銀狐~幻想明治開幕譚~
ネイさん
第一幕 銀狐 一話~四話
前段
いや、どうも。どうも。
本日も結構なお入りで。
本来ならそんな、お話するようなモンでも御座いませんが、まあお耳汚しと。
たまには良かろうと。
そのくらいの心持ちでお付き合い頂ければ幸いに存じます。
本日の演目、その名も、幻想明治開幕譚。
嘘っぱちで御座んす、というお話です。
史実に忠実をお望みならば此処でお引き取りを。
薩長バンザイと叫ばれる方もご遠慮願いたい、そんな嘘話で御座います。
この結構な場をお借りしまして、まあ本来はこんな高いところから語るようなモンでも御座いませんし、話すようなモンでも御座いませんが、どうか最後までお付き合い下さいませ。
再度繰り返します。
本日の演目は、幻想明治開幕譚。
その第一幕、長崎騒動に御座います。
どうか、寛大なお心で、この嘘話にお付き合い頂けますよう、伏してお願い申し上げます。
1『士族・江藤直之ーエトウナオユキー』
佐賀にある須古の館にて、直之はぼうっと雲の流れを見ておりました。
佐賀と言いますと、九州ですな。
そこの須古と言われても、ピンと来る方の方が珍しい。
まあ片田舎。
昭和の頃に惨たらしい殺人事件がありましたな。
こう、小学校のトイレに死体が捨てられていた、と。
一応は本人が捕まりましたが、警察側の不備が裁判で明らかになりまして、無罪となってしまいました。
ああいや、申し訳ありません。
話がズレましたな、無論、こんな惨たらしいのは、今回のお話には無関係で御座います。
気を取り直しましてー。
この佐賀というところは、幕末の頃は、技術面で他藩より幾らか進歩しておりましてな。
これは人によるのですが、明治維新の原動力となった薩長土肥の一つに数えられることもあります。
しかしながら、薩長のように倒幕に我先に立ち上がったわけでなく。
むしろ、それに乗り遅れた感が強く、そのために明治政府には然して影響を及ぼせなかったという、少しばかり悲しい結果の藩で御座いました。
ああいや、大隈公など、傑物というべき方は個人個人で見ればいらっしゃるのですがね。
このお話の頃の佐賀の傑物と言えば、初代司法卿・江藤新平が筆頭格ではないでしょうか。
まあ、そんな藩なるものも無くなった頃のお話で御座います。
江戸から明治に変わった今に至っても、空には何ら変わりはなく。
世は期待に満ちた展望が流れたり、その後に即不満が噴き出したり。
戊辰の大戦が終わっても、まだまだ情勢は不安定。
そもそも戦後に物が不足し、人心が荒れるのは必然。
武士の世が終わったのならなおの事。
武士だった存在が消えて無くなったわけではないのですから。
お話は、そんな佐賀で始まります。
館に居りますのは、二人の男。
この二人の会話から物語が始まるのですが、一点注意を。
佐賀弁などの方言は極力減らしております。
私なんぞは佐賀生まれ佐賀育ちなので、ある程度はわかりますが、それでも意味が不明な語というのはありましてな。
これを文にしてしまいますと怪文書になりますので、その辺りは雰囲気でお楽しみいただければと思います。
さて、館におります人物は二人。
館と言いましても、年季の入ったこじんまりとしたものでして、今で言う古民家くらいのものです。
その奥座敷に居るのは、江藤直之と十作。
その十作が会話の口火を切りました。
「先生、聞いていなさるのですか」
正直なところ何一つ、問われた男、直之は聞いておりませんでした。
仕方なく背後に目をやると、厳つく、それでいて実直さが雰囲気からでもにじみ出ている男と目が合う。
さて、その目が合った男である十作は、佐賀において、武勇名高い深堀の男です。
責任感や義務感が強く、皆が信頼を置く御仁。
先の戊辰において、数百人で先行した、所謂、決死隊の生き残りでもあります。
十作は重苦しい雰囲気を纏い、言います。
