夏合宿

真実を言っただけ

1

 頭上の太陽がぎらぎらと輝いている。

 降り注ぐ紫外線が私の肌を刺して濡れた皮膚を熱していく。前後に揺れる指先から汗が跳ねて、乾いた土に落ちて蒸発する。

 真夏の乾いた風が濡れた前髪を揺らす。

 お腹に力を入れて息をする。澄んだ風が喉元から体内へ入っていくのがわかる。

 薄く通気性のあるスポーツシャツとパンツが、体に張り付いて熱を逃がす。

 前にでる足が重い。呼吸を続ける脇腹が苦しい。

 首を垂れるトウモロコシ畑を抜けて、深い木影が続く山道に入る。

 

 表情が歪む。

 久しぶりのランもあって山道を前にすると足が弱気になる。以前と違って呼吸も苦しい状態が続く。

 やっぱりちょっと歩こうか。

 甘い誘惑に駆られる自分。

 バカタレ。それじゃ一生あいつを抜けないだろ。

 反発する自分。

 足が重くなる覚悟を決めて、頭上の道を見る。

 苦しい。辛い。その感情を受け入れて長い長いランニングを続ける。

 ――いつもそうだった。

 誰よりも早く走る夢があって。そんな自分を貫きたくなくて。頑張った先に、新しい道が開かれて、得も言われぬ達成感に満ちる。

 懐かしいなぁ。

 思わずにやついちゃう。

 足音のリズムと荒い呼吸が重なる。

 鬱蒼とする山奥から鳥のさえずりと蝉の声が響いてくる。

 メロディが耳の奥から聞こえてきて、それは花火のように弾いて消える。

 音楽の波が押し寄せる。自然が奏でる雄大な演奏。

 気持ちいい。

 自然の音だけが続いたこの道に、新しい世界が生まれている。

 走る自分に戻って、こっちの世界もいいとも思ったけど。

 息をして、体を揺らして、心臓の鼓動を聞いていると、いてもたってもいられない!

 ギター弾きたい!!!

 まだまだまだ家までは遠いのに、足に負荷をかける。前後に振る腕の幅を大きくする。ギアを一段上げてしまう。

 ばかばかばか。途中でばてて余計に疲れるだけだぞ。

 理性ではわかっているのに、気持ちが先走ってしまう。

 これじゃ彼と同じだ。

 まいったなぁ。感化されすぎだ。

 今頃どうしているのかな。みんな。

 ――私は実家に戻って昔を思い出してるよ!



 青々としたスイカ畑に、帽子が半分しかない汚れた案山子が立っている。

 両端の視界が白く霞み、むき出しの地面がめまいで黒く見える。

 呼吸をするが、体は酸素を欲して、息が苦しい。

 全身の熱を冷ますかのように身体中の水分が皮膚から出て、ばけつの水をかぶったように全部濡れている。

 茶色の屋根の、奥行きのある我が家に近づいていくと、玄関の横にいた柴犬のゴローが嬉しそうにキャンキャン吠えた。

 み、水……。

 家の脇の水場に向かい、水道の蛇口をひねる。山から小川に運ばれた冷たい自然水を、頭から浴びる。

 顔に垂れてきたものを舌を出して渇きを癒す。

 息を止めて顔を横にして、口の中に水を入れる。

 息が苦しい。でも、最高においしい。

 水に浸かりたい衝動をこらえて、出しっぱなしの水に両腕を通す。


「変わってねーなー。みっふぃー」

 やや高い間延びした男の声。

 向くと、でかい青色のソーダアイスを食べている長身の童顔がいた。

 一影ひとえだ。二歳下の弟でちょっと生意気で終始呑気なやつ。でも憎めない。

「あいふ食べふ?」

「うん。もってきて。あとタオルも」

「ふぇーい」

 一影は私(美尋みひろ)のことをみっふぃーと呼ぶ。べつに例のキャラクターに似ているとかでは全然ない。単にねーちゃんと言いたくないだけだ。

 一影は昔から私と対等な関係だと思っていて、姉に対して尊敬も威厳も感じていない。私はべつにそれでいいし、今更姉呼ばわりされてもきしょいから、みっふぃーを受け入れている。姉弟なんてそんなものだ。

