きっと神様の贈り物

葦名 伊織

溢れ出す脳液

「行ってきまーす」

 その日も私は日課のジョギングへ向かった。

 勉強や生徒会の雑務で部活には所属できないけど、少し体を動かしたくて始めた日課。時間も1時間弱でペースも早いほうじゃない。走ってシャワーで汗を流すと、すっきりして勉強にも集中できるような気がした。

 何より夕暮れの空をボンヤリ眺めながら走るのが好きだった。橙色に沈む町並みはどこか切ない。


 コースはいつもと変わらない。人の少ない川沿いを走り、小高い丘を上る。

 坂道は脚に堪えるけど丘の林を吹き抜ける風が体温の上がった体を心地よく冷ましてくれる。

 頂上へ向けて少し速度を落として息を整え、コースで一番過酷な『■■神社』の長い石段へ向かう。

 その石段を一往復すれば後は流して帰るだけだ。


「さぁラスト……」

 道路わきに突如現れる赤い鳥居に一礼して、石段を駆け上がる。


 丘の頂上にある『■■神社』は奇岩を祀っているちょっと有名なパワースポット。パワースポットブームの時は、頭をつけてみたり、手で擦ってみたり、色々な人がいたっけ。神社の周りは林に囲まれていて昼間でも薄暗く、いくら『神の社』とはいえ少し怖い。


 石段を登り切ると奥に賽銭箱と大きな門があり、最奥に鎮座するのがあのトランプのダイヤみたいな奇岩。丘の岩肌が窪んだ場所に突き刺さっている。その奇岩へ向けてもう一度一礼して、踵を返して石段を下ろうとした時。


 『ばちゃり、ばちゃり』と岩の方から水音がした。


「え、なに……?」

 岩の方へ振り返ると確かにバチャバチャと水音がする。

 何だろう、まさか知らない内に噴水でも出来たのかな? 神社なのに?

 ちょっと気になって岩の方へ歩いていく。この岩、台風とかで倒れたりしないのかな?

 賽銭箱の前まで近づいた時、それが見えた。


 岩の下で人がうつ伏せに倒れている。


「っ……! 」

 驚きで脚が一歩後ろに下がる。なに、あの人……。

 あの人が何をしているかはすぐに分かった。岩の下にある小さい池か水溜まりのような所に手を突っ込んで水をかき混ぜている。

 『ばちゃり、ばちゃり』

 ゆっくり、深く、大きく腕を使って水をかき混ぜるように。かすかに声も聞こえる。

「う、ぐ………」

 それに混じってノイズの様な音がする。ズズ、ズズ、というまるで……

 悪寒が走った。


 飲んでる。


 あの人は岩の下ある水を飲んでるんだ。


 そう理解した途端、背中を流れた一筋の汗がやけに冷たかった。



 ……まともじゃない。



 身体の重心は自然に後ろへ、漠然とした恐怖に震える体でゆっくりと後ろへ一歩下がった。

「・・・・・・ぁ! 」

 その時、足元の石畳が大きくグラつき私はバランスを崩して尻餅をついてしまった。

 痛みに一瞬顔をしかめるが、恐怖がそれをかき消す。


 気づかれたかもしれない!


 私は逃げようと素早く立ち上がる、が―――






 賽銭箱の向こうで、奴はすでに立ち上がり私を見ていた。


 髪の長い女だった。




 全身は凍り付き、時間が止まった様に感じた。風と葉鳴りの音も聞こえない程に。


 『パキッ』と女は首の骨を鳴らした。


 女は頭を揺らしながら、ゆっくりこちらへ歩き出す。近づくにつれて彼女の輪郭が鮮明になっていく。

 乾ききって藁のように毛羽立った髪。顔は俯いてよく見えないが、真っ青なノースリーブのワンピースはシミにまみれ、露出した腕や脚はやせ細って、皮膚には所々変色が見られる。

「た……き……き」

 猫背で弛緩したように腕をだらんと垂らし、身体を痙攣させながら、あっという間に女は私の目の前まできた。

 何かを呟いている。

 時折言葉を詰まらせ、口から何かを吐き出しながら溺れたような泡立った声で、それでも止めることなく何か言っている。

 臭い。嗅いだこともないような形容しがたい吐き気を催す臭いがした。

 そして私の目前に立った彼女が俯いた顔を上げる。




「きたきたきたきたきたきたきたきたきたきたきたきたきた」



 

 女の顔は左右の目玉が別々の方向を向き、歯は数が足りない乱杭。そして目、鼻、口、耳から不透明の白濁した粘液を垂れ流している。

 濃密な湿り気を帯びた女の臭いが鼻をつき、こみ上げて来る胃の内容物を抑え込むのに必死で、またしても石畳に倒れこむ。今度は痛みなど感じないほど、私の全ては恐怖に支配されていた。

「きたきたきた」

 女は同じ言葉を繰り返し続ける。

 粘液も絶えず溢れ出し、女の顔から地面へと不快な糸を引きながら滴っている。


 これは悪い夢?


