第2話
創世の女神ミアの聖女、リリエルが神殿に戻った。
配下から報告を受けた時、セシルは手にしていた聖書を床に落とした。司教や司祭がその場にいたら間違いなく叱責を受けたであろう失態。だが、今のセシルにそんなことを気にする余裕などなかった。
「……それは、本当なの?」
「はい。今は大司教様の元に」
神官兵が皆まで言い終わる前に、セシルは正装用の外套を手に部屋を出た。走り出そうと急く心を抑えて、早足で向かう。ただならぬ気配のセシルを見て、廊下ですれ違う神官や司祭が怪訝な表情を浮かべるが、セシルは構わず進んだ。
まさか、というのが本音だった。
至聖神殿としても、同じ使徒としても、友人としても喜ばしいことではある。
聖女リリエルが行方不明となってから、ひと月が経過していた。彼女に仕える使徒や下働き、護衛する神官兵達も忽然と姿を消したことから、組織的な誘拐であると至聖神殿はみなした。すぐさま緘口令が敷かれ、聖女リリエルの誘拐は秘匿とされた。
犯人に心当たりがあったからだ。
命を司る創造の女神ミアの対極に位置する女神。黄泉を司る死と破滅の女神マレを信仰する邪教徒達にとって、女神ミアの聖女は忌まわしいものでしかない。死体がないのはさらった聖女リリエルを、女神マレに捧げる生贄にするためか——いずれにせよ、女神ミアの聖女が邪教徒の手に堕ちたなどとは、至聖神殿として絶対に認められないことだった。
密かに、かつ迅速に大勢の神官兵を動員して邪教徒達の行方を追った。神殿では司教と司祭達が連日祈祷を捧げ、聖女リリエルの無事を願った。
しかし祈りも虚しく四日前、聖所のシュアル(聖花)が一斉に開花した。シュアルの開花は新たな聖女の誕生を意味する。そして女神ミアの聖女はたった一人。数百年の歴史を持つミア教で、聖女が二人以上存在したことは一度たりともなかった。
聖女リリエルは死んだ。だから女神は新しい聖女を選出する。
おそらくはマレ教徒に殺されたのだろう。ならば声高らかに聖女を殺したことを宣言しそうなものだが、一向にマレ教徒が動く気配はなかった。
前代未聞の事態に至聖神殿の長であるシャーロット大司教は、次なる聖女を立てることを最優先とした。邪教徒達がリリエルの首を高々と掲げて聖女殺しを誇る前に、ミア教で新たな聖女の誕生を宣言する。マレ教徒が殺したのは聖女ではなくただの使徒――そういうことにするのだ。
伝承では、女神ミアは満月の夜に最初の神託をくだされる。すなわち満月の夜に神の声を聞いた者が、次の聖女なのだ。聖女は二十歳以下の乙女から選ばれる。今年で十七となるセシルも例外ではなかった。むしろ『使徒』として同年代の信徒よりも上の立場であるセシルが聖女に選ばれる可能性は高かった。
期待と不安をない混ぜにした感情に翻弄されつつ、セシルは日々を過ごした。聖女は女神の代理人。至聖神殿の頂点に立つのだ。ミア教徒にとってこれ以上の誉れはない。
リリエルの帰還はそんな折、満月の夜を十日後に控えた時だった。
「失礼いたします。セシル=クレインです」
入室の許可を待つ間も惜しかった。セシルは執務室の扉を開けた。
「シャーロット大司教様、リリエルがもどっ」
視界に飛び込んできた光景に言葉が途切れた。
窓と扉を除いた四方を書棚に囲まれた執務室。客人用の椅子に座っていたのは、友人のリリエルだった——ただし、セシルが知る『リリエル』とはまるで別人だ。姿形はそのまま。右手の甲にあるのは女神ミアの聖女であることを示す聖痕。輝く黄金色の髪も宝石のような青い瞳も、雪のように白い肌も変わっていない。貴族の妾だった母の美貌を受け継いだリリエルは、その美しさとあらゆる病と怪我を治す奇跡の業から『慈愛の聖女』と呼ばれていた。卑しい身分の者でも、どんなに罪深い者でも、救いの手を差し伸べる。虫も殺せない、慈悲深い聖女、だと。
「リリ、エ……ル……」
様付けをすることすら忘れ、セシルはリリエルを見つめた。
うつむいたリリエルは、セシルの声に全く反応を示さなかった。虚空をぼんやりと眺めている様に生気はなく、まるで死人のようだ。
「マレ教徒だそうです」
傍に立つシャーロットが言った。いつもは穏やかな声が今は緊張のためか硬い。
「黄泉の女神マレを降臨させる闇の儀式を行うために、リリエルと他の信徒達を——」
詳しくは聞くまでもなかった。今のリリエルの様子を見れば何があったのかは容易に察せられた。命からがら逃げ出し、なんとか至聖神殿まで戻ってきたのだという。
