マンドラゴラグモの叫びを君は聞いたか

つくのひの

マンドラゴラグモの叫びを君は聞いたか


 私は、クモが好きではない。

 それなのに、どうして『世界最凶クモ展覧会』などという催しを見にきたのか。自分でもわからない。職を失い、自暴自棄になっていたのかもしれない。

 その展覧会には、世界中から強力な毒を持っているクモたちが一堂に会した。

 中でも特に注目を集めていたのが、品種改良を重ねて生まれたチョウエツゴケグモである。背中に赤と青の美しい模様があり、その毒はクロゴケグモの二倍もの強さであるらしい。


 私は、その展覧会で首の後ろをクモに噛まれた。急いで手で払うと、床に落ちたクモはすぐにどこかへ消えていった。そのクモの背中には赤と青の美しい模様があったような気がする。

 そのときは、チクリとした痛みを感じただけだった。しかし、『世界最凶クモ展覧会』の会場である。私は、その場から動けなくなった。

 展覧会に集められたクモとは関係のない、その会場にたまたまいた、無害なクモであってほしい。それとも、考えたくはないが、最凶のクモだったのだろうか。

 見えたような気がする、赤と青の模様のことは考えないようにした。

 危険なクモの管理がそんなに杜撰ずさんであるはずはないのだから、常識的に考えれば無害なクモだったはずである。現に今、私はなんともないではないか。

 私は落ち着きを取り戻した。


 *


 その夜、四十度の熱が出た。

 起き上がることさえままならず、這い進んでトイレに行くだけで、私は死に物狂いであった。

 熱は下がることなく二日続いた。

 自分の人生を振り返ってみれば、嫌な予感と、ものすごく嫌な予感とが思い浮かんだ場合、少なくとも、ものすごく嫌な予感は現実になってきた。

 今回も、ものすごく嫌な予感が当たってしまったらしい。

 やはり、私を噛んだのは、最凶のチョウエツゴケグモだったのだ!

 私は、死を覚悟した。


 三日目の午後、クモに噛まれてからちょうど七十二時間が経過した後、熱は下がった。

 特にどこかが痛いということもなく、三日間苦しんでいたのが夢であったかのように、私は起き上がることが出来た。

 布団から出ると、肌寒さを感じた。

 確かに私は寒がりだが、しかし季節は初夏である。寒いはずはない。

 高熱が出た影響だろうか。まだ体は回復していないのかもしれない。

 私はトイレに行った後、歯を磨こうとした。ハミガキ粉のキャップをあけた瞬間、鼻の奥に鋭い痛みを感じた。ミントの香りが強烈な刺激となって、私の顔を突き刺してくる。よく見れば、私の体のまわりにも、まとわりつくかのように鋭い刺激臭が渦巻いているのがわかった。

 私は慌てて息を止めた。急いでハミガキ粉のキャップをしめた。窓を開け放ち、刺激臭を散らそうと、口をすぼめて息を吹きながら頭を振った。


 自分の体の表面を手ではたきながら、キッチンに入った。

 水を飲もうと流しへ近づいたとき、壁にクモがいた。小さなクモだ。

 私の中で、怒りの感情が暴れた。私がこんなにも苦しんでいるのは、最凶なクモたちのせいである。

 私は洗面所に戻って、洗面台の戸棚から殺虫剤のスプレー缶を掴みとった。

 そうだ、すべての元凶はクモだ。クモのせいなのだ。

 キッチンに戻り、クモを狙って殺虫剤を噴射した。

 クモが壁から落ちた。

 逃がすものか。

 私は床に落ちたクモに近づこうと足を踏み出した。

 その瞬間、視界が白くなって、私の体は傾いた。

 私は床に倒れた。殺虫剤の缶が床を滑っていき、転がった。

 手足が痺れて感覚がない。床に倒れたときに、体の右側を強く打ったはずなのに、痛くなかった。体中が痺れていた。

 ここにいてはいけない。本能が告げる。

 私は、わけのわからない恐怖で、叫んでいた。叫び続けていた。

 ここにいてはいけない。早く逃げろ。

 私は無理やり体を動かして、床を這い進んだ。キッチンから出なければ。

 痺れた体で床を押す。体のどこかが圧迫されるたびに、皮膚の内側で線香花火が燃えているような感触が広がった。

 尺取り虫のように腰を曲げ伸ばしして床を這い進む私の姿は、さぞ滑稽なことだろうと自分で可笑しくなった。

 涙とよだれと鼻水が、次から次に流れ出る。

 霞んでいた視界が、涙で滲んでさらにぼやけた。

 人生とは、なんなのだろう。

 私は、這い続けた。


 *


 サーロインステーキ重を完食し、重箱にふたをした。

 昼間からこんなにもこってりとしたものを食べるなんてと自分でも呆れる。いつもの私なら食事はカップラーメンといった簡単なもので済ませるのだが、あの高熱が出て以来、無性にお肉が食べたくなる。

