妖峰戦記‐宝永の乱‐

めし屋 太郎次郎

 男は〈めし屋 太郎次郎〉の看板を見上げて、大きく息を吐き出した。

 ―――ずいぶんと簡単に見つかったな。それにしても、分かりやすい名前だ……

 ここは武蔵国の河越かわごえ。武蔵国で最も賑やかな商都の一つである。商店通りからやや外れた通りに、男の探す店はあった。

 男の名は梅崎うめざき勝正かつまさ。甲斐来方こしかた家の家臣であり、妖怪の軍事利用を進める妖派の中枢を担う男でもある。

 彼がここへ来たのは、むろん美食を求めてのことではない。妖派としての大事な用事があってのことだ。

 半年ほど前、妖派から脱走者が二人出た。一人は影狼かげろうという少年。そしていま一人がらいという少女である。

 報告によれば、脱走した二人は傭兵業を営む羽貫衆はぬきしゅうの屋敷に身を寄せている。影狼は駿河に送られていつ戻るのかも分からないが、來はまだいるはずだった。そして、來と思しき少女が時々この飯屋で手伝いをしているという情報も、今さっき手に入った。

 そう。つまり梅崎は偵察に来たというわけだ。任務帰りのついでに思い付きで立ち寄ったわけであるが、断じて遊びに来たのではない。

 ―――大丈夫だ。太郎次郎たろうじろうは私の顔を知らない。一応変装もしてある……

 そう自分に言い聞かせて覚悟を決めると、梅崎は暖簾のれんをくぐって中に入った。

 店内はそれなりの広さがあったが、お昼時がとうに過ぎているからか、客は一人もいない。新しく開店したばかりとも聞いているから、無理もないことだろうが……

 間もなくして、厨房の方から陽気な声が響いてきた。

「らっしゃっせ~! どうぞ適当に座ってくださいな」

 見れば、頭も体も肉まんのような男が笑顔を浮かべている。

 ―――あれが太郎次郎か。怪力無双と聞いていたが、なんだ……こうして見るとただの肉まんだな……

 太郎次郎が噂ほど強くなさそうなのを見て、梅崎は優越感を覚える。彼にも怪力無双の自負があり、太郎次郎には対抗意識のようなものを抱いていたのだ。

 梅崎が厨房にほど近い席に座ると、ニコニコした太郎次郎もついてきた。

 鬱陶しい視線から逃れるように、梅崎は置いてあったお品書きに目を走らせる。

「……ふむ」

 品目は豊富で、値段もお手頃。首を傾げたくなる名前の料理も混じってはいるが、他はそこらの庶民向けの飯屋と遜色ない。

 梅崎は無難なものを選んでみた。

「豚飯を頼む」

「おっ、ほい承知!」

 やや癖のある返答とともに、太郎次郎は厨房へと消えた。その背を見送ってから、梅崎は一つため息をつく。

 ―――ここにはいないのか……?

 やはり屋敷の方で張り込んでみるべきだったかと、思い直す。

 妖派にとって、希少な能力を持つ來を失ったことは大きな打撃であったが、中でも一番落胆していたのは梅崎だった。彼が來のことを特別目に掛けていたのは妖派内部ではよく知られていることである。自らの成果を誇示しているのだとか、幼女趣味だとか、様々な噂が流れているが、本当のことはほとんど誰も知らない。

 ―――來よ……なぜ妖派を出て行ったのだ……? 影狼か? 奴がそんなに大事なのか!? 認めん……私は認めんぞ! あんな奴と駆け落ちなど……!

 まるで娘の結婚に断固反対する親父のようなことを心につぶやく梅崎であった。

 それから五分ほど待っただろうか。太郎次郎が盆を手に戻ってきた。

「ヘイ、お待ち!」

 梅崎の前に豚飯が置かれた。醤油の香ばしい匂いが食欲をそそる。

「……ん?」

 だが梅崎は平たい皿に盛られたその料理がやけに黒いことに気付いた。

「焦げてないか?」

「当店の裏めにゅう、焦がし豚飯でございます!」

 あっけらかんと言ってのける太郎次郎。

 ただの豚飯を頼んだはずだが――焦がしたのではなく、火加減を誤って焦げたのではないのかと言い返してやりたいところであったが、太郎次郎のニコニコした顔がどこか恐ろしくも思えて、梅崎は黙って焦げた豚飯を口に運ぶしかなかった。

 ―――こ、これは……!?

 焦げた醤油味の米飯を噛みしめた瞬間、梅崎の全身を衝撃が走った。

 ―――美味い……美味すぎる……こんな美味がこの世に存在したとは……!

