」

「あっ」


 流石は大型種ディソベイ、手足はくっついたままだったものの、小突かれただけで思ったよりも内臓の方はめちゃくちゃにされていたらしい。

 さっきから密かに胃をせり上がってくる熱い血液をなだめていたのだが、とうとう耐えきれず永一は派手に吐血した。痛みで気分が悪い。頭がくらくらして、照明が落とされたみたいに視界が時おり暗くなる。


「も、申し訳ありませんエーイチ様! え、盈月を……」

「いやここまでの怪我は治せないと思う。代わりにナイフ取ってくれ、眼に刺さってたやつ、どっかあるだろごほォッ」

「うわあっ血を戻すタイプのマーライオンみたいになってます! わかりました……! ごめんなさいコハク、泣くのは後でっ」

「んぅ……もう大丈夫。泣いてばっかりいられない、から…………わたしも……探すの手伝う……」


——なんで異世界にマーライオンがあるんだろう。

 訊きたかったが咳き込みながら血を吐くのに忙しく、それどころではなかった。

 そうこうしているとコハクがそばにやってくる。その頬にはまだ涙の跡がくっきり残り、目じりも赤らんでいた。


「これ……魔石のそばに……落ちてました。どうぞ……」

「おぉ、サンキュ。いやあ、舌でも噛み切ろうかと迷ったんだが……あれってフィクションと違って実際には中々死ねるも——」



「ガッ、——んでもないらしいからなぁ。即死ってわけにもいかないだろうし」

「わ……」

「昨日も言いましたが、会話の途中でナチュラルに自害するのはやめていただきたいのですけれど……」


 手渡されたククリナイフで喉を深く切り込み、蘇生する。

 臓腑の痛みは消え、気分も一瞬でよくなった。ナイフの血を払い、鞘へ仕舞う。


「魔石も回収したな。なら、これで第40階層も攻略完了だろ。あとどれだけ続くのか知らないが、核のあるっていうてっぺんに一歩近づいた……んでこれ、帰りはどうすればいいんだ」

「特に奥に続く道ができた、というわけでもありませんね。おそらく小部屋に戻って、入ってきたゲートを使うのでしょうか」

「なるほどな。……流石に、疲れたろ。あんな大技まで撃ったんだ。ちょっと早いが、今日は宿で休むか」

「……いえ。エーイチ様、姉さん…………まだ……帰れない、みたい」

「え——?」


 いち早く入り口の方を向いていたコハクの目が、なにかを捉えていた。彼女の視線を追い、遅れて永一とシンジュもその闖入者たちに気が付く。

 開け放たれた小部屋から、三つの影が歩み出た。


「——40層のボスにひねり潰されてりゃあよし。そうでなけりゃあ、おれたちが手負いのところをとっちめる……そういう指令ではあったけどよ。正直、おれぁ驚いてる」


 男がふたりに、小柄の女がひとり。

 うちひとりは、永一たちも知った顔だった。油井ラクト……そう名乗った、昨日魔石換金所の前で絡んできたあの男だ。


「まさか、冒険者ギルドに入ってもねえやつらが、たったの三人でボスの大型種ディソベイまで倒しちまうなんてよ。そいつはつまり、順当にいけば49階層まではまず間違いなく解放できちまう、ってことだ。いや実際すげーよ、はは」


 ぱちぱち。わざとらしい拍手を鳴らす。

 口元も笑っているように歪んではいたが、意識して作っていることがこの距離でも丸わかりだった。

 賞賛の気持ちなどあるまい。

 あるのはただ、昨夜の恥と失態の恨み。そのことがありありとわかる、見え透いた怒りをゆっくりとした足取りに帯びていた。


「むぅ、ラクト。無駄話をする必要はないだろう。黙って仕事に取り掛かるべきだ」


 そんなラクトを諫めるように、禿頭の大男が、厳めしい顔の眉間にしわを寄せて言う。そのごつごつとした両の手が握っているのは、その巨躯でなければ振るえまいと一目でわかる大物の戦斧バトルアックスだった。


「黙れよフキジ。いいだろうが、痛い目みる前にさあ、ちょっとくらいはいい気分にさせてやっても。その方が悲愴さが際立つだろ? これからおれたちに叩きのめされるんだから」

「そ、その……そういうの、あまりいい趣味とは言えないと思いますっ。相手の方たちがかわいそう、っていうか」

「あ? リンシーまでなんだよ、おれに命令するわけ? 後ろで魔法やってるだけのオマエが?」

「めっ、命令とか、そういうわけじゃ——」

「だったら最初から黙って言うこと聞いてりゃいいだろうが!」

「ぃっ、す、すいませんっ……」


 ラクトに怒鳴られながら、後ろをとてとてとついていく最後のひとり——小さな少女は、リンシーと呼ばれていた。

 金の髪に緑の目をして、身長はシンジュに比べればまだ低く、顔立ちからもまだ幼さが抜けきっていないように見える。そのうえ歩き方や口調にはおどおどとした自信のなさがにじみ出ていたが、油断のできる相手でないのは、その抱えるようにして持つ華美な装飾の杖から明らかだった。

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