「でも、そんなはずは……」
「あなたのおっしゃる通りです。リリエルが健在ならば、シュアルの花が咲くはずはない」
聖女が死ななければ、新たな聖女は選出されない。
「あなた、まさか」
セシルはここにきて、ようやく思い至った。聖女リリエルが死んだはずなのに、彼女と瓜二つの人物がここにいる。導き出される結論はただ一つ。セシルは呟いた。
「……ルルニア?」
リリエルの目がほんのわずかに揺らいだ。
「ルルニアなのね?」
同じくミア教の使徒ルルニア=ナルバートルシカ。リリエルの双子の姉だ。容姿も酷似している。だから、リリエルの身代わりとして彼女のそばに仕えていた。右手の甲の聖痕もいざという時のために聖女のふりができるように刻んだもの。当然、ルルニアもまたリリエルと共に誘拐されていた。
ルルニアと呼ばれた娘がゆっくりと顔を上げた。なまじ美しい容姿なだけに、作りものめいた、精巧な人形を思わせる動きだった。
「私の名はリリエル」
薄い唇が言葉を紡ぐ。静かで無機質な声音だった。
「リリエル=ナルバートルシカ。女神ミアの使徒。第四十七代聖女」
マレ教徒に攫われた聖女。殺された双子の片割れ。淡々と語るリリエルの肩に、シャーロットが手を置いた。
「次の聖女が選出されるまで『リリエル』には、生きていただかなくてはなりません」
「そういうことですか」
セシルはおおよそを察した。
新たな聖女が選出される前に、マレ教徒が聖女殺害を公にした時の対策。連中が殺したのはルルニアだということにするのだ。
元々ルルニアはリリエルの身代わりとして仕えていた。精度は劣るが治癒の聖術も使える。聖女が選出されて正式な儀式を経るまでの約二ヶ月程度ならば、聖女リリエルの役を務められるだろう。
双子の片割れを失ったばかりの娘に酷を強いている。が、邪教徒はミア教徒のみならず王国の民にとっても脅威だった。彼らは村や時には町を襲い、女神マレに捧げる生贄にするという。邪教徒が勢いづけば、さらに多くのミア教徒や民の命が脅かされる。どちらを優先させるかは明白だった。
「このことを知るのは、司祭と司教だけ。使徒ではあなただけです。ベローナも、カリンも知りません」
使徒のカリンとベローナは聖女候補でもある。特に野心家で挑発的なカリンは、リリエルがマレ教徒に攫われてから幾日も経たない内に密かに礼服を新調したり、実家から祭儀用の香油を取り寄せたりしていた。まるで自分こそが次の聖女だと言わんばかりのカリンの振る舞いを、セシルは好きになれなかった。
「決して口外はいたしません」
セシルは十字を切って沈黙の誓いを立てた。
「しかし使徒にまで隠し通すのは難しいのでは? シュアルの開花も確認していますし……」
「聖女が帰還したことを神殿の聖徒達に通達します。過去にも聖女の存命中に新しい聖女が選ばれた事例はいくつかありますので、押し通せばよいのです」
いささか強引な手ではあるが、騒ぎを大きくしないためには得策に思われた。つまるところ、次の聖女さえ立てられれば、リリエルが殺されたという証拠がない以上、どうとでも取り繕えるのだ。
「外部の者には入れ替わりが気づかれないよう、細心の注意を払う必要があります。協力してくださいますね?」
「ええ。使徒として当然のことです。それに、リリエルは神殿に入った時からの友人――いえ、姉妹のようなものですから」
実はリリエルが生きていると聞いたら、さぞかし驚くだろう。慌てるカリンの顔が目に浮かんで、セシルは胸がすく思いだった。
しかし、今は。
セシルはリリエルの前に膝を折った。覗き込んだ顔には何の感情も浮かんでいない。
「まずは休みましょう」
膝に置かれたリリエルの手に、自らの手を重ねた。恐怖で心が凍っている。仮に動き出したとしても次に襲うのは生き残った罪悪感。愛する妹を失った哀しみはいかばかりか。セシルはリリエルを哀れに思った。
「ゆっくり睡眠を取ってから、これからのことは考えればいいわ。儀式の手順や執務は私が助けるから心配しないで」
聖痕が刻まれたリリエルの手は冷たかった。温もりを分け与えるようにセシルはその手を優しく握った。
「あなたの命だけでも助かって、本当に良かったわ」
心からの言葉だった。セシルの声に呼応するようにリリエルはセシルに手をゆるく握り返した。
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