第3章 コントローラーの本質 -4-
貴志という男は、常に燻った現状を最速で打破して前へ前へと進んでいく奴だった。そこには、凡人の思考の遥か上を行く閃きと、それを実現するだけの並々ならぬ行動力が伴っており、正に天才を絵に描いたようなスペックの持ち主であった。いわばそれは常識の範疇外に生きている存在であり、我々とは異なるロジックとルールの上を走り続ける生き物であった。その特質は良くも悪くも常に一貫しており、絶対に折れない彼自身の確固たる信念の元に、これまでも、そしてこれからも成立し続けるであろう。そういった意味で、自分こと烏藤という平々凡々な人間のそれを体現した存在は、貴志という人間の存在は何処か掴みどころがなくて理解するのが難しかった。ただ、それが自分よりも何段階か先の高次元の世界を歩いている、怪物のような何かである事はなんとなく肌で感じ取れた。それだけに、つまり、それが感覚レベルにおいて自分と貴志との差異を知覚させられるだけに、自分がその何段か上のステージにどう頑張っても立てない事への劣等感と、理解したくてもできない本質的な信念のそれに当てられ続けるストレスは並大抵のものではなかった。彼と知り合って初めの頃こそ、自身が愚かで、馬鹿で如何に井の中の蛙だったのかという事を理解し、消化し、そして自身の進化の糧に昇華してやろうともがき苦しんだものだが、間も無くそれは無駄な足掻きである事を理解できた。哀しきかな、それが理解できるくらいには、当時の自分の思考力は進化していたという事だ。
だからこそ、天賦の才を持ち合わせし者達が、平民でも理解できる落とせないポイントを蔑ろにする事は、どうしても許せなかった。自分なんかが憂うまでもなく、物事の浅はかさや愚かしさなど呼吸をするよりも簡単に目に視えるだろうに。何故、わざわざそれに目を瞑るんだろう。それが、一番理解らなかった。
もう間もなく、今日の吹奏楽団の練習の準備の為に下回生がやってくる頃だろう。もう、直射日光は窓から差し込んで来ない。髪の毛が焼かれるような感覚はない。暫しの沈黙が部室を支配したその後で、彼は、貴志は短く言葉を発した。
「馬鹿はお前の方だ、烏藤。まだ物事の本質も見抜けないのかよ、その目はさ。LINEの使い方なんて、心底どうでも良い事だろうが。今、限られた時間と金と持てうる人材の中で、何をする事が、何をする必要があるのか、もっと優先順位をつけろよ。目先の正解に囚われすぎだ。」
いつも通り、彼は凡人が理解できる言葉を綴らなかった。
「300を完璧に押さえて、29をやっとの思いで纏めた頃には、お前のキャパはもう無くなってるよ。それで頂点の1はパーだ。300の内どれかが疎かになってても良い。29がほとんどうまくいかなくたっていい。それでも、頂点の1だけを見ていればいい。それが落ちなければ下の329は極論どうでもいい。上だけ見てろ。」
そして、件のネットオークションで見つけたという、フリューゲルホルンの落札画面が映ったスマートフォンの画面を見せつけながら、言った。
「そんな事もわかんないから、いつまでも無能のままなんだよ。やる事やってから物言え。」
それだけ言い残して、彼は部室を出て行った。私は悔しかった。悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて仕方がなかった。もはや何が悔しくてなぜ悔しいのかわからなくなるほどその脳のリソースは残ってはいなかった。常に物事を判断し、最高効率で成功への軌跡を実現できるところの『コントローラー』である貴志と、対等に議論が出来ない自分が何より惨めだった。自分が間違っているとは到底思えない。されど、結果に最も近い位置にいるのは、彼の方だった。
それに気づくのと同時に、無能なそれは両手で顔を覆って、そのまま部室から飛び出し、一直線に駆け出した。すると前額部が、何かしら固いものにぶつかって眼の前がパッと明るくなった。……と思うとまた忽ち真暗になった。その瞬間に自身とそっくりの何かが、見るも無惨な姿で、光が消えた瞳をギラギラと輝やかしながら暗闇の中に浮き出した。そうしてお互いに顔を見合わせると、それは朱い大きな口を開いて、カラカラと笑った。悲鳴を叫ぶ間もなく、それは掻き消すように見えなくなってしまった。
……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。
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