 ファミレスの窓から外を見れば、透き通るような水色の空に、白い筋を幾重にも薄く伸ばした雲が、繊細なグラデーションを描いていた。

 そろそろ蝉の声が聞こえ始める季節だ。

 私の目の前に、注文していたチョコレートパフェが置かれた。

 長いスプーンを手に取り、アイスをすくった。

 生きているということは、それだけで素晴らしいことなのかもしれない。

 しかし、嫌な予感と、ものすごく嫌な予感とが、私の頭の中にはあった。おそらく両方とも当たっているだろう。


 昔、映画で見た。

 特別なクモに噛まれた男が、そのクモの体質を体に宿し、超人的な能力を獲得した。その男はスーパーヒーローとなり、大都会を飛び回った。

 嫌な予感というのは、これである。

 その某クモ男と同じことが、私の体にも起きたのではないだろうか。

 しかし、その映画を見たときに、私は疑問に思った。

 その某クモ男は、なぜ、クモのポジティブな体質のみを獲得したのだろうか。

 どうして、クモのネガティブな体質は獲得しなかったのだろう。

 ものすごく嫌な予感というのは、これである。

 クモに噛まれることで、クモのポジティブな能力だけを獲得した人間がいるのなら、その逆に、クモに噛まれてネガティブな能力だけを獲得する人間もいるのではないだろうか。

 それが、私なのでは。


 *


 あれからいろいろと試してみた。

 しかし、もしかしたら私も、某クモ男のように超人的な能力を獲得しているのではないか、という望みは消えた。

 壁を登ることも、クモの糸を操ることもできなかった。視力がよくなることも、聴力が上がることもなかった。

 メガネがなければ何も見えず、あいかわらず高いところは苦手であった。

 寒さに弱くなり、ミントの香りが苦手になり、殺虫剤は自分も致命傷を負いかねない諸刃の剣となった。

 私は、アンチ・スパイダーマン、略して「アンチダーマン」と名乗ることにしよう。

 自ら名乗る機会は一生ないとは思うが。


 *


 しばらくして、私の体にさらなる異変が起きた。

 胸の奥から、骨を無理やり体から引き剥がしているような、雷のような音が聞こえてきた。

 喉の奥のほうに、何かがつっかえているような息苦しさを感じる。うっかりアメ玉を飲み込んでしまったかのようだ。

 唐突に、何かが喉を上がってきた。

 あまりに急すぎて、それを飲み込むことも、せき止めることもできなかった。

 何かが私の口からスポンと飛び出た。ピンポン玉のようなものが、床に落ちた。硬い音がした。

 これは、なんだろう。卵のように見える。

 そういえば、今朝は卵かけご飯を食べた。

 しかし、卵かけご飯を食べたからといって、口の中から卵が出てくることはない。

 普通の人間ならば。

 残念ながら、今の私は普通の人間ではない。アンチダーマンである。

 またしても、もの凄く嫌な予感が頭の中に浮かんできた。

 これが卵であるならば、順当に考えて、これはクモの卵だろう。おそらくは、チョウエツゴケグモの卵なのではないだろうか。

 その卵のようなものを、私は捨てるに捨てられず、タオルで包んで置いておくことにした。


 七十二時間後、卵は孵化した。もの凄く嫌な予感は的中した。

 この、赤と青の美しい背中の模様を、見間違うはずはない。

 チョウエツゴケグモである。


 *


 私はチョウエツゴケグモを飼育することにした。

 人間たちに復讐するためである。

 こんな体にされた恨みを私は募らせ続けた。そして、ついに私は決意したのだ。

 平和に暮らしている普通の人間たちに復讐してやる。恨みを晴らすのだ。

 猛毒を持つクモを大量にばらまいてやる。

 私と同じ苦しみを味わうがいい。

 完全に逆恨みではあるのだが、下り坂を転がり始めた車輪を、私は止められなかった。


 私はマンションの部屋をひとつ借りた。

 ここを拠点として、クモを増やしていくことにした。

 言うなれば、ここは私のアジト秘密基地である。

 自分の家で飼育しないのは、万が一の場合に備えたいからだ。

 クモが増えすぎて、私の手では収拾がつかなくなったときには、部屋中に殺虫剤を噴霧しなければならない。置いておくだけでいいタイプのものもあるにはあるが、しかし、自分の家ではそんなことをしたくない。私にとって、殺虫剤とは命に関わるほどの危険物なのである。

