異世界帰還兵症候群につき絶賛恋愛リハビリ中。 第一部 GWは終わった

嬉野秋彦

序章 戻ってきた、しかし以前とは違う日常




 キッチンの時計は午前七時を少しすぎたところだった。

 パジャマ姿の林崎はやしざき重信しげのぶは、ベッドを出てキッチンに下りてくると、冷蔵庫から当たり前のようにステーキ肉を取り出した。とりあえず三〇〇グラムを二枚、無造作に塩と胡椒を振ってフライパンに放り込む。

 炭化しなければ火加減は別にどうでもいい。うっすら煙を立ち昇らせて焼けていく肉を、ダイニングテーブルからぼんやりと眺めていた重信は、ふと思い出したように左腕の包帯をほどいた。

「……前よりも治りが少し遅いな」

 左手首から肘にかけてついた大きな火傷の痕を一瞥し、重信は呟いた。

「おれの力がまだ戻っていないだけなのか、それともここではこれ以上の力が発揮できないのか――後者だとすると少し厄介なことになるが」

 そうひとりごちていると、インターホンの陽気な音が鳴った。

「新聞なら必要ない。ついでにいえばウチにはテレビもない。そういうわけだから、その方面から来たのであればお引き取り願おうか」

『ないから。こんな朝早くから新聞の勧誘とかありえないでしょ?』

 小さなモニターの中で、隣家の田宮たみや美咲みさきが相好を崩している。あちらには見えていないと判っていながら、重信は肩をすくめて玄関に向かった。

「おはよ、のぶくん」

「おはよう、田宮くん。確かにけさは少々早いな。一時間後に家を出ても遅刻はしないと思うが?」

「それはそうかもだけど、その前に朝食を作ってあげよっかなって――」

 玄関でローファーを脱ごうとしていた美咲は、キッチンからただよってきた匂いに気づいたのか、ふと眉をひそめた。

「――え? のぶくん、もしかして何か焼いてる?」

「肉だ」

「は?」

「おとろえた体力を取り戻すためには肉を食べるのが一番いい」

「いや、だって……朝からがっつり?」

「朝も昼も夜も関係ない。何だったら一日五食、すべて肉でもかまわないぞ、おれは」

「一日に五食も食べたら太るよ?」

「きみはそうかもしれないが、おれには無用の心配だ。むしろ今はもう少し筋肉をつけたいくらいでね」

 美咲をともなってキッチンに戻った重信は、クッキングヒーターのスイッチを切ってステーキ肉を皿に移した。それを見た美咲が、驚いたように目を丸くする。

「……え? おまけにそんなおっきいのを二枚も食べるわけ?」

「何か問題が?」

「ちなみに何グラムあるの、それ……?」

「二枚で六〇〇グラム以上はあるだろうな」

「たっ、食べすぎだよ、それ絶対!」

「田宮くんにとっては食べすぎに思えるだろうが、おれにとってはこれが適量だ」

 ステーキをカットして片っ端から口に放り込みながら、重信はちらりと美咲が持つスーパーの買い物袋を見やった。

「……一応聞くが、きみはおれにどんな朝食を作ってくれるつもりだったんだ?」

「え? それは……」

 美咲はためらいがちに袋の中から食材を取り出した。サケの切り身に卵、豆腐と納豆、それにパックのごはんと、容易に完成図が想像できる品揃えである。

 一枚目のステーキをほぼほぼ片づけたところで、重信は大仰にうなずいた。

「せっかくだ、田宮くんの手料理もいただこう」

「は!?」

「何を驚いている? もともとそのつもりで食材を用意してきたんじゃないのか?」

「そ、それはそうだけど――」

「もし作るのが面倒だというならおれが自分で作ってもいいんだが」

「いやいやいや、やるから! そこはわたしがやるから! ……っていうか、のぶくん、ホントにそんなに食べるの? 無理してない?」

「無理? 何がだ?」

「その……わ、わたしが用意してきたものを無駄にするのが申し訳ないからって、無理に食べようとしてるんじゃないかなって――」

「そんなことは微塵も思っていないが?」

「本当?」

 上目遣いに自分を見つめる美咲に対し、重信は首をかしげた。

「……きみはそんなにあれこれと気を回すような少女だったかな? 以前はもっとずぶ――鷹揚としていたような覚えがあるんだが」

「もしかして今、図太いっていおうとしなかった?」

「気のせいだろう? とにかく、きみの気が変わっていないのなら朝食を用意してもらえるとありがたいんだが、どうかな、田宮くん?」

「……作るからには残さず食べてよ?」

「もちろんだ」

 手回しよくエプロンまで用意していた美咲は、さっそくシンクの前に立って調理に取りかかった。

 美咲は重信と同じ年、同じ月に生まれて、今年で一七歳になる。勉強もそこそこ、運動もそれなりだが、両親の教育がよかったのか、明るくまっすぐな性格に育った。こうして料理もできる美少女と幼馴染みとして育ってきた重信を、運がいいだのけしからんだのとやっかむ友人もいたが、今の重信は自分を運がいいとは思っていない。

