第10話 小児性愛に効く薬毒10
杏里と美優の母親はアパートには戻らず病院に来ていた。
ろくでなしで元気になればまた幼い女の子を追い回すしか能のない男だとは分かっているが、助かるものなら助けたかった。
かといって自分の内臓を提供する気にはなれず、娘達にも反逆された今は黙って側にいるしかできなかった。
ベッドで昏睡状態の夫の側でただ椅子に座っているしかないのだ。
毎日のように仕事と病院の往復できちんと睡眠がとれていなかったので、いつも眠く意識もぼんやりとしてしまう。
薬屋の店主に渡された薬包を握ったままな事に気がつき手を開いた。
手のひらに赤い薬包がくしゃくしゃになっていた。
こいつを飲んでゆっくり眠るように言われたので、これはきっと睡眠薬だろうと判断して母親はそれを飲んだ。
座ったまま両腕を枕にしてベッドにもたれかかる。
上半身だけうつぶせのようにして目を閉じた。
すぐに意識が吸い込まれていく。
どこか暗い奈落の底へ落ちていくような感覚が母親を襲った。
はっと目が覚めて顔を上げると、医者と看護婦が側に立っていた。
「あ、先生……」
と慌てて立ち上がると医者はにこやかな顔で、
「ずいぶんと良くなりましたね」
と言った。
「え、あ、はい」
「でもまだこれからじっくりと、気長にね」
と看護師も優しい口調で言ったので、母親はほっと胸をなで下ろした。
腐っていく内臓を治す事は難しいと言っていたのに、あのおかしな薬屋でけんもほろろに断られたのに、なんだ治ったじゃないの。
「ありがとうございます、先生」
母親は深々と頭を下げた。
医者はうんうんと頷いて病室を出て行き、入れ違いに来た事務服を着た女が、
「佐野さん、先月の入院費の精算をお願いします」
と母親に封筒を渡した。
「あ、はい」
母親は封筒から請求書を取り出して印刷された金額を見た。
「え、五十万って……」
「十五日までにお願いしますね」
事務員はそれだけ言って病室を出て行った。
五十万というのは今の佐野家の全財産だった。
それを払ってしまうともう何も残らないが仕方なく母親はそれを病院に払い込んだ。
病状が良くなったとはいえ意識も戻らず目も開かない。
呼吸器をつけたまま眠り続けるだけの夫を見るだけの毎日だ。
それでも高額な治療費は待ってもくれない。
母親は昼間の仕事以外に夜に働き始めたが、それでも間に合わない。
「ねえ、美優、あんたバイトしてるんでしょ? 少し貸してくれない? お金が足りないのよ」
高校生になった美優はじろっと母親を睨んで、
「嫌です。杏里の中学の入学準備にお金がいるんです。あの男の為には一円も遣いたくありません」
と冷たく言った。
母親はかっとなり手を振り上げた。
「あんた! 親が困ってるのに!」
「お母さんの彼氏であって私達のお父さんではありません。それに私は就職が決まったので、杏里を連れて出て行きますから」
能面のような顔でそう言う美優に母親は、
「あんた、親を捨てるの?!」
と掴みかかった。
美優の背はすでに母親を超えているし、若い力は強い。
片手で振り払われて、母親は床に倒れ込んだ。
「あなたはあの男の機嫌を取るために娘を捨てたのですから、私達が生活の為にあなたを捨てても仕方がない。あの男は元気になったらまた自分の娘のような年の若い女を連れ込むでしょう。あなたは一生懸命働いてまた養ってやればいい」
母親は美優を見上げた。
何もない顔だった。
真っ白でのっぺらぼうのようだ。
「美優……あ、杏里……」
そのすぐ横に立っている杏里の顔も真っ白だった。
ただ真っ白い顔が母親を見下ろしている。
美優は杏里の手を引いて部屋を出て行った。
追いかけようにも身体が重くて動けない。
手も足も。
のろのろとした動きで母親は起き上がろうとしたが、その動作で鞄が逆さまになって中の物を全て床にばらまいてしまった。
「ああ、もう!」
慌てて両手で拾い集めるが、中身は財布と携帯電話と請求書の束だった。