 弟の前で全身ずぶ濡れもいかがなものかと思ったけど、こいつは中学から私の姿を見慣れてきているから別にいいだろう。

 ほどなくして一影が戻ってくる。さっき食べてたアイスが半分まで削れていた。


「そういえば、みっふぃー」ガリガリとアイスを歯で咀嚼した後「マラソンやめたんじゃないのー?」

 どうやら飲み込んだらしい。

 マイペースな一影に、なんだか私もほっこりした。もらったバスタオルで髪を丹念に拭いて、水にぬれた腕をなぞる。うん、いつものゴワゴワした肌触り。

 私の地元は田舎が過ぎるせいか、長距離をすべてマラソンと呼んでいる。

 校庭を何週もする必要がなく、また、小中学校でも共同で冬にマラソン大会があるから、長い距離を走るときはひとくくりにマラソンにされていた。

「辞めたけど、こっちに戻ったらなんとなく走りたくなって」

「はー。この暑さでー。相変わらず変態」

「ほっとけ」

 太ももに蛇口の水を掛けながら、もらったアイスの封を開ける。

 若干溶けかかった氷菓子を口に入れて、弟と同じように前歯でかじる。

「一影は中二だっけ。いま何してるの?」

「アイスーうまいなー。もう一つ食べるー?」

「いや、いいよ。一個で」

「取ってくるー」

 会話になってないんだけど。


 どたどたと裏手へ消えていく一影を見送ると、相変わらずだなぁと、安堵とも失望ともいえない嘆息をつく。

 一影は、私から見てもちょっとズレている。私が選手になるために家を出るとき、「ほへー、がんばれー」と心にもないことを言って見送り、辞める相談したときも「あーうん、別にいいー」とまったくの他人事だった。

 おかげで綺麗さっぱり決断できたのだけど。

 ただ、実家に戻ってくると、私のワガママで上京しそれでいて約束を破ったから、申し訳なく思ってしまう。一影も都会に憧れないわけではないっぽいし、私だけ優遇されて不満じゃないのか。

 一影が嬉しそうに戻ってきた。ソーダ味からコーラ味に変わっていた。

「ほんとのこと聞きたいんだけど、奨学金なくなったことお父さんたち何か言ってなかった?」

「べつにー。じーちゃんの陶器売ったから問題なかったよー」

「えぇ! あれ曽爺ひいじいちゃんが残した家宝じゃん」

「でもじーちゃんが孫のためならいいって。それにー売ったのは博物館だしー。こんな家に置くよりいいだろーって」

 月下家には、某鑑定番組で値が張るようなお宝がいくつかある。

 それは家宝みたいなもので、一年に一度、引っ張り出してウキウキするアイテムだった。私のせいで、その楽しみが消えたと思うと申し訳なさでいっぱいだ。

「あんたの銃のために使えばよかったんじゃない?」

「えーいまさらだよ。高校になったら猟銃触らせてくれる約束だし」

「それ平気? ライセンスは一八歳からじゃなかった?」

「みっふぃー。月下家は代々一六から練習するんだぞー。あー、きーんてするー」

 一影は赤黒いアイスをくわえながら、首をかしげて太陽を見ている。こいつは冷たいものでキーンとしたとき、太陽の熱で和らげようとする癖がある。意味ないんだけどね。

「あんたほんとに猟師目指すんだ。変わってるなぁ」

「銃は男のロマンだぞー。それよかー、昨日の夜に弾いやつー、買った?」

「アコギ? いや借りてるよ。興味あるの?」

「べつにー。あのケースにエアガン入りそうだなーって」

 さっきまで悩んでいる自分が悲しくなった。一影の頭の中は銃しかないのか。

「昨日うるさくなかった?」

「FPSやってるからべつにー。でも朝四時までジャーンジャーン聴こえてたから、やっぱキチガイだなーって」

「うるさいわ」

「みっふぃーおかしいくらい変態だからなー。マラソン好きなんて人間じゃないしー」そこまでいうか。「まー、でもーキチガイみたいにハマるのがみっふぃーだぞー。何もしないみっふぃーなんて変態だぞー」

「どっちやねん」

 てか、私の評価って何なの。

「あんたは実の姉をなんだと思ってるわけ?」

 一影は最後のコーラ味アイスをボリボリ噛んで、ハズレ棒を庭にポイッと捨てる。

「うーん……みっふぃー」

 ダメだこりゃ。

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