銀とヴァンパイアと名前のない怪物
甘夏
Case.01 鈴村ケースの追憶<上>
「ああ、君か。もう体は大丈夫なのかい?」
白髪交じりの短髪。
その黒い肌は彼がエチオピアの出身であることを示していた。
赤いネクタイを締めた背広姿で、木製のデスクへと座っている。
彼は前に立つ、スーツ姿の女性に尋ねた。
女性は苦笑いをしながら頬をかく。
20代前半くらいに見えるが、それは彼女の服装が歳相応に見せているだけで、顔つきはかなり幼く、学生のようだ。
「ええ、ただのマラリアでしたので。もう万全です。3週間ほどかかってしまいましたけどね。……ということで大変遅れましたがやっとジュネーヴに帰ってこられましたよ」
「そうか、マラリアにワクチンはないからね。君のウガンダでの活動は報告書を読ませてもらったよ。大変な目にあわせてしまったな」
「いえいえ、これもWHOのお仕事の一環ですから。危険はつきものです」
WHO……【すべての人々が可能な最高の健康水準に到達すること】を目的とした世界保健機関の略称。
国連の専門機関であり、とくに感染症対策が彼らの重要任務にあたる。
「座ったらどうかね。ウガンダの土産話を聞きながらひさびさに君とお茶をするのもいいと思うのだが、夜だからお酒のほうがいいかい――」
「いえ、一言だけ師であるあなたに挨拶をと思い立ち寄ったまででして。これからすぐ日本に発たなければならなくて」
芯のある、強い言葉で女性は応える。
それは拒絶ではなく、覚悟であることをすぐさま男は察した。
老眼鏡をはずして机の上に置く、眉間を手でおさえ目をとじた。
一瞬の沈黙のあと、男は告げた。
「――そうか。マラリアではなかったんだな」
「……はい。レービズⅡでした。就任したときにサインした契約の通り、この病気を抱えて、任をやり遂げる所存です」
2025年6月25日 WHOはある病気のアウトブレイクを正式に発表した。
それから1年、世界で確認されているだけでも1億人が死亡した。
レービズⅡ。第二狂犬病と名付けられた感染症。
名前の由来は狂犬病から。症状も類似している。
水を嫌い、先端恐怖症を起こす。
発症後、99.9%の確立で死に至る。
感染原因は、感染した哺乳類から噛まれることで起こる。
そして、この病気は人から人へも感染する。
感染をした者は攻撃性を持つ。
――腫れあがった歯茎は盛り上がり……犬歯を剝き出しにする。
ワクチンはなく、唯一レービズⅡの核心に迫ったと言われる論文、鈴村ケースをもとに精製された緩和剤があるだけだ。
つまり女性はいま緩和剤を投与し、命からがらウガンダの土地を離れ師のもとへ最後の挨拶を伝えにきたということになる。
また、本来であれば重度の指定感染症をかかえスイスから日本へと向かうことはできないため、その特別な措置を望んでのことでもあることは明確だった。
「わかった。まさか君がか……、惜しいな本当に。最後はやっぱり、生まれ故郷で、か」
「あー、そうですね。そういう感慨もあるんですけどー。鈴村ケースの生まれたところに行ってみたいと思いまして」
「そうか、Dr鈴村は日本に研究所をもっていたんだったな、彼ももういないが、それでもいくのか」
「ええ。その娘さんのほうにお会いしてみたいと思ってます」
◆◇◆
「うわー、すっごーい」
船があった。
深緑色をした船首が見えて、
スイスにも海はなくてもかわりに大きな湖はあったし、世界各地を大型の旅客船で回ったりもした。だから、船を見るだけでこんなに驚きはしない。
驚いた理由は、その船のある場所だ。
その森林が杉かヒノキかを茜はよく知らない。
駅前で借りたレンタカーに乗り、ただその雑木林が続く道を山三つほど超えていった先に、その船は停留していた。
もちろん海はない。湖もない。
あるのは、やっぱり木々だけで、船底は土に埋もれていた。
「家船の集落で仕事をしたことはあったけど、あれは水上だったしね」
「どこが……玄関なんだろう」
日本に着くまでも、着いてからも一人での旅路のため、どうしても茜は独り言が増えてしまう。
ボートハウスを見たことがあったし、泊まったこともある。
だが、小型の旅客船を家にしているのは初めてみた。
ここが住居兼診療所であることは、役場の職員からの説明でわかっているが、看板はおろか、表札もない。
玄関を探しているのに、宝箱を探す深海ダイバーのような気分になってしまう。
「あ……扉はあった。えっと、呼び鈴……呼び鈴、インターフォン! は、あるわけないか」
――トントン、トントン。
最初は控えめに、次はすこし強く叩く。
返事はない。
あるのは林の間を駆ける高い笛のような風音と、木々が揺れて擦れる際の葉音だけ。
つまり留守なのか、居留守なのか。いずれにしても中には入れそうにない状態だった。
茜はこういうとき、これがアメリカならまず開けない。アメリカでなくとも世界を旅する中で、このようなときに開けることはないだろう。
なぜなら銃で撃たれるか、槍で突かれてしまうから。
でもここは日本。
洋風の船が、どんと、置かれているとしても。
――日本だから、安全よ!