「佐賀は先の戦において、陣入りが遅れたのが未だに尾を引いております。大久保卿や木戸卿などの覚えのめでたい、先生のお力添えが今の佐賀には必要なのです」
熱い口調ではなく、淡々と諭すように言われ、思わず直之は目を伏せてしまった。
それを見て、畳みかけるように十作は言います。
「大恩ある直之様にこのようなお願いをするのは失礼千万とは承知しとります。ですが、そこを曲げてお願い申し上げます」
ああいや、とつい直之は口を挟みそうになります。
この十作は恩と言いますが、今現在直之がこの家に住むのも、そもそも佐賀に帰ってこられたのも、この十作の手引きなのですね。
直之は藩の記録上は脱藩者となっています。
佐賀において脱藩は極刑。
それは幕末においても変わらず、直之が帰郷を赦される謂れは全くありませんでした。
それをわざわざ、万難を排して佐賀に招き入れ、館まで手配したのが十作。恩だのを言われる謂れが直之からしてみればないのです。
しばらく互いに黙っていると、傍らに置いていた包みに十作は手を伸ばしました。
「私は新平様の元に参ることになります。もしもお気が変わられましたら・・・東京に来られる気になられましたらお声かけを。それと深堀にても孫六郎様が・・・」
それは、とつい言葉を遮ってしまった。
それに不快さを見せず、十作は紐を解きます。
現れたのは鍔のない黒塗りの太刀。
「閑叟公よりお預かり致しました。お受け取りください」
見るからに銘刀。
大脇差ほどの長さだが、それにしては反りが深い。大脇差ほどの長さだが、小太刀らしい。
拵えは仕立て直したのでしょう、黒塗りの鞘に銀細工で狐が描かれ、鍔はない。
一見すると儀礼用。
「過分な品だな」
差し出されたそれに手を伸ばし、思わずそう直之が呟くと、微かに十作の頬が緩む。
「京に向かわれた際に、家伝であったものに手を加えた物だそうです。その黒地に銀というのは直之様の小手になぞらえたもの。南蛮渡来のその洋小手には及ばずとも、その身を護る一助にしてほしいとのことです」
十作の言葉に、思わず苦笑いを直之は返しました。
ここまでやられたら断れないじゃないか、と。
2『老師・大隈門左衛門ーオオクマモンザエモンー』
さて、新しい登場人物です。
名を大隈門左衛門。
直之の住む館からはそう遠くないところに住む、子汚い爺で御座います。
好好爺とは言いがたい、眼がギラギラした爺ですな。
顔には刀傷。着物で隠れた肩やら腹やらにも傷があり、ついでに脛にも傷を持つ、一癖も二癖もある因業爺で御座います。
その因業爺は先ほど直之が受け取った小太刀を手に、眼をギラリと光らせています。
「ほう、こいつは中々の逸品じゃ。家伝の品というのも事実じゃろうて」
などと言って小太刀に夢中です。
生業は鍛冶屋だと本人は言っておりますが、俗に言う、移ろわぬ民の頭目とも言われる不気味な爺。
抜け荷をしているとの噂まであります。
そんな爺を横目に、直之はため息を一つ。
「今の藩主はご子息だろう。直大様だったか」
まあな、と門左衛門は頷きますと、丁寧な様子で小太刀を置きました。
この爺が丁寧に扱うということは、相当に値打ち物なのだろうと直之は思いました。
ですが同時に、まるで自分の物のように扱うところは見逃せんがとも思います。
そんな直之を尻目に、因業爺は口を開きます。
「閑叟公は名君過ぎた。病身をおして上京されとるが、そのお陰で城下の若侍どもの統制が乱れとる。議論倒れの佐賀に、葉隠れの心を望むべくもなかろうがな」
随分と現藩主には否定的のようですな。
その反面、直之は然してその辺りに興味はありません。
「文句垂れるわりにずっと佐賀にいるよな。離れるつもりはないのか?」
ふうむ、と門左衛門はうなり、すぐに鼻を鳴らしました。
「明日明後日は大丈夫だろうが・・・一年後二年後はダメだろうなぁ」
「駄目なのか?」
ああ、とぶっきらぼうに返すと、爺は鍛冶場に行きました。
