終末の四季

北見崇史

春 捧げ花

 人喰いの妻を背負って、私はこの街にやってきた。

 どしゃ降りの雨が続く闇夜の中を歩いてきたので、肢がすっかり冷え切ってしまい感覚が定かではない。いま自分が踏み出したのがどの肢なのか認知することができず、深い水溜りに嵌り太ももの裏側に突き刺すような冷たさをおぼえて、ああ、まだ歩くことを止めていなかったのだなと気がついた。とにかく、しっかりとした建物まで行かないことには休むことができない。だれかに追われているわけではないが、屋根のある場所でゆっくりと休息をとるのが、私たち夫婦の流儀なのだ。 

 背負った妻の具合が気になっていたが、今日はほとんど看てやれなかった。彼女は数日前から元気をなくして、虚ろな息遣いを繰り返していた。寒さには強いはずだし、横なぐりの風雨でもけっして濡れぬよう、その身体は燻した赤ん坊の皮で作った袋に入れていた。防寒性はあるのだが、風邪で体調をこじらせているのなら、かえって蒸れてしまったのかもしれない。もし堪えきれないほど苦しいのなら、腐れ牛のように涎をまき散らしながら叫んだり、私の背中を無我夢中で噛むなりしているはずだが、いまの妻は静かなものだった。生気が弱いのは熱があるのと空腹のせいだろう。すまないことに、ここしばらくはロクに食べさせてはいない。

 真っ暗な廃墟の街を休めそうな場所を探してうろついた。雨風をしのげればそれだけでよいのだが、建物はどれもが激しく破壊され原型をとどめていなかった。屋根のある家には柱だけで壁がなく、壁面がしっかりとしている劇場には屋根がなかった。階上には黒い空虚が充満し、幾階にも及ぶ叡智を費やした建築物の群れは、いまや物置小屋にもなれなかった。街は崩れた瓦礫で埋め尽くされ、とにかく、どこもかしこも崩れ落ちていた。しっかりと気を休めるには、たとえそれが不可能なことであっても、時を遡らなければならないだろう。

 しばらく徘徊した後、ようやく落ち着ける場所を見つけた。その頃には雨はあがり冷えた風だけが吹いていた。いつの間にか月が出ていた。虚ろな街の全景がかすかに浮びあがり、比較的損傷の少ない一つの建物を仄めかした。私たちは、ためらうことなく中へ入っていった。

 そこには血の臭いが充満していた。部屋の内壁はツルツルし、ガラスのなくなった窓から射し込む月光を淡く反射させている。錆びて骨組みだけになったベッドが、中央にポツンと置いてあった。拷問か解体が為されていた部屋だろう。怯えと憎しみが混ざり合った霊気を感じる。

 私は床に腰を下ろしてじっとしていた。そうしていると、歩いている時につい忘れていた妻の温もりを感じることができた。彼女の柔らかな乳房から、私の背中を伝って心臓の鼓動が聞こえる。歩き続けた一日の疲れを癒す、じつに心地よい鼓動だ。なにもせずにその伝わりを楽しんでいると、背中の下のほうが急に生温かくなった。屁虫を握りつぶしたような臭いがする。どうやら粗相をしたようだ。

 妻をくるんでいた皮袋を背中から外した。思ったとおり眠っている。私は妻の鼻先に、そっと頬ずりをした。それからねっとりと濡れたものを拭い取ると、ベッドに皮袋を敷いてからそっと寝かせた。今日は彼女の空腹を満たすことはできなかったが、明日になれば何とかなるだろう。廃墟でもまったくの無人ではないだろうし、きっと隠れている人間がいるはずだ。

 妻の手足を吹き飛ばしたのは蜘蛛の子爆弾だった。それは産まれる寸前の蜘蛛の卵塊を突いたように、着弾とともに散らばった。そして何でもかんでも引き裂いてやろうとする邪まな子蜘蛛たちが、そこいら中で破裂した。

 攻撃機が飛来したとき、妻は木の陰に隠れてやり過ごそうとしたのだが、なにを思ったのか幹に手足を巻きつけ抱いてしまった。無数の子爆弾が木の周りで弾けた後、手足を根元から吹き飛ばされた妻は、もはや幹を抱いていなかった。もがれた傷口から紅色の血を噴き出しながら、火に追われた芋虫のように這いずりまわっていたと、浮浪児の瞳が物語っていた。

