第八話 赤い月、行き合う転生者たち
外の世界は、いつの間にか夜の帳が降ろされていた。暗くはあるが、なにもかも見通せないというほどではない。
星明かり、だろうか。永一は夜の空を仰いだ。
「……月が赤いのか、ここは」
暗黒の空に輝く星はただ一つ。地獄で灯るような、真っ赤な満月だけだった。
ほかの星はなくとも、巨大な月は赤みがかった光で夜闇を照らしている。その中を永一たちは進んだ。
「確か、来るときに看板が……あの辺りに。あっ、ありました!」
螺旋迷宮からやや離れ、押し寄せる夜に負けじと活気を放つ通りを抜ける。いくつも軒を連ねる店の内に、そのこじんまりとした小店は存在した。
小さく収まってはいるが、ひっそりとはしていない。荘厳な枠の取り付けられた、木製の大きな看板が出ているからだ。だが、そこに書かれたカクカクとした文字らしき図形は永一には到底解読できなかった。
「換金所、って書いてるのか? ……文字、読めるようにならないとだなぁ。勉強は嫌いだ」
「魔石換金所……です。ふつつかながら……わたしたちが、お教えしてもよいのですが……座学がお嫌でしたら……」
「いつでもワタシたちが代わりにお読みいたします。常におそばに控えておりますので」
「そりゃあ、助かるけど」
この姉妹は四六時中いっしょにいるつもりなのだろうか。つもりなのだろう。
永一は複雑な心境に目を背けるように、換金所の分厚い木の戸を押し開いた。
「らしゃっせー」
外見通り店内は狭く、カウンター越しに適当な挨拶が投げかけられる。店員はひとりだけで、面倒さをまるで隠そうともしない、やる気のない雰囲気に満ちた垂れ目の若い女性だった。
「これを」
「あーす」
手狭な空間で身を寄せ合うようにしながら、姉妹に渡された魔石を永一は店員へと差し出す。彼女はカウンターに置かれたそれらの黒いごろごろとした石を、傍らにある秤へとぽいっとのっけた。
「うーん。んまァ大体こんなもんすかね」
「えっ、雑……」
店員はカウンターの内側から硬貨を取り出し、やはり乱雑な手つきでカウンターに置いた。見たことのないコインで、銀色のものが数枚と、それより少ない銅色のものが少し。どちらも同様に、髭面の男の顔が描かれていた。
「妥当かと思われます。少なくとも、今夜の宿代には十分でしょう」
「……感謝……します」
「そうなのか? 二人がいいならいいんだけどさぁ……」
硬貨を受け取り、シンジュに渡す永一。シンジュは『よいのですか?』と言いたげに永一を見たが、このラセンカイの貨幣価値を知らない自分が財布のひもを適切に管理できる気は到底しなかった。
「あざっしゃしぁー」
用事は済んだ、長居は無用だ。これ以上ないくらいおざなりな挨拶を背に受けながら、三者は換金所を出る。
男の罵声が聞こえたのは、通りに出た瞬間のことだった。
「てめぇどこ見て歩いてんだぁ!? 目玉ついてねえのかおらぁ!!」
換金所の向かい。中肉中背の男が、小柄な男性の胸ぐらを掴んで怒鳴り立てていた。
「……なんだ?」
「喧嘩、というよりは恫喝のようですね」
「人の多い……町では……珍しいことでも、ありません」
「治安が悪いことだ。おっかない世の中だなぁ」
日本でもこういった光景がないわけではないだろうが、穏やかな町に生きてきた永一には馴染みのない事態だった。
迂闊にも呟きが耳に届いてしまったのか、胸ぐらを掴んでいた男がその手を放し、永一たちの方を振り向く。難癖をつけられていた方の男は、これ幸いとわき目もふらずそそくさと逃げ去っていった。
(……黒い髪。こいつもタカイジン、オレやアワブチと同じ異世界転生者か?)
