カニ尽くしの夜
青白く痩せこけた顔の中、不気味に輝く三白眼から放たれる殺気がセフィールを射貫く。
蛇ににらまれたネズミのように、セフィールの足は床に張りついた。
ノーマンは微動だにせず、鋭い包丁を構えて立ったままだ。
動けずにノーマンの顔をただ見上げるだけのセフィール。その右腕に冷たい風を感じた。
次の瞬間、針で刺されたような痛みが走る。
セフィールが恐る恐る右腕を見ると、小さな赤い点から血がにじんでいる。
ノーマンの動作は、彼女にはまったく見えなかった。
瞬速の一撃だったのだ。
ノーマンは死人のように無表情だ。その彼が包丁を調理台に放り投げた。
「やっぱり、つまらないです。王女殿下、貴方様は弱すぎです。せめて、もっと派手に怖がったりしてくださらないと……」
ノーマンは調理台に山積みとなったカニの肉をむしるようにつかみ取った。
そして、動けないままのセフィールの後ろに素早く回り込み、口を無理矢理こじ開け、カニの肉を押し込んだ。
「ぐぐぐ……、な、なにするのよ……、あんた!」
「王女殿下、このカニ、お好きなんですよね? 大大大大サービスです。不肖世紀の暗殺者のノーマンが給仕して差し上げましょう。さあ、どんどん、どんどん。どんどん、どんどんお召し上がりになってください」
「ぐっぐ……、ぐぐぐっ……」
ノーマンはセフィールの小さな口に、次から次へとカニをつめ込む。
「ぐぐ……」
もうセフィールは一言もしゃべることが叶わない。溢れた赤いカニの肉が、口から床へとこぼれ落ちていく。
「さあ、王女殿下、私めが捌いたカニの肉は、まだまだ、まだまだ山ほどありますから。遠慮せずいくらでもお召し上がりください」
カニの肉が喉をふさぎ、セフィールは息をするのも難しくなってきた。
それでも骸骨のように細く長いノーマンの指が、口の中にカニの肉を無理矢理押し込み続ける。
とうとう息ができなくなり、気を失いかけそうになった時──、ノーマンがその手を止めた。
「誰か来たようです……。
彼はセフィールから手を離し、流れるような動作で調理服を脱ぎ捨て、厨房から走り出た。
「おい、セフィール。お前、調理の邪魔になるから、そろそろ戻れよ」
扉を開け、入ってきたのは軍服姿のキースだった。
涙目のセフィールは彼を見ると、腰を折り、激しく嘔吐した。
「うおろぉ、おろおろおろおろおろおろぉ────────────おろおろぉっ、ぉっ!」
「セフィール! お前、いったいなにやってんだ!」
キースが彼女に気付き、駆け寄る。
厨房の床は、グチャグチャのカニの生肉と彼女の胃液でベチャベチャだ。
ひどく咳き込むセフィールの背中をキースがさする。
「お前なあ、いくらニジイロタカアシガニが好きだからって、こんなになるまで盗み食いしなくても……」
「げっ……、げほっ……、違っ……、違うの……。ノ……、ノーマンが……」
「ノーマン……?」
「げほっ……、そう……、ノーマンが……、いたの」
「おい、それは本当か? セフィール!」
キースは厨房の扉に飛びつき、通路の左右へ首を巡らす。
眉間に皺を寄せ、目を細めるが、薄暗い通路の先にはなにも見えない。
「ちっ! 逃げたのか。まさか、あいつがこの船にいるとはな……」
キースはまだ激しく咳き込むセフィールを抱え、医務室へと走った。
◇◆◇
「では、我が海の守護神トライトンに感謝を込めて──」
食卓の前、毛むくじゃらのごつい手を合わせ、ラトリッジ艦長がそっと目を閉じる。
敬虔な祈りの中、今日は兵士たちの様子がいつもと違う。
ラトリッジが薄目で見ると、テーブルに並ぶ豪勢な料理を前に、みんな我慢しきれず落ち着きがない。
テーブルにはカニ鍋、カニ飯、カニ団子、カニフライ、カニのサラダなどなどカニのフルコースが所狭しと並んでいる。しかもただのカニじゃない、超高級食材のニジイロタカアシガニだ。これだけの量となると、大富豪でもおいそれと目にすることはないだろう。
