レゾンデートルの看破

弥永唯

プロローグ -現在-

 「だからさ、あの時僕が最後のカードを切る覚悟ができたのは、コイツが靡(なび)いたからなんだよね」

右手に触れていた桜の花びらが彩られている可愛らしいデザインのグラスを、その人差し指でコンコンと叩きながら、彼は言った。液体がわずかに残ったグラスからは、決まって小気味いい音がする。アルコールにまったく耐性の無い自分は、この音を聴くために二次会への参加表明をしているのかもしれない。いつだろう。自分がこの音の尊さに気づいたのは、好きだと感じるようになったのはいつからだろう。初めてこの音を認識した瞬間を、思い出すのが難しい。

「それじゃあ、…先輩が団長をやることになったのは、烏藤先輩の後楯(うしろみ)があったからなんですね…。」

「まさか、そんなに前からだったなんて、全然気がつきませんでした…。」

古の記憶に思いを馳せていると、直属の後輩達から急に名前を呼ばれた。はてさて、自分の後楯なんて、いつぞやの話をしていたのだろう。一瞬、耳がお留守になっていたのを誤魔化すべく、適当に微笑んでおく。ついでに、何の話だよと言わんばかりに彼の脇腹を肘で突く。

「まあ、そういうことだったって訳よ」

良い塩梅に酔って上機嫌になった彼は、小突かれたことに気が付かなかった振りをして、話をまとめてしまった。或いは本当に気が付かなかったのかもしれない。もっと強めに小突いてやれば良かったか、そんなことを考えながら空になった彼のグラスに無言でシャンパンを注ぎ足す。中身が満たされたグラスに、再び彼の指があたる。鈍く、重苦しい音が微かに聴こえる。この音には、聴き覚えがある。忘れるわけがない。あの日、あの夜、彼の家で、戦争が始まる前に自分が鳴らした音だ。さながら開戦のゴングのように、それは我々同期の記憶の中で鳴り響き、そしていつまでも鳴り止むことを知らない、あの夜あの場にいた全員に業を背負わせた、罪の音だ。

「呑みの席ある度にこの話出てくるけど、まあ忘れられないよな。今までの人生の中で1番堪えたかもしれん。」

「お前は相当病んでたよなあ。あの夜から2ヶ月くらい、心ここに在らずって感じだったもんね。」

対面に座っている同期の二人が、カラカラと笑いながら嘯(うそぶ)く。あの頃は全員燃えるように言葉を交わし、死にながら戦い、鎬を削りながら吹奏楽団を運営したものだ。

「時の流れって恐ろしいよ」

気がついたら、脳裏に浮かんだそれがそのまま口から出てしまっていた。時間が経ちすぎているのは嫌でも理解していたつもりだが、それでも実感が湧かないというものだ。

「烏藤がそれを言うのか、本当に時間って人を変えちゃうんだから、怖いもんだね。」

「それ、完全にブーメランだと思うぞ、多方面に刺さるから止めた方が良い。」

「ちょっと、先輩方だけで盛り上がらないで下さいよ、せっかくですから昔の話もっと聴かせてください。」

何故か、自分の他愛もない一言が宴会をあたためてしまったようだ。もっと昔の話を、か…。後輩の他愛もない一言が刺さる。あたたまった宴会の空気とは裏腹に、心が冷える。何とも形容し難い、複雑な気持ちが煩わしくなり、目の前のグラスを手に取ろうとした。何も入っていないそれからは、空虚で音のない音が聴こえると思った。結局、手に取るのをやめた。

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