三題噺「トゥンカロン」「ワサビ」「四暗刻単騎待ち」(約4,400文字)

 初めたての頃に運だけで四暗刻単騎待ちスッタンなんか和了アガったせいだ。


 おかげで完全に認識が狂った。暗刻アンコはちょろい。ただ同じ図柄を三枚集めるだけのこと、まったく麻雀というのは楽ちんなゲームだ——と、その勘違いのおかげで山盛りのワサビを食わされる羽目になる。


「アアーーーーッ!」


 室内に響き渡る絶叫。薄暗い小部屋はせいぜい十数帖ってところで、真ん中にデンと置かれた全自動麻雀卓の、その上座にあたる席に僕はいた。いや雀卓でも上座って言うのだろうか? 要は一番奥、つまり出入り口から最も遠い席だ。逃げられない。もうだめだ。やっぱり僕みたいな素人の来るべき場所じゃなかったのだ、この場所は。

 部室棟の地下倉庫、この勝負のために特別に設えられた対局室。人の目の届かぬクローズドな環境だからこそ、こんな無法がまかり通る。山盛りのワサビ。顔中を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、床の上を海老みたいにびっちんびっちん跳ね回る、そんなミハルお嬢様の姿を僕は初めて見た。


 ——よかった。お嬢様が世間知らずで。


「なんか、ほら。進化版のマカロンらしいですよ。流行りの」


 その思いつきのひとことで「まあ!」と顔を輝かせ、そしてなんの迷いもなくパクッといってくれた。半荘戦東三局、跳満の直撃でしまった僕の、その罰ゲームであるところのそれを。

 たこやくミハル。ここ私立せいいん学園高等部の一年生にして、学内お嬢様序列ランキング第九十八位の〝最下層お嬢様〟。

 それがどうして僕を代打ちにして麻雀なんかやってるのかは、どうにも説明が難しい。

 簡単にいうなら、ただの偶然。僕、はちのへすぐるがミハルお嬢様の秘密を知ってしまったのはついこないだのことで、以来、一蓮托生の仲とされてしまった。悲しいことに拒否権はない。ここ清華院学園において、僕みたいな普通の男子生徒というのは、実質的に奴隷と同じ扱いなのだから。

 なんの権限も権利もなく、ただお嬢様の奴隷としてこき使われるだけの存在。

 せめてもっと上位のお嬢様の奴隷なら、と、そう思わぬ日はないけどでも詮無いこと。「八戸、貴方はわたくしと革命を起こしますの」と、自信満々にカチコミをかけたのがここ卓上遊戯部の部室だ。

 ——最近麻雀にハマってる、なんて、僕がそんな余計なことを言ってしまったおかげで。

「いやハマっているって言ってもネットの無料ゲームのやつで、それだって最近SNSで知り合った人妻の影きょ」

「ンンンンアアアアアクソ辛ェェェでございますわァァァァァ!」

 聞いてない。もうだめだ。どうにかワサビは回避したものの、でも勝てそうもない状況自体は変わらない。同じだ。どうあれ、この部屋から脱出できない以上は。

 お嬢様同士の序列をかけた決闘、そのルールは別になんでもいい。両者が同意さえすれば別に麻雀でも構わず、もちろん奴隷に代打ちさせるのも自由だ。奴隷はお嬢様の所有物である以上、お嬢様の〝実力〟の一部と見做される。自身の能力のみならず、手持ちのあらゆるリソースを尽くして、自分の敵対者を叩きのめす——清華院のお嬢様のあり方は非常にシンプルで、だからこそ一度も前例がない。

 学園の歴史上、入学時に決定されたお嬢様の序列が、実力勝負によって覆されたことなど。

 そりゃそうだ。上位は権力を持つからこそ上位なわけで、そこに下位がかしずくことにより、その権力はなお強化される形になる。一度形成された権力構造はあまりに強固で、誰も革命なんか望んじゃいない。時折、何か派閥同士の小競り合いみたいなものはあっても、しかしそれだって最初から落とし所の決まった、ただの建前上の牽制みたいなものだ。