しかし、彼の横に座るセフィールはどこか元気がない。大好物を前にいちばんそわそわしていてるはずの彼女にしてはどこか様子がおかしい。
祈りを終え、一気に騒がしくなった食堂で、ラトリッジはセフィールの肩を叩いた。
「おい、どうした? お前の大好物だろ。好きなだけ食べろ。いくらでもあるんだ」
剥いたカニの身を顔の前に出してやっても、彼女は両手を膝にのせたままうつむいている。
ラトリッジがその隣を見ると、牧師姿の男も同じような感じでうつむいている。
「キースさん、セフィールはいったいどうしたんです?」
「いや、さっき厨房で食べ過ぎて……、もう食べたくないみたいです」
「キース、吐きそうだから、私もう行くね」
「あら、お姉様。もう終わりですの? 全然食べてませんわ。せっかく、こんなにカニがありますのに」
「ルフィール様、私も気分が悪くなりましたので、失礼したいのですが……」
青い顔をしたピートがハンカチで口許を押さえ、腰を上げる。
「ピートはダメよ! 一つ一つ欠点をこれから克服していかないと、この先苦労しますわ」
「えええ〜、そんな……」
そろそろ腕から蕁麻疹が出始めたピートであった。
食堂を出たセフィールをキースが追った。
「私のことは放っておいて。キースは食べてていいよ」
横を歩く彼に、顔色の悪いセフィールが言う。
「馬鹿、ノーマンがどこかにいるんだ。お前、一人にさせられるか」
「ノーマンのこと、ピートには言った?」
「ああ、もちろんだ。けど、今のあいつじゃ、ちょっと心配だな」
キースは甲殻類アレルギーのピートを気遣った。
「ノーマンが狙ってるのは、私とルフィールだから、もしもの時はキースは逃げて」
「馬鹿言え。そんなことしたら、亡くなられた国王に顔向けできねえよ。それに……」
「それに、なに?」
「奴が楽しみにしてるのは、俺とピートとの対決だ。お前も憶えてるだろ?」
「それって、列車の上でノーマンと闘った時のこと?」
「そうだ。あのギリギリの死線の状況で、奴は見たことないような嬉々とした顔をしていた。奴は強い人間を殺すことに、至上の喜びを覚えるタイプの人間なんだ」
それを聞いて、セフィールは厨房でノーマンが言った言葉を思い出した。
(やっぱり、つまらないです。王女殿下、貴方様は弱すぎです)
「キース、くれぐれも気をつけてね。絶対に死んじゃダメだよ!」
セフィールの小さな手がキースの手を握る。
「おう、お前を守るのが俺の仕事だからな。お前を王女に戻すまで死ぬもんか」
キースはセフィールにニヤリと笑い、無精ひげを撫でた。
「ルフィール様ぁ〜、もう〜勘弁してください。私、死にそうです」
食堂でただ座っているだけのピートが情けない声をあげた。
「ピートの役目は私を守ることなんだから、私より先に死んじゃダメですわ」
ルフィールはカニ爪片手に、フォークを持った手でピートを指さす。
「それにしても……、ニジイロタカアシガニ、なかなかですわ。以前、食べた時はさほど美味しいとは思わなかったのに、私も大人になったのかしら。ねえ、ピート」
ルフィールが彼を見ると、口から泡を吹き、白目を剥きかけていた。
「あら、大変! ラトリッジ艦長、ピートが!」
「ちっ、見かけどおり使い物にならねえ野郎だな」
ゴミでも見るような目でラトリッジはピートの肩を支え、医務室へと向かった。
そのあとを心配顔のルフィールが続いた。
そんな様子を気にもせず、ジョアンヌはカニのフルコースに夢中になっていた。
「これは……、いつ食べても飽きない美味しさね。もっとニジイロタカアシガニの漁獲量を増やして、サザンテラルの財政を豊かにしたいわ」
王女は頭で皮算用をしてニッコリと笑うと、皿の上のカニの脚に手を伸ばした。
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