 多くの怪我人と同じように、妻はしばらく誰にもかまわれることなく放置された。私が出会ったとき、彼女はもうすぐ旅立とうとしていた。息を聴こうとすると、ほんのりと温かみのある湿った吐息が、私の堅い頬をそっと濡らした。こと切れそうな小さな瞳と震える舌が、凍てついていた私の心のひだをどうしようもなく撫でた。無垢な者の血で染まった夕陽が地に落ちようとしていたころ、私は傍らで見守ってくれた子供を瓦礫のなかに埋めた。そして妻と伴に歩みだしたのだった。

 暗黒がすっかりと消え去り、朝の気配が漂っていた。小さな鳥が吐き出すしゃがれ声がだんだん増えてきて、かわりに寒々しかった霞が後退している。建物全体を包み込んでいた冷気が急いで去っていった。うとうとまどろんでいると、天井付近にできた割れ目から数本の日光の矢が差し込んできた。それらがちょうどよく妻と私に当たり、身体を暖めてくれる。今日はこの時期にふさわしく、暖かで温和な日和になりそうだ。

 妻はまだ眠っていた。青白かった頬に淡い桃色が浮かび、こころなしか安らかな表情に見える。どうやら熱がひいたようだ。私は外に出て、汚れていない土に生えた葉を探した。そして葉っぱについた朝の滴を集めた。妻にはほんの少ししか飲ませてやれなかったが、目覚めには役立ったようだ。瓦礫のすき間や地面には、昨日降った雨水がどんよりと溜まっていたが、それらは私の喉に流し込んだ。

 やわらかくて気持ちの良い陽光を浴びて、私たちは建物をあとにした。歩きはじめてすぐに、背負っている妻が何ごとかをか細くつぶやいた。いつものようにそれらの意味は分からなかったが、私は為すべきことを知っている。背中に首を回して何度も頷いてみせた。そうすると妻は安心して袋の中におさまった。そうなのだ。あの廃工場を出てからロクに食べさせてはいなかった。今日こそ人間を見つけなければならないのだ。

 どの街にもいえることだが、ここも元の街並みがわからないくらい破壊されていた。道にはブロック片やガラス、金属片など、多くの瓦礫が散らばっているので歩きにくかった。蜘蛛の子爆弾の生き残りもちらほらと見かけた。それらの子蜘蛛はまったく動こうとはしないけれども、しっかりと生きている。迂闊に触ったりすると、ポンと破裂して肉をえぐり、強烈なる痛みを与えてくれる。

 人間や動物の死骸をそう簡単に見つけられないのは、腐肉喰らいが跋扈しているからだ。奴らは肉とみれば、それがどんなに腐っていようと見境なく貪る。腐肉には悪い菌が溜まっているので、耐性のない奴は苦しみながら野たれ死ぬ。その死骸をさらに喰らって、強い奴まで死んでいくのだ。おかげで腐肉喰らいどもの数はめっきりと少なくなって、それはそれで都合がよかった。奴らは襲ってきたりはしないが、近くにいると何かと目障りだし、そのみすぼらしくて卑劣な姿を見ると、妻は機嫌が悪くなってしまう。

 街の中心地付近を散策していると、ちょっとした広場に行き着いた。暖かな陽光を遮ってしまう建物群から独立しているので、その生ぬるい感触を楽しみながら休むにはちょうどいい場所だ。真ん中に葉っぱが異常なまでに茂った場所があった。近づいて刺のついた葉をかき分けてみた。円形に崩れた瓦礫の中から水が湧き出している。嫌な臭いが感じられない。毒のないきれいな水だ。もとは噴水があったのだろう。

 私は背負った袋を抱きかかえるように回して、そっと下へ傾けた。妻は亀のように首をのばして、その水をすすった。おいしそうにごくごくと喉を鳴らして味わった後、背中に戻ってから何事かを囁いた。私は小さく頷いて、自分にはこの水が必要でないことを知らせた。朝飲んだ量で充分なのだ。

 傍らに、子供が立っているのに気がついた。妻を見守ってこと切れたあの浮浪児のように痩せて汚かった。見捨てられたどの子供にもいえることだが、胴体に申しわけ程度の布をまとい下半身は丸出しにしている。私たちの姿がめずらしいのか、小首をかしげて、黒く煤けた小さな尻を掻きながら見つめていた。

 背中の妻が声をかけるが、子供は呆然としたまま反応がない。妻の額が背中をコツコツと叩いた。私は袋の物入れから甘い破片を取りだして、その子の足元へ投げてやった。それは大蜂の巣から大変な苦労をしてとった、蜜の塊の最後だった。