そんな感覚で扉を開いた。
まさか安全だと思っていた日本で、銃をつきつけられることになるとは……茜はそのとき思ってもみなかった。
◆◇◆
<十年前・鈴村研究所>
船内にある研究施設。
ミリア・V・
その隣で同様の作業をしていたのは
ともに白衣に身を包んでいることからも、この施設の研究員であることがわかる。そして二人は医師でもあった。
「ねえ璃々栖。ずっと気になっていたこと、いまさらだけど聞いてもいい? 暇つぶしに」
「んー、なに?」
「マッドサイエンティストとして悪名高いパパの研修室なんて、なんでわざわざ選んだの。いまやってる研究だって、そもそもあるかもわからない病気よ。てか、病気かどうかもわからないじゃない」
ミリアの父はここ鈴村研究所の所長であり、医学博士のピーター・V・鈴村という者だった。
ピーターはアメリカ生まれではあったが留学中のミリアの母、鈴村たか子と結婚し婿養子としてこの日本へと定住した。
ゆえにミリアは名前こそハーフらしいものだが、自身のことを日本で生まれ日本で育った生粋の日本人だと考えていた。
「あると思ったから。てか、ネットで調べたら書いてあったし」
「日ノ本いちの大学の医学部の試験を突破した子の言葉とは思えないセリフではあるのだけど~……」
「順番が逆だもの。私は小学校のときからインターネットが好きだったの。アングラな世界が好きだった、そこには闇が広がっていて、闇のなかにこそこの世の真実があると思った。掲示板に書かれた文字は、単なる2バイト集合体ではなく、古文書のように感じたから」
「へ……へ~。それで、書いてあったの? ヴァンパイアの病気のこと」
終えた試験管を格納し、次の血液にとりかかる。
ふたりは会話をしながらも手際よく作業をこなしていく。
ミリアが若干ひきつった表情をしているのは、璃々栖があまりにも恍惚な表情でムーもびっくりな都市伝説を語りだしたからだ。
「うん。書いてあった。匿名掲示板の中で語っている人がいたの。すごく詳しくて、その人、ヴァンパイアは狂犬病の亜種だと考えていたわ」
そう鈴村研究所は、ヴァンパイアを医学的知見のもと研究する施設。
表向きは感染症の研究施設で、鈴村教授は感染症の専門医、そのためこの目的は公にはされていない。
――にもかかわらず璃々栖はヴァンパイア研究という裏の目的を知ったうえでこの研究室を所望した。
「でも、ネットの情報でしょ? 大抵そんなのデマじゃない。ジョンタイターの予言は起きなかったし」
「うん。でもジョンタイターが予言を書いたことで、世界線がいい方に転がったのかもしれないじゃない。……まぁ、そのあたりのSFは私はよくわからないのだけど。もし、この世界で自分だけが真実を知っていたとして、この現代において誰かに伝える場合に使う通信手段はなに?」
「あ……」
「ね? やっぱりインターネットだと思うの。だから魅力的。とくにむかしのインターネットは顔も見えない真っ暗闇のなかにぼぅっと文字だけが照らされていて、とても素敵だった。そこに真実があると思った。だから真実を確かめるために医学部に入って、いま私はここにいる」
璃々栖の言い分に、ミリアは半ば納得してしまう。
無茶苦茶な理論だけど、筋は通る。
そういう意味で璃々栖の論理的思考力は高いもので、それはむしろ文学などの虚学に向けるべきものだともミリアは思う。いや、向けてほしかったと思っていた。
――璃々栖が真実に近づくにつれて、ミリアは強く不安に駆り立てられるのだ。
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