歴史を知る我らにしてみれば、この後の佐賀がどうなるかは知っているわけですが、その辺りは今回のお話には関係がありませんので割愛と致しましょう。
はてさて、因業爺が鍛冶屋から戻ったところから再会致します。
「閑叟公は名君に違いないが、後継者には恵まれなんだ。数多の学士をも育てたが、歳だろうか。見誤った。藩を閉じていたのが徒となったな。まあそれよりも、今の政府が問題だな。ワシらも身の振り方を考えにゃならんなぁ」
程なく大きい包みを持って戻ってきた門左衛門は、まるで自分に言い聞かせるようにそう言葉を続けながら包みを開きます。
そして芝居がかった口調で言います。
「お前はこれを置いたが、今また取るのか」
幾分か叱責するような。そんな口ぶりです。
それを聞きながら、直之は、ふん、と鼻を鳴らしました。
因業爺の開いた包みの中。そこには西洋甲冑風の小手があり。
西洋甲冑の小手に、鎧武者の小手を合わせたような、一点物。
柔軟さを保ちつつ、粘りのある鉄板を幾枚も重ねた小手は、手首から肩口までを覆い、五指の方には手袋に金属を縫い付けたような細工がしてある。
また、それぞれの鉄板には音の軽減の為の細工が施されている。
もちろん、相応の重量ではありますが、なに、見た目ほどではない。
慣れた様子で装着する直之を、爺は不快そうに見ていました。
「ふん。せっかく買い手も見つかったってのに、てめぇがそれをまた持っていくとは」
「また作りゃいいだろ」
「夢中を言うな。その装甲鉄板は西の名工・12代国綱の秘伝、繋ぎの下地は一代の天才・吾妻の仕事だ」
そう言いながら、門左衛門は黒い液体を、直之の小手がはまっていない方の手に垂らしました。
小手のさび止めとつや消しですな。
ぬらりとした液体をしっかりと塗り込みます。
その様を眺めながら、因業爺は煙管に手を伸ばしました。
そして、旨そうに紫煙を吐き出す。
紫煙が大気に消える中、直之が口を開きます。
「俺は侍じゃねぇ。アンタと同じ穴の狢だ」
こちらも芝居がかった口調ですな。
言訳がましい直之の言葉を、からからと門左衛門は笑います。
そいつは無理な話だと言わんばかりに。
そんな因業爺から直之は視線を切ります。
「何をどうするかは知らん。俺は呼ばれたから行くだけだ。当座は深堀に行く」
目を反らし、置かれていた小太刀に手を伸ばし。
すると、門左衛門が小太刀の端を握っています。
「・・・なんのつもりだ」
「代金だ」
この因業爺・・・。と思いながらも、口にはしません。幾ら眼光鋭こうとも爺は爺。
ひったくり、直之は小太刀を腰に差します。
冗談なのか本気なのか、舌打ちをする因業爺。
内心で笑みを零しながら、直之は口を開きます。
「・・・こいつはやれねぇが、須古の屋敷はくれてやるよ。あっちに住めよ。どうせもう俺が使うこともない」
ようやく伝えられた用件。
十作風に言えば恩返し。
そんな不器用な血の繋がらない子供の心情を見抜き、因業爺は似合わぬ優しげな笑みを浮かべて、それを直ぐにかき消して悪党のように笑いました。
3 『深堀鍋島孫六郎ーフカホリナベシママゴロクロウー』
深堀。
佐賀藩に組み込まれてはおりますが、その領地は長崎の一部。
飛び地と呼ばれるその一つが、深堀であり、領主の名を深堀鍋島氏です。
長崎防衛の任を江戸時代には担っておりました。武勇に秀でるというわけではなかった佐賀藩ですが、深堀の精鋭どもは違う。
古くは島原の乱でも戦陣を切ったと言われる勇猛果敢な士。
戊辰では北陸道軍に佐賀藩の先遣隊として参加。そして、その寡兵でもって旧幕府軍と戦い抜いた勇兵。その一人が十作です。
今や体制が変わり、佐賀ではなくなったそこ。
そこの家老であった猛将・孫六郎の屋敷に直之は出向いていました。
突然の来訪にも関わらず、かの豪傑はとても快くー直之が引くほどにー向かい入れてくれた。
いやはや豪快な御仁なのです。
「たいした歓迎もできず、申し訳ない」