 ところが、どこからともなく別の浮浪児が走ってきて、その蜜塊を奪ってしまった。少しばかり大きなその子は、私を睨みつけたまま奇声をあげて威嚇した。切れ長の黒い目に、痛いほどの敵意を感じる。私たちはその場から立ち去った。少し離れてから振り返ると、大きな方が蜜を食べていた。最初の子供はなにも与えられることなく、相変わらず呆然と立っているだけだった。

 私は、食べ物を探すためにうろついていた。妻は袋のなかで一切の身動きもせず、言葉も発しないで、じっとしている。その重苦しい気持ちを慮って、なるべくさり気なく歩いていた。崩れて傾いた壁のすき間や地下室などを丹念に見てまわった。こういうところは、群れからはぐれたり、見捨てられた人間がねぐらにしていることが多い。さっきの浮浪児たちも、夜になると雨風をしのぐためにもぐり込むはずだ。そしてそのまま弱り果てて、死んでしまうことがよくあるのだ。

 しばらく歩きまわると油と泡だらけの河があった。崩れ落ちかけた橋の下に人間が斃れていた。首に爪を突き刺してみると真っ赤な血が流れ出してきた。かっと見開いた目を触覚で叩いて感触を確かめてみる。腐敗はまだ始まっていない。どうやら死んですぐのようだ。髪が長いのと胸にわずかばかりの膨らみがあるので、これは女の人間だ。妻よりはよほど美しくないが、人間の女である。痩せているので、衰弱死したのだろう。

 背中の袋を、そっと地面においた。そして下唇を噛みしめて視線を合わそうとしない妻を引っぱりだし、死んだ女の人間のすぐそばまで抱えて行き、そこに置いた。彼女自身にとっても、その行為がもっとも恥ずべきことであることは充分にわかっている。だから私はいつものように、少し離れた河原にて時をやり過ごすことにした。

 妻は断じて腐肉喰らいではない。糸虫が無数に湧いて腐れきった同胞の肉を、浅ましく漁るようなことなどしない。かといって、生きている人間を殺して喰うでもなかった。死んですぐの、放置された死体の肉を少しばかりもらうだけなのだ。謙虚で慎ましく、誰にも迷惑を掛けない行為だ。腐肉喰らいのように邪気を孕んでいるわけでもないし、同胞を襲って、生きたまま解体して喰い尽くす狂猛な人間でもない。

 だが妻が食事をする光景は、私が唯一好きになれない姿だ。一度だけその最中を見たことがある。巨大な芋虫がのそのそと死体に這いよって、腹に首を突っ込んでいた。白い皮と脂を食い破って、柔らかな臓器を啜るようにして喰うのだった。あのとき、聞くに堪えぬいやらしい音が私の節々を震わせた。愛しい妻が満たされるはずの行為が、私にとっては、もっとも忌まわし時であった。

 妻は自らの行為を心から恥じていた。でも仕方のないことといえる。私のように、その辺りに落ちている木っ端をかじるだけで生きられる身体じゃない。確固たる血と肉が必要なのだ。

 あの天地を震わす壮絶な争いで、何もかもが無茶苦茶になってしまった。戦いに夢中になった人間が、汚わいと毒を手当たりしだいに撒き散らしたため、大きな動物はほとんど死に、かろうじて生き残った動物も日々喘いでいた。たいていの植物は強い毒素を含むようになり、美しく歌う虫もいなくなり、死肉にたかる下等な虫けらだけが力強く生き抜いていた。人間が築きあげたものは、価値も意味もなくなり放置された。爛れてしまった大地に廃墟が点々と残されただけだ。支離滅裂なこの世界では、まともに息ができるだけマシなのだろう。

 生暖かく乾いた風がしきりに触覚を撫でまわした。昨日までの冷たい雨が気の迷いであったような朗らかさだ。張りつめていた気持ちがすっかり緩んで、妻とのこれからを気楽な想像の中で弄んでいると、私の本能が突如として剣呑な気配を察知した。

 振り返ると、橋の下に数人の人間がいた。妻を取り囲み、そのうちの一人が死んでいた人間を抱き起し、頭部に手をあてて何事か喚いていた。あれは激しく嘆いている仕草だ。死んだ女の仲間が戻ってきたのだ。

 私はこれから起こる事態を予想できた。仲間を喰ってしまった妻をリンチにかけることは明白だ。それに奴らの素性は、集団で同種を狩っては生きたまま解体し、貪欲に喰い尽くす鬼畜どもだ。現に、すぐ後ろにさっきの子供たちがいた。二人は肉がちぎれるほど強く縛られていた。ここまで連れてこられる前に抵抗したのだろう。顔一面が青黒く腫れていた。大きい方は特にひどくて、片方の目玉はすでに潰れていると思われる。その容赦のなさは、あきらかに餌となる運命を示していた。