 誰もいない。

 この確定したヒエラルキーを、本気で打ち崩そうだなんて人間は。


「それを、一年坊の分際で。甘い理想を吠えるからそういう目に遭うのよ?」


 雀卓を挟んでトイメン、早くも勝ち誇った表情の上級生。卓上遊戯部部長の三枝さえぐさ、僕とミハルお嬢様が決闘を申し込んだ目下の〝敵〟だ。序列は七十二位、勝てれば一気に二十六嬢抜きの大番狂わせジャイアントキリングになる。

 通常、この学園のお嬢様に、下位からの決闘を受けるメリットはない。そして決闘には両者の同意が必要な以上、なんだかんだ逃げられるのが通常らしいのだけれど、でも「麻雀勝負なら彼女は断れませんわ」というのがミハルお嬢様の言い分だ。果たして、本当にそのようになった。格下から自分の得意分野で挑まれ、尻尾巻いて逃げたらお嬢様はやっていけない、と、その読みまではまったく見事だったのだけれど。


「蛸薬師ミハルさん、でしたっけ? あなたには、少しお勉強していただく必要がありそうね」


 薄く笑う三枝さん。雀卓の左右、カミチャシモチャの強面かつ屈強な男たちも、明らかに彼女の配下なり奴隷なりだ。勝てるわけがない。最近ちょっとネット麻雀を齧っただけの素人が、部活としてやるくらいには打てる人間を相手に、ましてや三対一の勝負だなんて。


 事ここに至っては致し方なし。いま、僕のなすべきことはひとつ。

「いやー、さっすが三枝様! 僕は信じていましたよ、貴方様ならやってくださると」

 土下座。からの、流れるような命乞い。彼女は答える。「あらごめんなさい、私は何もしていなくてよ」と。確かに、その通り。対局は僕が勝手に自滅したようなもので、何より罰ゲームの山盛りワサビは、僕自身が直接提案したものだ。

 決闘申込みの後、この三枝さんに対して、ミハルお嬢様のいないところで。

「でもまさか、それを自分の主人に食べさせるとはね。貴方のお陰で面白いものが見られました。礼を言います」

 いえいえそんな滅相もない、とへりくだる僕。彼女は続ける。宣言通りのお礼と、そして、もうひとつ。


「ありがとう、名も知らぬ奴隷さん。そして——さようなら」


 要らないわ。私の身内に、貴方のような恩知らずの卑劣なコウモリは——そうこちらを見下す三枝さんの、なんだか背筋の凍るような酷薄な笑み。なるほど、ミハルお嬢様の首を手土産に持たせはしても、面倒を見てくれる気はないらしい。予想外と言えば確かにその通りなのだけれど、でも。

 どうでもいい。

 事ここに至れば、もはや僕の役割はすべて終わった。


「——当たり前でしてよ。この蛸薬師ミハル、貴方様がたには何ひとつ差し上げるつもりはございませんの」


 凛として響く声。見上げればそこに、ミハルお嬢様の姿。三枝さんの向こう、堂々仁王立ちする彼女は——もんどり打ってのたうつ間に移動したのか、この部屋唯一の出入り口の前に佇んでいる。


「こういうのを、聴牌テンパイ、と言うのでしたっけ? 喉笛に牙がかかりましたわね、貴方様がた」


 制服代わりのドレスに身を包んだ彼女が、その場に低く腰を落とす。コンクリの床に根をはるかの如く、その場に大きく足踏みをひとつ。揺れる。ズシン、と、この狭いコンクリートの小部屋が。いつの間にか両手に装着されていたそれは、真っ赤なオープンフィンガーグローブだ。

 一応、聞いていた。事前に、「わたくしはやる気でしてよ」と。

 この清華院学園、校則として定められた〝決闘〟のルールに、確かに存在しているセキュリティホールを突くのだ、と。


 まさか、と思った。

 そんなはずがあるかと、少なくとも、この卓を囲むまでは。


「瑠璃香さん。この密室に、見たところそこまで麻雀が本分とも思えない、立派な体躯の男性を二名。それはつまり、そちらもそのつもりであった、ということでよろしいですわね?」