 一口、また一口と箸を動かすごとに、舌の上に広がる深い味わいと芳しさ。甘辛く味付けされた豚肉の脂身が、焦がし飯と一緒になることで独特のコクを生み出している。さらに、焦がしたことで米飯にも旨味が加わり、噛むたびに口の中いっぱいに幸福が広がっていくようだ。

 梅崎は夢中で食べた。豚飯のあまりの美味さに、店に入ってきたツンツン頭の少女に気付かなかったほどである。

「どうぞごゆっくり!」

 梅崎の食べっぷりに満足したのか、太郎次郎は厨房へと引き上げる。

 箸を止めずに梅崎は食べ続けたが、結局完食までに二十分近くを要した。それだけ量も多かったのだ。

「……ふう」

 腹も満たされた梅崎はようやく冷静さを取り戻した。厨房から聞き慣れた声がしたのはその時であった。

「あのお客さん、よく食べるね」

「おうおう、オラより大食いかもしれないぞ」

「それはないでしょ。流石にね」

 確かにそれは、來の声であった。

 その声を聞かなくなってから半年間、梅崎は心にぽっかり穴が開いたような気分で日々を過ごしてきた。

 連れ戻すことはできない。しかし來が変わらず元気に過ごしていることに、ひとまず安堵する。

 さて、どうしたものか。ここからでは死角になっていて來の姿を確認できない。帰る前にせめて一目見たいのだが……

 腹は八分といったところだが、もう一品頼んでみようか。ひょっとしたら來が注文を取りに来るかもしれない……

 それをすれば、いくら変装しているとはいえ声や雰囲気でバレる危険があったが、この時の梅崎はそこまで頭が回らなかった。一つ咳払いをして、店員を呼ぶ。

「ヘイ、ただいま!」

 幸か不幸か、注文を取りに来たのは太郎次郎だった。梅崎は聞こえない程度に舌打ちをしてから、ぶっきらぼうに言った。

「親子丼を」

「ほい承知! 親子もろとも丼入りま~す!」

「もろ……!?」

 ―――なんと物騒な……! また裏めぬうとかいうやつか……!?

 太郎次郎が厨房に消えると、ほどなくして鶏の鳴き叫ぶ声が聞こえてきた。声が聞こえなくなったかと思うと、骨が砕け、肉が裂けるようなおぞましい音が聞こえ、豪胆な梅崎でさえも鳥肌を立てて震え上がってしまった。

「これはアタシが切るよ」

 來の声がして、梅崎は食卓に伏せていた顔を上げた。

 席から厨房を覗いてみると、來が鶏の残骸を持って死角から出てきて、包丁で切り始めるところであった。

 ―――來……!

 あの悪戯好きでどうしようもなかったお転婆娘が、自分のために料理を――思いがけない來の成長ぶりを目の当たりにして、梅崎は感動に打ち震える。

 と、その時――

「いっけな~い! 指切っちゃった!」

 突如來が小さく叫び、痛そうに左手を掲げる。

 見れば、人差し指から先がなくなっているではないか!

 ガタッ!

 反射的に梅崎は席を立ち、

「らっ……!」

 來の名を叫びそうになる。が、その寸前――

「うっそ~」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて、來は言ったのだった。

 次の瞬間、ジジッと静電気が弾けるような音がして、來の指先は元に戻った。

 体を気化させることができる希少な妖術――雲化うんかの術である。彼女が妖派にいた間、梅崎はこれで幾度となく手玉に取られたものである。

 作業に戻る直前、來がしてやったりの顔でこちらを見た気がした。

 ―――まさか……気付いているのか? いや、そんなはずは……変装は完璧だ……

 びくびくしながら待っているうちに、太郎次郎が親子もろとも丼を運んできた。

「ほい、お待ち!」

「焦げてないか?」

「当店自慢の、親子もろとも焦がし丼でございます!」

 ―――なんと悪趣味な……!

 いかがわしげな料理名に眉をひそめながらも、梅崎は箸を手に取った。

 名前は物騒だが、見た目はただの鶏肉と卵が載せられた丼であった。

 一口食べれば、その味に驚かされた。鶏肉は表面はパリッと程よく焦げていて、中は柔らかい。甘じょっぱくて香ばしいタレは卵にも米にも絶妙に絡み、全体の味に深みを出している。