 金銭的には苦しかったが、やむを得ない。

 

 私は毎日生卵を飲むようになった。

 そして、一日に一個、卵を産んだ。

 チョウエツゴケグモは順調に増え続けた。


 アジト秘密基地のチョウエツゴケグモたちを観察していて、気がついたことがある。

 この子たちは非常に大人しい。

 おそらく、自分たちの身が危険にさらされなければ、人間を噛むことはないのではないか。

 人間を積極的に襲うようにはならないものか。

 何かいい方法はないだろうか。


 *


 ネットオークションで、私はマンドラゴラを買った。

 地面から引き抜いたときに叫び声を上げることで有名な、あの植物である。そして、その叫び声を聞いた者は死ぬ、という言い伝えがある。

 私の買ったマンドラゴラが本物かどうかはわからない。見た目は太いごぼうである。匂いを嗅いでみれば、ごぼうの匂いがした。


 私は、生卵に、刻んだマンドラゴラと醤油を少し加えて、よくかき混ぜてから飲んだ。


 その日の夜、今までの白い卵とは違う、水色の卵が私の口から産まれ落ちた。


 七十二時間後に産まれたクモは、背中に水色と黄色の模様があった。

 そして、お尻の先に、尻尾が生えていた。長い鞭毛べんもうのようにも、植物の根っこのようにも見える。

 尻尾を引き抜けば、このクモは死の叫び声を発するのだ。私にはそれが本能的にわかった。私こそが生みの親なのだから。

 私はそのクモにマンドラゴラグモと命名した。そして、三匹まで増やした。

 このクモは、毒グモよりもはるかに強力な凶器となるはずだ。人に触れることなく、人を死に至らしめることができるのだから。

 しかし、その効果をどのように試せばいいのだろうか。


 *


 アジト秘密基地から、マンドラゴラグモを一匹とチョウエツゴケグモを一匹、自宅に持ち帰った。

 私はイヤホンを耳に装着し、大音量で音楽を再生した。

 それから、マンドラゴラグモの尻尾を引っぱった。尻尾は簡単にするすると抜けた。

 音楽の音以外には何も聞こえなかった。

 マンドラゴラグモが、仰向けに倒れて動かなくなった。脚が縮こまっている。

 死んでしまったようだ。

 その叫び声を聞いた者が死んでしまうのなら、その声の主自身が死ぬのは当然かもしれない。

 しかし、近くにいたチョウエツゴケグモは生きていた。

 どういうことなのか。

 マンドラゴラグモは、叫び声を上げなかったのか。単に、抜くと死んでしまうだけの尻尾だったのだろうか。

 私はアジト秘密基地に戻って、もう一度試してみることにした。

 再びイヤホンで大音量の音楽を流す。

 マンドラゴラグモの尻尾を抜いた。

 尻尾を抜かれたクモが死んだ。

 まわりを見まわす。どのクモも死んではいなかった。チョウエツゴケグモたちだけでなく、一匹だけ残っているマンドラゴラグモも生きていた。


 どうやら、私の野望は失敗に終わったようだ。

 やはり、私が買ったマンドラゴラはニセモノだったのだろう。味も確かにごぼうであった。

 私は少し考えてから、イヤホンを外し、一匹だけ残ったマンドラゴラグモの尻尾を抜いてみた。

 キュルキュルッキュー、という甲高い叫び声が聞こえた。


 *


 突然の出来事だった。

 マンドラゴラグモの実験をしてから、三日が経っていた。

 私の目の前で、アジト秘密基地のチョウエツゴケグモたちが、三匹を残して、すべて死んだ。

 もの凄く嫌な予感が、私の頭の中をよぎった。

 声を聞いた者は死ぬ、とはいっても、すぐに死ぬとは限らないのではないか。

 正確な時間を思い出す。

 クモたちが死んだのは、ここで二匹目の尻尾を抜いてから、きっかり七十二時間後だった。

 私も、その後にマンドラゴラグモの叫び声を聞いた。私が聞いたときの時間はいつだったか。アジト秘密基地でチョウエツゴケグモたちに聞かせてから、そんなに経っていなかった。

 時間を確認しようと、スマホに手を伸ばそうとして——。

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