 認めざるを得ない。

 ただの口約束でしかないルール決めと、そして立会人もないままの勝負。

 遊戯や勝負事に、何かを賭ける行為が成り立つのは、その支払いを確実に履行させる強制力があってのことだ。逆に言えば、相手が支払いを強要するだけの力を持たないのなら、後からいくらでも反故にできる。

 ——つまり。


「決闘のルールに関する『両者の同意』、その条文では、事前か事後かまでは問われていない……」


 僕の言葉に、ミハルお嬢様が頷く。大きく息を吸いこみ、そしてひとこと。


「さあ雑魚の皆様、おいでなさいまし! その歯ァ全部叩き折って差し上げましてよ!」


 そこからはもう、無茶苦茶だった。

 全自動卓を蹴りで跳ね飛ばし、上家の男に叩きつける。同時に振り向きざまの回し蹴り。綺麗に入った。もう一方の男、その顎先に。

「グッ」

 短い悲鳴をあげてくずおれる彼。その鼻先に、トドメの膝。吹き出る鼻血をドレスに浴びながら、ミハルお嬢様が再び震脚をひとつ。ヒラヒラと舞うドレススカートの裾は、本来なら可憐で優雅な光景だったはずだ。

 雀卓を跳ね除け、起き上がってきた上家の男。その大ぶりの拳を掻い潜り、懐に飛び込んでの必殺の肘打ち。ウオラァ、とも、ンゴルァ、ともつかない獣の咆哮が、今も耳に染みついて離れない。

 ——すべてをご破算にし、ただ暴力で奪う。

 文字にしてしてしまえば簡単なこと。しかしそれを実行に移すだけの、力と野蛮を同時に備えた者が、一体この時代にどれほどいるというのだろう?

 獣に堕ちることを恐れぬ者。

 それが彼女、失うものなき〝最下層お嬢様〟たる、蛸薬師ミハルの最大の強みだ。




 ——きっと、時間にすればわずか数秒。

 完全に制圧され、静まり返った対局室。

 もはや完全に雌雄は決した——と、僕はそう思ったのだけれど。


「さて、八戸。どういう了見かお聞かせ願えまして? 確か、貴方がお花摘みか何かに立つふりをして、入り口のドアを押さえる、という手筈でしたわよね?」


 返答如何によっては覚悟なさい、その手足すべてへし折って差し上げましてよ——なんて、そんなこと言われたって僕は知らない。いや知らないわけじゃないけど僕はただベストを尽くしただけっていうか、だってこうまで負けが込んだ人間の、「ちょっとトイレ」を信用する人間がどこにいるのか?

 なんて、そんなこと冷静に釈明する、その余裕がなかったのが悔やまれる。

「ヤダーッ! こッ、殺さないで! なんでもしますから!」

 心の底からの命乞いに、でもみじろぎひとつしないミハルお嬢様。その腕や脚の筋肉が、バンプアップしたまま戻らない。フッ、フッ、と浅く早い呼吸に、心なしか散大して見えるその瞳孔。本気の暴力、本物の闘争を経た直後の、なお維持されたままの臨戦体制。

 クールダウンが必要ですねと、理屈ではもちろんわかっている。頭で理解していることと、それを体で実践できるかどうかは、しかし悲しいかなまったくの別問題だ。


 突如、囁くような声で彼女は言う。確か、トゥンカロンでしたわね、と。


「太っちょマカロン、という意味の言葉が由来の、マカロンの進化版。思い出に残るそのお味、ぜひ八戸にも味わって頂きたいですわ」


 ガッ、と力ずくで押さえつけられる顎。迫るもう一方の手の中に、練りワサビのチューブが三本ほど。慈悲はない。救いも、生き延びる方法も。

 ここは清華院学園。権力と暴力だけが全てを支配する箱庭。

 序列七十二位、ちょっと最下層から浮上したミハルお嬢様の、長い戦いの物語はここから始まる。




〈三題噺「トゥンカロン」「ワサビ」「四暗刻単騎待ち」 了〉

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