 ふと、梅崎はお膳の上に載せられたもう一つの料理に目を付けた。

 ちぎった白菜に塩だれ、胡椒をあえただけの簡単な料理。

 しかしそれは、妖派にいた頃の來の好物でもあった。梅崎が直々に作り方を教えてから、來は自分で作ってはよく食べていた。

 ―――やはり……気付いているのか? いや、考え過ぎだ。これくらいは他の客にも出しているだろう……

 そう思いつつも、梅崎は涙なしにそれを食べることができなかった。

 豚飯だけでも腹八分であった梅崎だが、おぞましい名前の丼もなんとか平らげた。

 ―――少し、休んでから出るか……

 椅子にもたれかかって、梅崎はしばらく厨房から聞こえてくる会話に耳を澄ませた。來と過ごした日々に思いを馳せながら。

 侵蝕人しんしょくじんである來が、妖派の外で生きていくなど到底できるはずがないと、梅崎は考えていた。

 しかし見たところ來はこちらでも上手くやれている。それどころか、妖派にいた頃よりも生き生きしているようにすら見える。認めたくはないが……

 奇兵きへいの寿命は三年と言われている。來はもう四年目である。残りの短い人生くらい、好きにさせてやるべきなのかもしれない。

 そう思い直した時――

「なんじゃあ? 神妙な顔をして」

 まん丸目玉の老人が、食卓の向かい側からひょっこり顔を出した。

「ぬ……? ぬぅああ!? なんだ貴様は!?」

 驚きのあまり、椅子ごと転倒する梅崎。

 その直後、暖簾をくぐって少年が店に入ってきた。丸顔に橙色の目。髪は光沢のある緑色である。

「コラ、南蛇井なんじゃい! ダメじゃないかお客さんを驚かせちゃ」老人を叱っておいてから、少年は梅崎の席に駆け寄り、頭を下げる。「すみません。うちの子がご迷惑をお掛け…………?」

 梅崎の顔を見て、少年が一瞬固まる。梅崎も固まるが、すぐに口を開いて――

「いや、大丈夫だ! お構いなく!」

「ああ、いえ。失礼いたしました!」

 ポンと自分の頭を叩きながら、そそくさと空いた食卓に向かう少年。

 梅崎はこの少年を知っている。メラン人の生物学者ヒューゴの息子――ヒュウだ。

 ―――なぜこいつがここに……!? まさか……!

 嫌な予感は的中した。ヒュウが席に着くより早く、今度は三人の男がぞろぞろと店に入って来たのだ。

「なんだガラガラじゃねぇか。宣伝が足りてないんじゃないのか?」

 そう言ったのは頬骨の高い精悍な顔立ちの男。直前までなにか力仕事をしていたのだろうか、一人だけ作業着であった。

「物騒な店という噂はよく聞くがな」

 三人の中で最も背の高い男が、言葉少なに応じる。目は切れ長で、髪は腰に届くほどに長い。

 そして最後に入って来たのはヒューゴであった。表向きは生物学者だが、妖派界隈では侵蝕の研究者という裏の顔がよく知られている油断ならぬ男だ。

 ところで、油断ならぬどころではないのは、今のこの状況である。

 変装しているとはいえ、面識のある者が三人もいるというのは……

 それに、四つん這いで歩き回る三頭身の老人までいる。なんだあれは?

 一番背の高い男が、席に着いてからずっとこちらを睨んでいるような気もする。面識はないはずだが……

「ご……ごちそうさまでした!」

 身の危険を感じた梅崎は、お腹がタプタプするのも構わず席を立ち、足早に出口へと向かった。

 だが、暖簾をくぐり抜けたところで、

「お客様!」

「ぬあぁあああ!?」

 呼び止める声がしたのと同時に、全身に電撃が走った。

 振り返るとそこには來の姿。

「お勘定がまだですよ」

「こ……これは失礼」

 來を間近で見れたのは幸運なはずであったが、梅崎は生きた心地がしなかった。あろうことか、勘定を忘れて出て行こうとするとは……お陰で悪目立ちしてしまった。

「なんだ? 食い逃げか?」

 作業衣の男が、好奇の目をこちらに向けながらつぶやく。

大丈夫ダイジョブデスヨ。忘レてただけデス」

 油断ならぬ男ヒューゴがすかさず擁護する。梅崎の変装にはまったく気付いていない様子だ。

 來に腕を引かれながら、梅崎は帳場へ向かった。

 その途中、來は周りに聞こえないような声で囁きかけた。

「んもぉ……相変わらずドジなんだから」

 ―――相変わらず……? やはり気付いて……

 もう間違いないだろう。腹をくくった梅崎は、勘定をしながら小声で話しかけた。

「來……もう、妖派に戻る気はないのか……?」

「ないよ。こっちの方が自由だし、楽しいこといっぱいあるもん」

「そうか……」

 きっぱりと言われて落ち込む梅崎。しかし來は続けて言った。

「でも妖派も嫌いじゃないよ。梅ちゃんがいたお陰で、結構楽しかった」

「……!」

「妖派には戻らないけど、たまにこっちに遊びに来てね」

 こんな素直な來を、梅崎は初めて見たかもしれない。いつも小馬鹿にしてばかりで、感謝したり愛想を振りまいたりといったことはほとんどなかった。むろん、言葉などなくともそれなりに慕われているという実感はあったが、こうして言葉にされると――嬉しい反面、別れの時が来たようにも思えて寂しくもあった。

「ああ……また来れたらな」

「じゃね」

 最後に來らしいさようならを聞くと、梅崎は一度も振り返らずに店を出た。

 外はすっかり夕焼け空になっていたが、風にはまだほんのりと温もりが感じられた。

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