そう言ってわざわざ自ら酒肴を用意し、深々と頭を垂れた御仁を見て、直之は動揺を隠せません。
幾ら江戸の時代が終わったとはいえ、家老だった御仁にもてなされるとは。
直之にしてみれば、正直言って反応に困る。
目の前に膳が来る。杯を渡される。
とくとくと注がれる液体は地元の酒。
膳の上は豪勢とは言えませんが、やけに質の良さそうな干物が食欲をそそる。
今現在の直之は侍ではありません。
あの因業爺とさして変わらない、無宿人。
それこそ父は侍だったのかもしれませんが、浪人の類いだったのかもしれない。
この男達もそれは勘づいているのだろう、と直之は思っています。
つっと、閉じられた襖に目を向ける。
数人が控えているようである。屋敷を覆う生け垣の向こうにもそれなりの数がいる。
取り囲まれているとまでは行きませんが…息を潜めているのが感じられる。
「ううむ・・・」
この孫六郎の声に直之ははっとしました。
思えば、この御仁と対面して、ロクに言葉を発していなかった事に遅ればせながら気がついたのですな。
杯を手にしたまま硬直している直之を見て、孫六郎は困ったように眉間に皺を寄せていました。
失礼千万な態度ですが、そんなことを気にしているわけではありません。
御仁こと孫六朗は孫六朗で、どうにも発言を躊躇っているようで。
数瞬して、意を決した孫六朗が口を開きました。
「その、キサンが何者かは知らん」
徳利を置き、孫六郎はゆっくりとした口調でそう話しながら居住まいを正しました。
「ただ、我らはキサンに命を救われた。この地に戻れた10数名を代表し、礼を申し上げる。その上で、既に藩もなく、仕官の道もなかろうが、我らはその恩に報いたく思う。どうか杯を受けてはもらえぬだろうか」
直之はキョトンとしてしまった。
杯を受けると言いますと、兄弟や親子の契りなんかを連想しますな。
任侠モノでよく聞くような、そんな言葉ですが、意味は他にも御座います。
まさしく今回はそれ。
「誓約ですか…?」
訝しげに問う直之。
うむ、と力強く頷く孫六郎。
頷く孫六朗の手には随分と力が入っております。その手にある徳利は大丈夫だろうかと直之は心配になります。
この場合、心配すべきはそこではないと思うのですがね。
しかしながらそんな風に、妙に冷めている為に、襖の向こうで何者かが息をのむのが分かる。
手元に目を落とすと杯。
目の前には厳つい壮年の男。
ふむ、と頷き、直之は杯を静かに置きました。
すると、場の空気が一気に落ち込むのが分かった。目の前の男に至っては老け込んだようにさえ見える。
途端、襖の向こうが騒がしくなった。
踏み込もうと襖が開かれそうになったが、すぐに閉じられ、聞き覚えのある声も聞こえてきた。
「やめよ、孫六朗様が・・・ああいや、それはおそらく・・・」
十作らしい。随分と苦労性な男です。
そんな中、直之は眉間に皺を寄せました。
何か大変な事になったらしい、と。
しかし、悩むのはそこまで。
ならば仕方が無い、とさっさと直之は腹を括り、居住まいを正します。
この辺りの切り替えの早さも、この直之の売りで御座います。
すっと直之は孫六朗を見て、頭を垂れます。
「申し訳ない。酒は飲まないもので」
歴戦の猛将が驚愕し、目を見開き、口をあんぐりと開く姿というのは中々珍しいな、と直之は思ったそうで。
4 『護法者』
孫六朗が落胆した後、十作が襖を開くと控えていた者達がなだれ込み、円座になっての宴会となりました。
各々、直之の事は知っていたらしく、チラチラと視線を寄越します。
「だから言ったではないか。慌てずとも良いと」
「しかし、まさか下戸とは…一口くらいは」
「何でも常在戦場の心がけとか」
「なるほど。しかし、あれが噂に聞く銀弧」
「銃弾を弾き、砲身を砕くとか…」
「何者なのだ?どこの家臣なのだろう?」
「いや、志士だったとか」
「しかし太刀を賜ったとか」
「閑叟様より賜ったそうだが、あくまでも藩からではなかったとか」