 私はすぐに外と内の翅を目いっぱいひろげて空に飛び出した。そして奴らの真ん中に着地すると、全身で妻を覆った。一瞬、驚愕と畏怖の感情が私たちを包み込んだ。

 しかし、私は戦う術を知らなかった。妻を守ってやれる唯一の方法は、妻の身代わりとなって私が痛めつけられることしかない。奴らは初めこそ警戒して安易に動こうとはしなかったが、そのうち卑賤な嘲笑がわき起こった。そして扱いなれた暴力の衝動が、集団の歓喜をともなって襲ってきた。背中と腹部を何度も殴られ蹴られて、私の身体でもっとも丈夫なはずの外翅はひしゃげて根元から千切れてしまった。触覚も折られてしまったのか、感覚が曇ってしまい焦点がはっきりとしなくなった。私は、我が身の内にある妻の存在だけを感じようとした。

 私はいつまで耐えることができるだろうか。六つある肢のうち、何本が使える状態かわからない。片方の眼は一つ残らず潰されてしまった。殺されてしまう前になんとか抗わなければ、大事な妻の運命を、この卑しい鬼畜どもの手中に収めてしまうことになってしまう。弱体な私でも、死力を尽くせば一人くらいは殺せるだろう。そうすれば異形な化け物と恐れ慄いて、ひるんで逃げ出すかもしれない。

 妻に決心を伝えようとした時、身体にある節が小気味よい連続音を吸収した。たくさんの小さくて早いものが、私のすぐそばを通り抜け、卑劣な者たちがバタバタと崩れ落ちた。すでに鬼畜人間どもの大半が斃れていた。全身にいくつもの穴があき、それらから血を噴出して死んでいるのだった。

 まだ見えている片方の眼をこらして、私は周囲を見回した。いつの間に現れたのか、全身黒ずくめの人間たちが取り囲んでいた。彼ら全員が、私のよりもはるかに丈夫な甲を身にまとっている。お互いに会話もせず目線も合わさないが、彼らの動きにはまったく隙がなく、規律と連帯を強く感じさせた。殺戮者なのに不浄な気を感じないのは、この者たちが徹底的に鍛えぬかれた兵士だからだ。目的以外の不要な殺生に興じるほど下劣ではないのだ。

 彼らが携えていた武器が断続的に火を吐いて、まだ息のある奴にトドメをさしていた。鬼畜どもはすべて息絶えた。その性根と行いにふさわしくない、実に簡潔な死だった。

 私は覚悟しなければならなかった。この兵士たちからは逃れられないだろう。彼らは穢れたものを抹殺する優れた暗殺者だ。同族喰いの餓鬼どもと同じに見られたくはないが、私も処理されるだろう。しかし、なんとしても妻だけは助けてやりたかった。

 私は立ちあがった。もっとも下の肢はまだ生きていたが、中にあった二本は根元からもげていた。一本だけになった手を彼らに突きだした。こんなもの威嚇にもならないのは承知している。だが妻のためにできるのは、これが精いっぱいなのだ。

 黒ずくめの男たちは、警戒してはいるが攻撃してくる様子はなかった。私たち夫婦を取り囲んで、ただ沈黙していた。兵士の一人が短くつぶやいた。それは研究所が焼き討ちされたあの時、私をつくりだした者が言った言葉だ。屈強な兵士の前に膝をついて頭を吹き飛ばされる寸前のことだった。しかしながら、その言葉は極めつけの異種である私には理解できないのだ。

 私たちになんら危害を加えることなく兵士たちは去っていった。ボロボロになった虫けらと、地を這うことしかできない女など殺す価値もないのか、あるいは彼らの求める悪の範疇に入らないのか。どちらにしても嬲り殺されるのだけは免れた。

 あの子供たちもいなくなっていた。ドサクサに紛れて逃げたようだ。今日は生き延びることができたが、明日はわからない。どのみち、あの桎梏から脱出できずに野たれ死ぬことだろう。

 私は深手を負ってしまった。翅はもげて砕け散り、肢の半分はなくなった。激しく蹴られたため胸部や腹部に穴があき、少なからずの体液が滲み出していた。致命傷であり、もはや再生する望みはなかった。もう妻を背負って旅を続けることはできないし、彼女の空腹を満たしてやる望みもない。どこか休める場所まで連れていくのが精いっぱいだ。

