第19話
前世の俺は『花』が嫌いだった。作り物ならまだ耐えられたのだが、生花はダメだった。
母親がまだ父親と暮らしていた時、俺が生まれる前の話だ。
仕事が忙しくあまり家に帰れなかった父のために、母は一度だけ家に花を飾ったことがあって、帰ってきた父がそれに気が付くと、『綺麗だな』といって、珍しく微笑んで母を褒めたことがあったらしい。
それから、父が家から出て行ったあとも、母はずっと、毎日、花を家に飾るようになった。花の種類はバラバラで、特に母が好んでいた花はなかったが、とにかく花を飾りたがった。いつ父が戻ってきてもいいように。
いつか父が帰ってくると信じて。
花は、いつだって母を思いださせた。花屋の前を通ることさえ避けるほど、俺は花が嫌いで仕方なかった。
仕方なかったんだ。
というわけで、モーリス様とお話をした翌日。昨夜のうちにモーリス様の使いの人が来て、今日の時間についてきちんと連絡をもらった。
それにしても何を企んでいるのやら?
「難しいお顔をされていますよ」
午後、昼食を終えた私に食後の紅茶を出しつつ、エリエスは微笑みを浮かべ私を見つめていた。
「なんか企んでる臭いのよね」
私が『何』とも『誰』とも言わなくても、エリエスには私の言わんとすることなど分かりきっているかのように、彼女は小さく、それでも確かに頷いて見せる。
「キャラハン様の行動は、すべてゼイデン皇帝陛下への忠誠によるところが大きいのでございましょう。私ごときが推し量れるのものではございませんが、決して姫様に無体や無礼を働くような方ではないと……」
と、自分で途中まで言いかけて、エリエスの眉間に微かなしわが寄ったのを私は見逃さない。
「無礼はしなくても、無体はやりそうなんでしょ?」
そう私が聞き返せば、エリエスは小さく『こほん』と咳払いをして見せた。
「キャラハン様は、ええ、何と言いますか。底の見えない方と言いましょうか……」
「分かる。あからさま、だよねぇ」
「はい。意図が見えませんね。ですがユリシエル様、何があろうと、姫様は私がお守りいたします。どうぞご安心を」
エリエスはそう言うと。キリっと顔を引き締めて見せる。
うん。エリエスが頼もしいのはわかってるけどね。
「ありがとうエリエス。でも無茶はしなくていいんだからね」
そこまで無茶苦茶を言ってくるとは思えないけど、一応は、警戒しておいたほうがいい、のかも?
なんてことをエリエスと話しているうちに、約束の時間が迫ってきていた。
午後3時を過ぎたころ。
約束の時間は3時ごろだったから、まあ10分くらいの遅れは許容範囲だろう。
歩きなれた廊下をエリエスとともに、ゼイデン陛下が滞在中の部屋までのんびりと歩く。すれ違うみんなとあいさつを交わしながら、ふと足を止めて窓の外に顔を向けた。
今日も外は晴天だ。午後の暖かな日差しが心地よく私に降り注ぐ。
もうすぐ春も終わりだ。春が終わればすぐに夏が来る。
実はこの世界には梅雨がない。というか、日本でなれた『梅雨』と言うものがないだけで、一応『雨季』というものは存在しているのだけど。
この世界の雨季とは、夏と秋の間にあり、秋の実りを助けるために水の精霊たちが土の精霊とともに、大地に栄養たっぷりの水を降らせることで、約2か月ほど雨が降ったりやんだりを繰り返す。その現象を『雨季』と呼んでいる。
ただの雨と違い、空からキラキラと光る水が降ってくる現象は幻想的で、文字通り、世界が輝きに満ちるのだ。物理的に。まあ、でも綺麗だよ。