 残っていたステーキをすべて食べ尽くしたところで、重信は立ち上がった。

「今のうちに制服に着替えてくる」

「うん。――っていうか、もう食べ終わったの!? おなか大丈夫?」

「繰り返すがまったくもって問題ない」

 実際、重信はまだ満腹感を覚えていない。目覚めた時の空腹感は癒えたが、さっきのステーキをまだあと二、三枚はいけそうな気がする。

「……のぶくん、前はそんなに大食いじゃなかったよね?」

「育ち盛りの思春期だからな」

 ぼやきにも似た美咲の呟きにそう応じ、重信は二階の自室でパジャマを脱いだ。

「隣に住む幼馴染みが、毎朝家まで迎えにきてくれる日常、か……めぐまれているな、おれは」

 制服のシャツのボタンをはめていた重信は、何の気なしに勉強机の上に目をやった。

 父と母の小さな遺影が、ただひとり生き延びた息子を見つめている。思えばあの悲惨な事故で両親といっしょに死んでいたほうが、重信もいっそしあわせだったのかもしれない。

 ただ、今それをいったところで何も変わらないし、そもそもあの時の重信には、ほかの選択肢を選ぶ余地などなかった。

「――これぞ日本の朝食という好例だ」

 着替えをすませてダイニングキッチンに戻ってきた重信は、テーブルの上に用意された和風の朝食を見てうなずいた。ステーキの皿とカトラリーを押しのけ、椅子に座って箸を手に取る。

「それではありがたくいただくとしよう」

「はいどうぞ」

 美咲も当然のようにテーブルの向かい側に座り、同じものを食べ始めた。

「――ところで、おれが休んでいる間に学校では何かあったか?」

「何かって?」

「すべてのクラスに無料のドリンクバーが設置されたとか、地学の芹沢せりざわ先生が電撃的に退職したとか、そういう喜ぶべきニュースはなかったか、という意味だが」

「のぶくんが入院してたのってゴールデンウィーク終盤からの一か月くらいだよ? 何も変わってないって」

 豆腐とわかめの味噌汁を静かにすすり、美咲は小さく笑った。

「……そういえばのぶくん、地学苦手だもんね」

「地学が苦手なんじゃなく、あの先生が苦手なんだ」

 久しぶりの白米をかき込み、重信も笑った。

「――しかし、何の変化もないとすると、それはそれで退屈だな」

「ああ、そういえば、それが変化っていえるかどうか判らないけど、最近、戸隠とがくしさんが学校に来ることが多くなったって、男子はちょっと喜んでるよ」

「ほほう。おれが死の淵をさまよってる間にか?」

「うん」

「まったくもって薄情な連中だ」

 そう聞いても特に腹は立たない。この世界の大半の人間にとって、重信の生死などどうでもいいことなのだ。

 ふと気づくと、また美咲が上目遣いに重信を見つめていた。

「どうした、田宮くん? 早く食べないとさすがに遅刻するぞ?」

「のぶくんさ……」

「何だ?」

「……何でもない」

 ぼそっとそう答えた美咲は、心なしか頬が赤らんでいるようにも見えた。そんな幼馴染みを、今度は重信のほうが逆にじっと見つめ、

「いまさらなんだが……」

「な、何?」

「きみは……可愛いな」

「え!?」

「きみはとても可愛い。見た目はもちろん、性格もいい。クラスの男子がおれをやっかむのも無理からぬことだと今なら何となく理解できる」

「ちょ、ちょっと、どうしたの、のぶくん!? 急にそんな――」

 さらに顔を赤くしてあたふたする美咲を見て、むしろ重信のほうが軽い驚きを覚えていた。自分の言葉で美咲が慌てていることに驚いたのではない。美咲とのこうしたやり取りが、今の自分にとってやけに新鮮で、そして、とても心地よいものに思えたからである。


          ☆


「――のぶくん、忘れ物ない?」

 食器の片づけを終わらせ、いっしょに林崎家を出る時、美咲が念を押すように重信に尋ねた。

「特にないと思う」

 カバン代わりのリュックを揺すり上げ、重信は嘆息した。

「まあ、もし何か忘れ物があったとしても、その時は事故の後遺症で記憶が曖昧になっているとでもいえばいい。だいたいの教師はそれで黙るだろう」

「……それ、のぶくんはいいかもしれないけど、周りの人は笑うに笑えないよ?」

「笑われても困る。別におれは冗談のつもりでいってるわけじゃないからな」

 家を出て玄関のドアを閉める寸前、重信は一瞬動きを止めた。

 学校へ向かう重信がこの玄関を出る時、たいていいつもキッチンにいる両親が、何かしら声をかけてくれていたような気がするが、それがどんな言葉だったのか、どんな声だったのか、重信にはもう思い出せない。

「……どうしたの、のぶくん?」

「肝心の家の鍵はどこだったかなと思ってな」

「えー? いってるそばから忘れ物してるわけ?」

「どこのポケットに入れたか忘れただけだ。ちゃんと持ってる」

 玄関を閉め、鍵をかけて美咲とともに歩き出す。

 両親の言葉と声はやはり思い出せない。

 それは今の重信にとって、とっくに風化してしまった数百年前の記憶なのだ。

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