声を荒げていた男は永一を見て、それからそのそばにいる銀の髪の姉妹を見た。茶色っぽい目に下卑た、嗜虐的な感情が浮かび、舐め回すように姉妹の四肢へ視線を注ぐ。
「なんだか陰口を叩かれてると思ったらよぉ、なんだオマエら。いや知ってるぞ、その銀の髪! 欠陥魔術のセレイネス! 三年前に
「——っ」
「それも二人も。魔術は保力を損なう欠陥品だって聞くが、顔はいいな……。どうだよ、そんな男は捨てておれのとこにこい。へへ、なに、魔術がロクデナシでも悪いようにゃあしねえ。なんたっておれぁな……」
屈辱感か怒りからか、男の嘲りにシンジュが身を固くする。そのことにも気づかずべらべらと話を続ける男の前へ、永一は言葉を阻むように歩み出た。
「おい。お前が誰なのかなんて知らないが、オレの連れを侮辱するなら黙ってないぞ」
「あぁ? 男の方に用はねえっての。この
「転生特典ならオレもある。あいにく、帰る家はないが」
「なんだとぉ?」
ラクトと名乗った男はじろじろと永一の顔を見て、忌々しげに舌打ちをした。アワブチが昼間、永一を見てそうだと判断したように、黒い髪と目や顔立ちを見て同じ日本人だと判断したようだ。
「オマエもタカイジンかよ。だがギルドの人間じゃねえな……若さからしてつい最近転生してきたクチか? へッ、だったら先輩のおれが教えてやらなきゃいけねえなぁ。先達に対する礼儀ってやつをよぉ?」
「今さら気づいたのか。目の曇った先輩の言うことは信用できないな」
「減らず口を……まずは口の利き方から矯正だ。そんでもって、連れの女をオマエの目の前でなぶってやるよ!」
永一をにらみつけ、威圧的な口調で凄むラクト。もはや一触即発は誰の目にも明らかで、通りを行く者は巻き込まれてはたまらないと離れていく。
ラクトは腰に差した小ぶりの剣に手を伸ばそうとする。無論武装の存在に永一は気づいてはいたが、看過することにしていた。
この男を成敗するのが目的ではない。ただ穏便に、被害なくこの場が収まればいいのだ。ゆえにシンジュとコハクが無事なのであれば、永一は一回二回くらいなら黙って殺されてやる気だった。そうすればラクトとかいうこのゲスも、殺しても殺しても生き返るゾンビみたいな永一を見てそのうち落ち着くだろう。
そう考えていたのだが——
「『血を巡るもの。形を持たぬもの。戒めるべく、黒き束縛の帯となれ』」
「あ……? なんだおまっ、うわ!? ンだこれ……布みてえなのが、クソッ!」
できる限り穏便に、という永一の思惑は叶わなかった。
コハクの足元から黒く平べったいなにかが放たれる。それは真っすぐにラクトへ向かい、意思を持つかのように巻きついてラクトの上体を拘束した。
「コハクお前っ、魔術を?」
「魔力によって編まれた布……
「流石に生きては帰そうな!?」
コハクに容赦の二文字はなかった。口より先に手が出るタイプ。
なにごとにも積極的なのは彼女の美点とも言えたが、路上のちょっとした諍いで命まで奪うのはやりすぎだ。その命を無尽蔵に有する永一が相手ならともかく。
「てめぇ……舐めやがって! このおれに、冒険者ギルドにたてついたらどうなるか……その澄ました顔に教えてやらぁッ!」
「コハクっ!」
「——、ぁ……」
シンジュの絹を裂くような、切迫した叫びが夜の通りに響く。見ればラクトは黒い帯に体を縛られながらも強引に駆け出し、腰の剣を引き抜いていた。
狙いは帯を放った銀のショートヘア。彼女はその名通りの色をした琥珀の瞳を見開き、自身へ向かって刃を振り抜こうとする悪漢を呆然と見つめる。突然のことに反応できていない。
「死ねぇ!」
「お前、そいつはルール違反だろ」
それを、腕を掴み取って止める永一。身長はそう変わらないが、鍛えているだけあり永一の方が体格はある。加えて若月——コハクの魔術による束縛もあって制止は難なく成功した。
「邪魔してんじゃ……」
「相手は女だぞ。逆上して街中で剣を向けるなんて、やっぱり礼儀を知らないのはお前の方だったな」
「ぶぼっ」
永一が殴り飛ばすと、ラクトは軽く吹っ飛んで舗装された道を無様に転がっていった。挙句に気も失ったらしく、剣を手放し、がくりと倒れて動かなくなってしまう。
「え。なんじゃこりゃ、さしものオレもここまで力自慢じゃねえぞ」
「あ……それ、は……若月で縛ってありましたので。……肉体の、保力が低下していて……そのせいだと、思われます」
「コハク、術式の解説の前にお礼でしょうっ。まったく油断しすぎです、あと少しで取り返しのつかないところになるところでした……本当にありがとうございます、エーイチ様」
「若月、ああ、さっきの魔術の。なるほどな、デバフがかかってたわけか」
欠陥魔術と称されるセレイネスの魔術。保力が低下するのは、なにも破力を向上させる片月だけに限った話ではないらしい。
「ま、破力と保力とかいうのも、オレはなんとなくのニュアンスでしか理解できちゃいないんだろうが」
「エーイチ様。……危ないところを助けていただき……ありがとうございました。まさか……若月を無理やり……破ろうとするなんて……」
「いいよ。ただ、魔物相手でなくとも油断は大敵だな。オレもいい勉強になった」
「…………はい……。肝に……銘じます」
深々と頭を下げる姉妹に顔を上げさせ、永一はすぐに移動を提案した。意図せず大立ち回りを演じてしまい、衆目を引いてしまったからだ。
それならばと、魔石の換金も済ませたため、当初の予定通り姉妹の知る宿へと案内される。具体的な位置は彼女らも知らないようだったが、宿の多くはホシミダイの町の北か東側にあるらしく、その辺りを回ってみることになった。
(しかしラクトとかいうあの男、冒険者ギルドの一員だって言ってたな。ギルド長のアワブチはまだまともそうに見えたが……あんな荒くれものばかりじゃないだろうな、冒険者ギルドってのは)
道中、先導する姉妹の背を見るともなしに見つめながら、永一はまだ掴み切れない町の空気感や、ものごとについて思考を巡らせ続けた。
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