「では我らと…ああいや、既に版籍は返されたのだから」
まあ好き放題ですな。
銃弾を弾くなんぞ、人が出来るわけもなかろうに。
そんな噂話の好きな男達ですが、うっすらとですが、直之の方にも見覚えがある。
件の生き残り達ですな。
元気そうで何より。うむ。と一人頷き、直之は杯を傾けました。
中身は水で御座います。
そんな直之の隣には孫六朗がおります。
「騒がしくてすまんなぁ」
ほろ酔い加減でそういう孫六朗。
その反対側には十作が、相変わらずの様子で、まさしくその場に鎮座しております。
「え。いや」
十作に視線を向けるが、真正面を向いたまま不動の構え。
直之自身もこの場になじんでいるとは思えていませんが、こいつも大概ですな。
「ああ、その、良い水だな」
「ふはは、それならばよかった!」
水に限らず、膳のものも良い品です。
海路から運ばれてきたもの、というより、皆が持ち寄ったものなのでしょう。
それにー。
「随分と奮発されたようで」
直之が零すようにそう言いますと、孫六朗は失笑を零しました。
「世捨て人なのか、そうではないのかわからんな」
ふむ、この辺りで少々時代背景の説明にお付き合いを。
幾ら嘘っぱちの、歴史物といいましても、こういう時代だったんだよ、と。共通認識があるのとないのとでは、皆様もお困りになると思われますので。
ああ、間違ってもテストには書かないようにお気をつけ下さいませ。あくまでも歴史なんぞというものは見方で変わるモノ。
そのくらいの気持ちでお聞き下さいませ。
―さて、今のご時世というのは、不況のまっただ中で御座います。が、今のご時世の不況とこの時勢の不況とでは、ちと毛色が違います。
時の政府が倒れ、新たな政府が立ち上がった時代。
それも、万事準備万端で行われたのであればよろしかったのですが、俗に言う明治維新というのはー破壊には秀でておりましたがー治世には弱いところがありましてな。
いやいや、この後に首脳陣が海外を巡るなどして学び、治世にも力を発揮していきますがね。
官僚制のために、自らが追い出した旧幕臣を政府に徴用したりもやっておりました。
ついでに申しておかねばならない点が一つ。
回天の原動力となった武力ですが、それは平時においては邪魔な代物となりまして。
その不和を和らげる前に武士というモノを無くしてしまったわけですから、更に不満は高まりまして。
それらの過激な元武士が心の支えにした者。
それこそが名高い大西郷でごわず。
とまあ、この時期の日本を見渡して見ますと、このくらい乱れておりました。
そのあおりを食らうのは平民です。
故に食生活は貧しい。
一応は維新側と言うことですので、佐賀はまだマシだったのかもしれませんが、佐賀は佐賀で、新政府にもの申したい若人という爆弾を抱えておりましてなぁ。
いやはや難儀な時代なのです。
大隈老が直之の出立の際に難色を示していたのもあにはからんや。
こういう時勢だったからですねぇ。
深堀というのは確か、そういう佐賀とは距離を置いていたよな、と思いながら直之は口を開きます。
「十作から、何か御用があるとか」
頷きますと、十作に目配せをし、孫六朗は奥の座敷へと直之を誘いました。
どうにも雰囲気の変わった男達。
やだなぁと思いながら座敷にて孫六朗の対面に直之は腰を下ろしました。
「直之殿は、昨今の政府をどう思われるか」
開口一番の一言。
答えに窮するにも程がある。
新政府に対する世間の評価は冷たいものです。
物価の高騰、これまでの貨幣の使用禁止。
残った士族の処遇など、言い出せばきりが御座いません。
これまでの幕藩体制というのは、地方自治の藩主と、それを統べる官位を朝廷より賜った幕府との関係で維持されておりました。
それから、全てが政府による直轄に変わったわけですので混乱は言うに及ばず。
藩主が騒ぎを収めようにも、その権限を奉還してしまっている以上、下手な動きは反乱の恐れありと取られかねません。
