ウイグル雲景

ひとしずくの鯨

第1話 760年代のとある冬@オルド・バリク(カラ・バルガスン)

 寒風が吹きすさぶ中、その者は馬車により高台の入口に至り、降り立った。


 向かい合ってずらりと2列に並んで道を空けるウイグル諸将の間を歩み来る。付け加えるなら、いずれも片膝ついて敬意を示しておった。通常はイディクートの称号を持つ者にしかなさぬ礼である。


 その者は、1本道の如くに敷かれた白いフェルトの上を進む。白衣白帽――要は白ずくめの出で立ちであるゆえか、まるで宙に浮いておるように見えた。


 巨大な天幕の前で、ただ一人立って迎えようとしたイディクートは不意にある霊感に襲われた。


 天の送りしその人に他ならぬと。


 ゆえに、自ずと帽子を取り、帯をゆるめ、両膝をついた。そして薄く雪の積もるフェルトの上に頭をつけることとなった。

 

テンゲリに対する礼を行ったのであった。


 その様を見て、諸将も急ぎ、同じ礼を取る。


 誰も見ておらぬ中、その歩み来たる者は一瞬かすかに笑みを浮かべたが。意識して、すぐに消した。この者はモジャク――東方大司教区の長の職位――にあった。イディクートに請われ、彼の冬営地たるオルド・バリクに赴いて来たのであった。


 そしてモジャクは足早に駆け寄るや、イディクート――ウイグルの牟羽ぼうう皇帝カガンの両肘に下から柔らかく手を添え、ゆっくりと立ち上がらせた。




 巨大な天幕。その内にては、柱には金箔が貼られ、天幕の内面はあでやかな錦で飾り付けられておった。錦の方は、唐より吐蕃とばんを長安から追い払った御礼としてもらったものであった。


 その内を王族・諸将を中心にその係累たる老若男女百人ほどがぎっしりと埋める。それを相手にひとしきり教えを説いた後、モジャクはイディクートより、歓待の宴に招待された。


 しかし、我ら僧職にある者は、肉も酒も自ら禁じております、また女色の方も同様です、と断り、小さい天幕にて2人のみで会うを望んだ。


「何か2人きりでなすことがあるのですか?」とイディクートが問うと、


「ええ。楽しきことです」




 その夜のこと。


 かまどの側らに二人して相対して座る。その間には、低い台が置いてあり、その上には、モジャクが自らたずさえて来た干しブドウや干し杏子あんずを盛った皿が置かれておった。


「やはり、これは、うまいな」


 勧められるままにイディクートは次々と口に放り込む。


「こちらに出入りしておるソグドの商人に何をお好みか、あらかじめ聞いて参りました」


「そこまでせずとも良いのに。遠路、わざわざここまで来ていただいたのだから」


 モジャクもまたソグド人であった。


 そのたずさえ持った布の袋から、ほぼ真四角の平たい盤、更にはいくつもの小さい木彫りの像の如くを取り出すと、その盤を台の上に置き、またその上に像を並べ始めた。


「イディクート様。深遠なる教えは、また明日としましょう。我が故地に伝わるものです。これで二人で遊びましょう」


 わらべの如くに嬉嬉ききとして言う。


 対するイディクートも強く興味を惹かれたようで、教えを請うときに劣らず、顔を輝かせた。


「テンゲリ・モジャクよ。貴方が天のつかわしたところの人物といえど、遊びとなれば遠慮しませぬぞ」


「無論のこと、そうでなければ、わたくしも面白くありませぬ。テンゲリ・カガンよ」


 ウイグルにおけるマニ教とチェス受容のときであった。



 注1:テンゲリとはまず第一に天を意味するが、尊称でもある。漠北の遊牧勢においては、この尊称は高位の宗教者と皇帝カガンの二者にのみ付される。


 注2:往時のウイグルの首都たるカラ・バルガスン遺跡は、オルホン川沿いにある。ウイグル人たちは、これをオルド・バリクと呼んだ。オルドとは皇帝カガンがおるところであり、バリクとは都城――特に定住建築物のある――を指す。日本語にすれば、王城や帝都といったところ。

 

 注3:イディクートのイディは『主』、クートは『幸運』を意味する。ゆえに単純には『幸運の主』となるが、これでは、なかなか様にならぬ。モンゴルでは、幸運は天が賜わるものと考える。よって、『天恵の主』、『天命の主』とすれば、日本語の語感にても悪くないとなろう。

 ただ、そもそもはウイグルが(カルルクと共に)滅ぼしたバスミルの称号とされ、その点では、血みどろの称号でもある。

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