 だが、ああ、なんてことだ。

 私が覆い被さって暴虐を一身に受けていたときに、妻は瓦礫の鉄線で自らの喉を突き刺していた。その傷は深いもので、血が泡を吹いてどくどくとあふれ出ていた。私が守り切れないことも、その結果、さんざん辱められたあげく残虐に殺されるとわかっていたのだ。

 私は妻を引きずって歩きだした。一歩踏み出すごとに、彼女の身体から生気がどんどんなくなってゆく。いつも感じることのできたあの温もりが失せるほどに、心の中に闇がばら撒かれた。狂おしいほどの喪失感に苛まれても、私はただ歩くことしかできなかった。

 どれくらいさ迷いつづけたのだろうか。私たちは大きな木の下で歩みをとめた。終の棲家を見つけたのではない。私の肢が一本折れてしまい、それ以上進むことができなくなったのだ。仰向けになった妻が、しきりに何か言っていた。一言声を出すたびに、首からの出血はひどくなった。相当な痛みのはずなのに、彼女はなぜかだか笑みを浮かべていた。

 妻のこんな表情を見るのは久しぶりだった。前に一度、そうだ、今日のような暖かな日に、ある大木の下でまどろんだ時以来だ。めずらしいことに、その木にはたくさんのきれいな花が咲いていた。いい匂いのする白くて美しい五弁の花だった。ひらひらと舞い落ちてきた花びらが妻の鼻先にふれると、両方の瞳を鼻に寄せながら、きゃっきゃと喜んでいた。そのこっけいな表情がなんともいえず可愛らしくて、私は生きている幸せを感じた。あふれでる伴侶の温もりがあまりにも心地よくて、自分が暗黒の世界にいることを忘れていた。その楽しい時はすぐに過ぎ去ってしまったが、胸を焦がす想い出は、我が心に永遠に焼きついた。

 しかし同じ大木に咲く花でも、ここはまったく違っていた。樹木自体、枯れきったように干からびて潤いも生命感もなかった。なによりも、五つに分かれた可憐なはずの花びらが、煤けたように黒いのだ。土地の毒気と廃墟の瘴気にやられて、死神が宿る木になっていた。

 私たちの最期を暗示するように、大木からつぎつぎと花びらが落ちた。それらは見る間に妻の華奢な身体を覆いつくし、さっさと土に還そうとしているかのようだった。

 どうやら私にも、その時が来たようだ。ひどくだるいし、極端に浅い呼吸しかできない。それすらも満足に続けられない。私は妻の傍らに仰向けになった。そして降り積もる矮小な花をともに受け取りながら考えた。最期のこの時、愛する者になにができるのだろうと。そうだ、この黒く煤けた花びらを美しく彩ってやろう。そうすると、妻はあの時のように喜ぶのではないか。逝ってしまっても、私を忘れないのではないか。

 わずかに残された力をふりしぼって立ちあがった。そして大木の幹に自分の身体を何度もぶつけた。小骨のような枝にしがみ付いていた花が一気に落ちて、綿毛が重なるように降り積もった。不吉な黒花につつまれながら妻は静まっている。見開いた二つの瞳に、まだかすかな火がともっていた。

 私は、ここに来る途中で拾っておいた金属の破片を自分の胸にあてた。もはやためらいはない。このうす汚れた凶器が夫婦の墓碑銘を刻むのだ。

 その鋭く突きだした先端部分を自分の胸部に突き刺して、表皮を切り裂いた。頭の髄をつらぬくような衝撃が走った。本能がすぐに止めようとしたが、私の意志は強固だった。思った通りに真っ赤な血が噴き出した。さらに下まで裂き続けると紅が出なくなり、かわりに白い体液が流れ出した。下腹に突き刺すと黄色の汁がしたたり落ちた。

 私の血潮を浴びた灰黒色の花は、赤や白、黄色に彩られた。美しい私の花々で妻を飾ることができた。しかし、彼女はもうなにも言わない。はにかんだように微笑んだまま、目蓋をそっとおろしていた。その不憫な一生をねぎらうように、ほんのりと生暖かな空気が降りてきた。

 妻は逝った。

 もう立っていられない。自らを切り裂いた痛みになんとか耐えているが、崩れ落ちようとする身体を支えることができない。機能することを止めはじめた臓器が、手前勝手に液状化している。砕けるように顔面が崩壊し、残っている眼の小さな目玉が一つ一つ閉じていく。暗闇がひろがり、それすらも感じられなくなってきた。

 命がこと切れる前に妻の唇にふれてしまいたい。私のきれいな花に包まれている妻に、最初で最後の口づけを捧げたいのだ。

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