そんな、乱れた世。
正直なところ、これを問われた時点で、直之には深堀という所の立ち位置が怪しく思えておりました。
それ故の、
「答えられるほど世間を知りませんので・・・」
直之の逃げ口上。予想していたのか、孫六朗は笑います。
「我らとしても政府に楯突く気は無い。だが、目の前の民の危機も見逃せん」
人の上に立つ方というのはこういう御方なのでしょう。
彼自身も身分を失ったようなものですが、それよりも既に監督責任の無い者達を気にかけるのですから。
その覚悟を見て、渋々ですが直之も口を開きます。
「場所柄を考慮すれば・・・信仰による決起ですか」
然り、と孫六朗は頷き、十作も苦々しそうに頷きました。
「キリシタンが禁制となって長いが、別に根絶していたわけではない。村社会においても、義務を果たさないなどがなければ見逃されていたものだ。しかし、明治の世になり、高札がなくなり、公然と信仰を口にする者も増えてきておる」
確かにそんな話は因業爺から直之も聞いていました。
あの爺様の生業の一つに、そういう邪教と呼ばれる輩の隠匿があるのです。
とんでもない爺なのです、あの大隈老というのは。
その大隈老が言うには、諸外国からの圧力も相当にあるそうで。
当時の感覚で、宗教の何がマズいか。
それは次の世の幸福のために、というのは現在を統べる政府にしてみれば不都合この上ないのですな。
そもそも、両者の理念の段階から乖離しておりまして、それ故に取り締まり側とキリシタンとの問答は平行線となっていたそうです。
今のように宗教の自由が保障されていたらまた違うのでしょうがねぇ。
未だ自由という概念は輸入されていない時代なのです。
―また横道に逸れましたな。
直之が口を開くところから再開で御座います。
「幾分、現政府は強行的にモノを運びがちです。これに関しても、強攻策に出るのも時間の問題でしょうね。こちらにも対象者が?」
「おらぬ、とは言えんな」
名乗り出るな、とは言いたいがな、と言って孫六朗は徳利に直に口をつけました。
随分と苦々しそうな顔です。
ふむ、とそんな孫六朗の姿を見て直之をうなります。
「それで、助命嘆願でも政府に行えと?」
「いや」
そう孫六朗が否定すると、襖の辺りで周囲の様子を伺っていた十作が驚いたように直之を見ました。
内心では直之も驚いています。
「嘆願をしたところで、今の政府には無意味であろう。謀略の道具にでもされるのが関の山。それならば、我らでやろうと思う」
ほう、と思わず直之は言葉を零しました。
今や新政府は謀略の渦中だというのを知っている御仁が、こんなところに居るとは思ってもみなかったのですな。
「だが、疲弊した深堀だけでは如何ともし難く、助力をお願いしたい」
また孫六朗は頭を垂れました。
これには直之も参ってしまう。
なんとかしたい気持ちはあります。しかしー。
「何か目星がおありで?」
「無論」
この孫六朗の言葉を鵜呑みには出来ませんでした。
今の東京で各地に睨みをきかせるのは、希代の陰謀家である大久保卿。
そしてその配下で采配を振るう川路大警視。
今の日の本で敵に回すには相手が悪すぎるお二方で御座います。
これまでも直之に対して、戦時に生じた、今や官僚のお歴々との縁を頼ろうとする人物はおりました。それらは悉く断って来ましたが、今回は違う。
縁故でもって解決を願わないその姿勢が気に入ってしまった。
居住まいを正し、直之は慇懃に頭を垂れました。
「その御依頼、確かに」
はてさて、これにて一区切り。
物語の起こりで小休止。
一人で語るには長すぎる物語、次の演者にたすきを渡し、私はこれにてお役御免。
お耳汚しでは御座いましたが、どうかまたお会い出来ることをお祈りし、おさらばさせていただきます。
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