「姫様?」
急に足を止めた私の顔をのぞき込み、エリエスが不思議そうに首をかしげて見せた。
「ああ、ううん。何でもない。行こうか」
私がそう言って歩き出せば、エリエスも「はい」と返事をして私の後に続く。
雨は今でも嫌いじゃない。
だけど、雨は最後の日を否応なしに思い起こさせる。
肌に当たる雨の感触。濡れたアスファルトの匂い。様々なものを叩き付ける雨粒の音。
友人も、家族も、私自身の思い出も、自分の名前さえも、すべてを置いてきたはずなのに、私の感情と彼の残り香だけが、今でもあの場所に私を取り残したままな気がして……。
私は慌てて首を横に振り、おかしな考えを振り払おうと努めた。もう忘れたいのだ。忘れたのだ。そう、自分に言い聞かせながら。
ゼイデン陛下の部屋の前までたとりつき、コンコンとノックをすると、すぐに「どうぞ」という声が聞こえて、私は扉のノブに手をかけ。
「失礼いたします――」
静かに扉を開けて、ふと顔を上げた私の視界に、部屋いっぱいに置かれた鮮やかな黄色が飛び込んできた。
「まあ……」
私のすぐ後ろからエリエスの驚くような声が聞こえる。
目の前のありえない光景に、私は息をのんだ。だって、本当にありえない。
植物図鑑をいくつも探してみた。もちろん魔法士や薬師たちにも、錬金術師たちにも聞いたけど、みんな『存在していない』と一様に声をそろえたのだ。
手が震える。
子供のころから大好きだった花。この世界には存在しないはずの、私が何よりも大好きだった花が、今、私の目の前に、部屋いっぱいにそこにあって。
お母さんが『まるで――の笑顔みたいに元気で明るい花でしょ?』と、そう言ってくれたことがある。
夢でも見ているのかもしれない。
そっと手を伸ばし、私は花に触れた。
その花は、消えることもなく、私の手で触れることができた。ああ、現実なんだ。
思い出さなくていいことが思い出される。
生まれ変わるずっと昔の子供の時の記憶だ。
太陽をまっすぐ見つめる夏の花。それは、私の家族が私の誕生日に毎回、用意してくれていた花だった。私と同じ明るくてあったかい花だからと、思い出してしまったら、もう耐えられない。
嬉しくて、悲しくて、胸が苦しくて、嗚呼が涙とともにこぼれてしまう。
部屋いっぱいに飾られた『ひまわり』に、鮮やかなその色に、息が詰まるほど私の胸が締め付けられる。
「でも……ひまわりなんて……」
この世界にはなかったはずなのに。
「研究させたんだ。この世界には存在しないと知って……。時間はかかったが、やっと、近いものを作ることができた」
そう説明するゼイデン陛下の声を耳で受け止めながら、私は傷つけないように花びらをそっと撫でる。
「なぜ?」
疑問ならたくさんある。なぜこの花を知っているのかとか、どうやって作ったのかとか。まあ、モーリス様と話した後だから、私の疑問はすぐに解ける問題だろうけど、つまり、ゼイデン陛下も私と同じってことでしょ?
だけど、ゼイデン陛下が私と同じ『生まれ変わり』だとしても、やはり不思議でならないのだ。時間もお金もかかっただろうに。なぜそこまでしてこの花を。ひまわりを作ろうとしたんだろうかと。
そう疑問に思っていた私に。
「約束を……覚えているだろうか」
そう言って、ゆっくりと私に近づいてくるゼイデン陛下を、私はただ見つめ返すしかなかった。
(約束?)