 全身が震え奥歯がカチカチと音を立てていた。


「あ……ぁ」

 女は「きた」の連呼を止め、口を大きく開けて苦しそうに息を漏らす。やがて呼吸は小さく規則正しいくなっていき、別々の方向を向いていた瞳は徐々に真ん中に戻り、ついにある一点で焦点を結ぶ。


 私を見た。


 息がかかるくらいの距離で女と私は見つめあっている。さっきとはまるで違う意思を感じる瞳。正気ではない女が私の事を見据えていた。早くこの場から逃げ出したい、見ることすら嫌なのに、怖くて視線を外すことが出来ない。私の身体は強張り、固まって緊張しきっていた。

 猫背だった女が突然すっくと背筋を正す。私が思わず身構えると。



「……あ、あら」


 それは理性的な声だった。



「え…」

 私は思わず怯え切った声を漏らす。

「ああ、ごめんなさい。ビックリさせちゃったみたい」

 手で自ら溢れ出した粘液を拭い、落としていく。

 完全に狂っていると思った人間が急に理性を取り戻した。

「ごめんなさいね。こんな場所で今みたいなのを見たら怖かったよね」

 女の顔はひどく汚れていて、得体のしれないシミの様な変色があったものの、その仕草口調は何処にでもいる普通の女性の様だった。

「大丈夫? 立てる?」

「え……あ、はい」

 混乱から覚めない私は、女性から差し伸べられた手を素直に掴んでしまう。


 ぬちゃり


 彼女の粘液。


 何か触れてはいけないものに触れてしまった気がした。



 その感触に嫌悪を覚えると同時に、私は女の力に支えられて立ち上がる。

「怪我はしてない?」

「……」

「大丈夫。不審者じゃ……って言ってもこれじゃあ説得力ないよね」

 自嘲気味に女は自身の姿を見ている。

「……」

 私は何も言えなかった。何か言って彼女を刺激するのが怖かった。

「私は、ただあの水を飲んでただけ」

「え?」


 あの水を飲んでいた。


 彼女は当然の事のように言った。あんな野晒しの水を飲むなんて普通考えられない。

「あんな水を飲むなんて、って思ってるでしょ? 確かに普通はあんな水飲めないよね。でもね、あの水には神秘の力が宿ってるの! まさに神様の贈り物よ! 」

 恍惚とした表情で女は続ける。

 正気なのか狂っているのかまるで判然としない。整然と理解しがたい事を話す姿がどっちつかずで怖い。

「はぁ……」

 目を輝かせてまくし立てる彼女に、私は震える声で相槌を打つしかなかった。

「普通では見えない深遠の世界を見せてくれるのよ。そして日々の生活、息をするだけでも身体の中に溜まっていく汚染物質を外に追いやってくれる」

 この人はいったい何の話をしているの?

「でも駄目ね。排出しても排出しても毒素は溜まる一方。だってそうよね今の世界は汚染物質だらけ、ただ生きているだけでも汚れるんですもの。排出より吸収の方が早い。もはやこの汚染されきった世界で産まれて生きている以上、私たちの身体も汚染物質で出来ている様なものだよね」

 正気とは思えない人間が目の前で感情の昂ぶりを見せていく。そして―――


「だから私ね、産まれなおす事にしたの。あの水がその方法を教えてくれた。本当に素晴らしいことよ」


 女が水たまりの方を向く。

 彼女が私から視線を切った。


 考えるまでもなく私は駆けだしていた。

 身体は勝手に動いていた。一刻も早く此処から逃げなければ、ただそれだけ。

 石畳を駆け抜けて石段を下りようとする私の背後からこんな声が聞こえた。


「まだ信じられないでしょうけど、ちゃんと私が証明してみせるからね」


 恐怖に強く背中を押されて石段を何段も飛ばして駆け下りていく。

 全力で丘を駆け下りて、ようやく街灯と民家が立ち並ぶ風景に戻った。

 疲弊し痙攣する膝に手をつこうとして、ふと気づく。 

 

 手にはまだあの女の粘液がついていた。

 

 凄まじい嫌悪感。私は酸素が足りなくて眩暈を起こした身体で、近くの公園に入り水道で粘液を落とした。喉の渇きすら忘れて一心不乱に手を洗う。さらにコンビニでトイレを借りて石鹸を使って念入りに、念入りに手を洗った。

 忘れがたい感触ではあったがもう手に粘液を感じることはない。

 

 でも、あの時はっきりと感じた感情。

 「触れてはいけないものに触れた」

 その嫌悪感はどうしても消えることはなかった。


 家に着くとすぐに母親に言って、神社に不審者がいたと警察に通報して貰った。

 親にはジョギングを禁止されたが、私自身もう走る気にはなれなかった。

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