病院からの請求書、カードでした買い物やキャッシングの請求書。
借りては返し、また借りて。借金の総額が幾らなのかも分からなくなっていた。
「ガチャン」
とドアが開く音がしたので、娘が戻ってきたのかと母親は振り返った。
「あ、あんた……どうして……」
玄関にパジャマ姿の夫が立っていた。
痩せ細り、汚れたパジャマを引きずりながら夫が部屋に上がり込んできた。
「ちょっと、どうして……」
「ああ、病院追い出されてなぁ。お前、金払ってなかったらしいなぁ。出てってくれってさぁ……しょうがねえな」
夫はよろよろと部屋の中に入り込み、どすんと座った。
ポリポリとかく頭からは雲脂が飛び、束になった髪の毛が抜け落ちた。
「あんた!」
慌てて近寄ろうとして、強烈な臭気が母親の鼻を刺した。
何かが腐っている匂いだ。
「へへへ」
と夫がだらしなく笑った。
みると夫の座っている周囲にたちまち出来る何かの染み。
パジャマを濡らし、畳を濡らす。
「ああ、だるい」
ごろんと横になった夫の腹の辺りからどろっとした物が流れて落ちてきた。
「……!」
部屋中に立ちこめる臭い匂いにオエッと母親の喉の奥が鳴った。
夫の腹の皮膚が破れて、腐った内臓が流れ出している。
「なあ、何か喰わせてくれよ。そういや杏里はどうした?」
「え?」
溶けるように夫の身体は崩れていく。
だが杏里、杏里と娘の名前だけを連呼し、そしてずりずりと母親の方へにじり寄って来る。
「あんりはどこだぁ」
「あんた……」
「あんりぃぃぃぃぃぃ」
夫の身体はすでにドロドロで、腐った内臓は全て破れた腹から流れ出ている。
そしてびちゃっびちゃっと汚らしい音を出しながらそれでも母親の方へ近づいてくる。
母親の足の先にドロドロに腐った内臓が触れた。
「いや……いやあああああああああ!」
足先を引っ込めるも、その触れた先からどんどん腐った内臓が母親の足を浸食していく。
もの凄いスピードで浸食が進み、母親の足も腐り始めた。
「もがぁ……ぐええええ」
身体中をドロドロの内臓が包み込み、口の中、耳の中、鼻の穴。
母親の身体の穴という穴へ侵入してゆく。
「ぐええええ…。た、たすげ……てぇ……」
「大丈夫だ、夢なんだからよ」
と男の声がした。
「身体も性根も腐った男女の合体作か、さぞかし良く利く薬毒が出来そうだね」
と少女の声もした。
「ああ、人間でいるうちは毒にも薬にもならねえくだらねえ奴だったが、とことん腐敗させてしまえばこうやって立派な薬毒の材料になる」
腐った夫にがんじがらめにされた母親は身動き一つ出来なかったが、辺りを見ることは出来た。人影が二つ、自分に絡みついた夫の身体を見下ろしている。
(ひぃっ!)
母親は悲鳴をあげたつもりだったが、それは自分の喉の奥で鳴っただけだった。
(鬼……?)
身体は人間のようだが世にも恐ろしい顔をしていた。
長く尖った牙に、ランランと輝く金色の瞳。
そして何より黒髪から映えた二本の角。
(化け物……)
「だが心臓だけは頂いておくぞ」
大きな鬼の方が手を伸ばしてきて、母親の左胸にその長い爪をずぶずぶと差し入れた。
「ぎゃあああああ」
引き抜いた鬼の手には母親の心臓が脈打ちながら握られていた。
「ハナ」
「うん」
ハナが自分のセーラー服の上着をめくり上げた。
ハヤテの逆の手がハナの心臓をつかみ取り、そして母親の心臓を代わりに入れ込んだ。
すぐさまハナの体内から器官が伸び、心臓と繋がった。
ハナが上着を直しているうちにハヤテは夫の身体を片手で持ち上げた。
「ドゥ!」
「ニャーン」
黒猫が鬼の肩まで素早く駆け上がり、大きな大きな口を開けた。
それは人二人を飲み込んであまりあるほどの大口だった。
「ほどよく毒が効いて美味そうだ」
黒猫ドゥは大きな口を開いて満足気に喉を鳴らした。
「行くよ」
母親の視界の最後の瞬間にはセーラー服姿のハナが冷たく笑っていた。
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