何の話をしているんだろか。と、思った矢先、くらりと眩暈がしたと思えば、ゼイデン陛下と『彼』が重なり、そして、ズキリと頭に一痛みが走ると、フラッシュバックのように、記憶が雪崩れ込んできた。
別に特別なことではなかった。
テレビを見ていた時に、夏の特集でひまわりを見ただけのことで、毎年、家族からもらっているものだから、彼にねだるほどでもなかったのだ。
だけど、彼は一度として私に花をくれたことはなくて、花のモチーフだった何かはあったのに。だからと言うわけじゃなかったけど、彼に。
『ひまわりが欲しい!』
と、言ったことがある。
あの時の彼の複雑な顔は今でもよく覚えている。
『ひまわり? 好きなの?』
『一番大好きなの!』
『ふーん』
『一回だけ、ね? ちょうだいよっ』
本当にそれだけ、本当に一度だけでいいから、欲しかった。
『あー……花なんてすぐ枯れるじゃん』
お願いとねだる私へ、少し面倒くさそうな彼にそう返された。
そんなに嫌なんだろうか? そう思うと、私の心は途端にしぼんでいく。
『あーほらっ! 造花とか、花のモチーフのアクセとかじゃダメ? そっちのほうが枯れないしずっと持っとけるでしょ?』
私のテンションがあからさまに下がったせいなのか、カイは取り繕うようにそう言って私の手をやさしく握ってきた。
確かに造花なら枯れはしないだろう。アクセサリーなら、壊れるまで使い続けることができる。
だけどそうじゃないんだよ。
『子供の時から、大好きな花なの……家族にも毎年、誕生日に贈ってもらうんだけど……でも、カイから送ってほしいんだよ』
特別なものだからこそ、あなたからもらいたかったんだよ。
『んーー。ああ……もう。分かったっ。分かったからっ。そんな泣きそうな顔すんなってっ』
カイはそう言うと、少し乱暴に自分の頭をガシガシとかいて見せた。
『ほんっと、一回だけだからな?』
すこぶる不満そうな顔でカイはそう言うと、『一回』をものすごく強調しまくっていた。本当に、よほど花を買うのが嫌なようだ。でも――。
『うんっ。約束ねっ!』
その一回でも、買ってくれると約束してくれたことが本当にうれしくて。
『ゆびきりー!』
『はいはい、ゆびきりー』
指切りをして、仕方なさそうに笑う彼の顔が、私はすごく好きだった。
約束をしたときはまだ、ひまわりは売られていなくて。売り出したらきちんと贈ってくれるという彼の言葉を信じて……そして、約束は果たされないまま。
頭が、痛む。
「姫様っ。大丈夫ですかっ」
ふらつく私をエリエスが支えてくれていた。
「平気……」
思い出したくなかった。こんなの、こんな無意味な記憶なんて。
だけど、何よりも思い出したくなかったことは――。
「思い出したよ、
のうのうと、現れたものだ。
私はずっと、違うんだと否定し続けていたのに。忘れて、今度こそ自分の人生を生きようと思ったのに。
「ひなた」
ああ、私の名前を。あんたは覚えていたのか。
「ずっと、探してたんだ。ひなた、お前のことを……」
どこまでもやさしく響く彼の声に、私の胸がざわつく。
湧き上がるのは、怒りであり、恋しさであり、悲しさでもあり、喜びでもあり、そのすべてが混ざり合ったカオスな感情だ。一言で、この感情を表す言葉を、私は知らない。
だけど、笑えるよね?
「なんで? 今さら?」
もう名前さえ変わったっていうのに?
彼を見上げれば、彼は酷く痛そうな顔で、私を見下ろしていた。
なんで、あんたがそんな顔するのよ……。
「謝りたかった。ずっと……」
「何を?」
私と喧嘩したこと? 浮気のこと? 嘘をついたこと? 私と過ごした日々? それとも私と付き合ったこと?
「俺がしてきたこと、全部」
全部? 全部なんだ……。
「全部って、ふざけないでっ‼」
彼の物言いに私は自分の怒りを抑えることができなかった。
全部って、何なのよっ。
「私と出会ったことも全部、後悔するくらいなら、はじめから受け入れたフリなんてしなきゃよかったのよっっ‼」
気が付けば、そう大声で怒鳴っていた。
そういえば、これほど感情的に怒鳴ったのは、この世界に来て初めてじゃないだろうか。
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