フィナンシエの惜別

きょうじゅ

黄金で買えるもの

 妻が他の男と寝ていることを私が知ったのは結婚から二年目の冬だった。そのとき何よりも驚いたのは、事実そのものについてではなく、それを知った自分自身の心が意外なことに激しく痛んだというその感覚のためであった。私の方だって、囲っている女が他所に二人いるというのに。


 エレナは私よりも十五歳年下で、私のところに来たとき十八歳だった。没落貴族の家柄の娘だ。向こうはもちろん、私もいちおう初婚ではあった。三十過ぎてどうにか銀行家として成功し、羽振りがよくなったので、まあ言ってしまえば商売に箔をつけるために貴族の家に恩を売って、その返礼としてその家の末の娘を貰い受けたのである。


 事実を知った私にはいくつかの権利が生じた。わが国の法の定めるところにおいては、妻の不貞を知った夫はこれを離縁することができるし、現場に踏み込んだ場合などにおいては間男もろとも殺害しても罪に問われない場合すらもある。私は現場はまだ押さえていないが、やろうと思えばこれからそれをできないことはないだろう。エレナはまだ、私が知ってしまったということに気付いてはいないはずだ。


 だが、私にはそのようなことをするつもりはなかった。私は怒ってはいなかった。むしろ逆だ。反省した。私に妾がいるという事実はむろん、エレナも知っている。だからといって彼女の行為が法的に不貞を構成しなくなるわけではないが、エレナがそのことについてどう思いどう感じていたかという問題を、私は遅まきながら多少は理解した。理解できたのだと思う。


 それで私は、リリィに会いに行くことにした。リリィは私の妾の片方で、二人のうち古株の方である。彼女との関係はエレナとの結婚より古いのだが、私の妾になる前は娼婦であった。言うまでもなく私はその客だったし、そういう流れでの関係だ。


「あら、旦那様。お呼びになればお屋敷に参りましたのに。今日はそちらからお越しですの」

「ああ。大事な話がある」

「なんですか、今更改まって」

「この小切手を受け取ってくれ」

「今月のお手当はもう貰ったはずですけれど……まあ。この金額は。まさか、お手切れですか」

「そのつもりだ」

「何か商売に御障りでもありまして?」

「そういうわけではない。実は」


 私は事情を説明する。リリィは黙って聞いていたが、一通り説明が終わると、かんらからと笑った。楽しくて笑っているというより、これは哄笑というものだと思う。


「旦那様、やっとお知りになったんですの」

「お前は知っていたのか。どういう次第で?」

「女の勘ですよ……と言いたいところですけど。実はぜんぜん違います。エレナ様はですね。旦那のところに参られる以前から……」


 リリィはそこで言葉をいったん止めた。


「以前から、何だ。そんな昔から恋人でもいたのか」

「いえ。もっと問題のある話です。奥様は、実は、以前私どもの店にいたのです。偽名を使い、顔をヴェールで覆って。その正体を知らぬものは、店にはいませんでしたけど」

「……なんということだ。私が融資する以前は、確かに本当に窮している家だったが……」

「御実家に金を入れていたわけではないと思いますよ。よく一緒に飲み歩いたりしていましたし」

「あの貞淑な、私の妻が……?」

「そう思ってらっしゃったのは旦那様だけです」

「ううむ」

「それで、そこまで知ってなお、この小切手はここに置いていかれるおつもりで?」

「……ああ。かえって、その気が固まったよ」

「純ですことね。イザベラとも同じようになさるのですか」


 イザベラはもう片方の妾である。彼女は元は町娘だった。


「そうするつもりだ」

「そんなことをしても、奥様の心が旦那様のもとに向かうとは思えませんが」

「エレナには、心に決まった男がいたのか?」

「私の知る限りでは、それはいなかったですね。今も多分そうだと思います。間男は一人ではありませんからね」

「成程な」

「じゃ、あたしは頂きましたこちらの小切手で、自分の小料理屋でも開く算段をしますので。旦那様、これまでありがとうございました」

「ああ……」

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