エピローグ

 そこは四方を山に囲まれて、茫々とし草原が広がっていた。ところどころに杉や雑木が繁茂する沈黙の世界がどこまでも続いていた。

『ここは、いつ頃の時代なんだろう』と、耕平は思った。公園も街並みも何もかもが跡形もなく消えていた。マシンである腕時計に目をやると、文字盤の年代を表すところに数字はなく、ただハイフンが四個並んでいるだけだった。どれくらい前かはわからなかったが、間違いなくここは紀元前の日本には違いなかった。

 しかし、自分がこれまで見慣れた風景はどこにもなかった。このタイムマシンは場所は移動できないはずから、間違いなく場所は公園のそばであることは疑う余地がなかった。だとすれば、地形がまるっきり違うほどのはるかな過去に来てしまったのだろう。さすがにSF音痴の耕平にも、うっすらと事情が飲み込めてきたようだった。

 耕平は自分の記憶を頼りに、公園のブランコのあった場所を探そうと歩き出した。自転車はさっき着いた場所に置いたままにした。目印とブランコのある場所を目測するのに役立つと思ったからだった。ゆっくりとした足取りであるきながら、耕平は時々自転車のほうを振り返っては大体の方向を探りながら、ようやくブランコのあった辺りまで辿り着くことが出来た。

 耕平は何やら考え込んでいたが、おもむろに腕時計を外すと文字盤の調整にかかっていた。年代を二〇四四年に合わせ、続いて月日は〇四〇八にすると、最後に時刻をPM二時二五分にセットした。耕平は感慨深けに左側のスタートボタンを押すと草の上に静かに置いた。時計からフィーンという低い音がして、続いてシューンという音に変わった瞬間、時計は陽炎のように揺らぐと耕平の前から姿を消していた。その時、耕平の胸の中にとてつもなく寂しい思いが込み上げてきたが、それは何に対しての寂しさなのか耕平にはわからなかった。とにかく、これですべては終わったと思った。

 いつまでも、ここに留まっていられないと耕平は自転車に戻ると、ゆっくりと走りだした。ここが紀元前の日本だとしても、一体いつ頃の時代なのかさえわからないまま、ただひたすら自転車を漕ぎ続けた。

『もし、ここが元いた世界と同じ場所なら、きっと近くの河に出るはずだ』

 そんな憶測をもって、一面に草の生い茂る道なき草原の中を耕平はひとり走り続けた。しばらく走り続けると遠くのほうに河が見えてきた。それは近づくに連れ次第にはっきりとしてきた。それは、まさしく耕平が知っている二〇一八年の河ではなく、樹木の間から見える河は川幅が耕平の知っている河の三分の二ほどしかなく、しかも大きく湾曲しているのが見てとれた。河原と思しき場所にはうっそうとした雑木が生い茂っている。河までの傾斜はほとんどなく、緩やかに雑木林まで続いていた。

 耕平は河沿いを東に向けて走っていた。しばらく走り続けたが、人間はおろか小動物一匹にも出くわさないのが不思議だった。自転車を止めて草むらに腰を下ろし、バッグから乾パンの缶を取り出すとひとつを口に入れた。香ばしい香りが口中を満たしていった。

『何という、数奇な運命の下に生まれてきたのだろう』

 これまでに起こった、さまざまな出来事を振り返りながら耕平は思った。

『おふくろ…、いや、亜紀子には本当にすまないことをしてしまった…。それに山本にもえらい迷惑と心配をかけてしまったし、何にひとつとしてプラスに結びつくようなものはなかった』

 二〇四四年で山本に逢った時、年老いた母に逢っていくように強く勧められたが、すべてを知ってしまった以上、一体どんな顔をしたら母親に逢えるというのか、それはあまりにも耕平にしてみれば残酷極まりないことでもあった。山本からは口汚く罵られもしたが、耕平にはどうしても母と逢う勇気がなかった。それからすぐ後で、この紀元前の日本へやって来たのだった。

 そして、全体的に今回の出来事を振り返ってみても、いまの耕平に取ってそんなことは、もうどうでもいいことのひとつであった。いろいろなことが頭の中を交差する中、耕平はゆっくりと立ち上がり自転車に跨がりそろそろと走り出した。

 二十分くらい走ったかと思われる頃、河が大きく湾曲している地点に近づいていた。すると、どこからか人声が聞こえてきた。まったく聞き覚えのない言葉だった。近づいてみると、粗末な布切れや毛皮を身にまとった女や子供たちが、川の浅瀬のところで魚を取っているのが見えた。耕平は自転車から降りると、ゆっくりとした足取りで近づいて行った。耕平の足音を聞きつけた子供たちは、見知らぬ人間をみて驚いたのか女たちの後ろに隠れた。そして、子供たちは怖いもの見たさとでもいうのか、恐る恐る首だけをだして耕平のほうを見つめている。そこで耕平は、女や子供たちが怖がらないように両手を上げて、ゆっくりと振りながらか笑顔を見せて近づいたが、女たちは別段怖がる様子もなく耕平に相対していた。

 すると、子供たちも物珍しそうに近づくと、耕平の周りをぐるぐる回りながら体のあちこちを触っている。耕平は、さっき食べ残した乾パンを取り出すと、ひとつを自分の口に入れると子供たちにも分け与え、女たちにも勧めて回りながら自分でも頬張ってみせた。それを見て安心したのか、女たちも乾パンを食べ始めた。

 女たちは乾パンを食べながら、何かを言い交わしているようだったが、もちろん耕平には何を言っているのかわからなかった。しかし、言葉の意味はわからないまでも、言葉のひとつひとつの所々に耕平がいた、二〇一九年に使われていた日本語に合い通じるものが含まれているような気がした。

 耕平は、子供たちに身振り手振りで魚は取れたのかと尋ねてみた。ひとりの子供が手を引いて草むらの中に連れて行った。そこには大小様々な土器が置かれており、魚や貝などがきちん分類されていた。

『土器…。それじゃあ、ここは縄文時代…』

 紀元前であるということは、地形が元いた世界とまるっきり違うことでわかってはいたが、まさか縄文時代に来ていたとは思っても見なかったことだった。

 そこへふたりの女がやって来た。ふたりのうち若いほうの娘が自分を指差して、

「ウ・イ・ラ」と、言った。

 それが彼女の名前らしかった。耕平も自分を指して、

「コ・ウ・ヘ・イ」と、言ってから相手を指し、

「ウイラ、コウヘイ」と、また自分を指した。

 彼女は、嬉しそうににっこりと微笑んだ。すると、もうひとりの少し年上の娘も、同じように自分を指していった。

「カイラ」と、言いながら、ウイラと名乗った娘を指して、

「ナマラ」と言い、再び自分を指して「メマラ」と言った。

 意味はわからなかったが、どうやらふたりは姉妹のようであった。

 しばらくすると、ほかの女たちも子供たちを引き連れて河から上がってきた。

 娘たちはお互いに何やら話し合っていたが、それが済むとウイラと名乗った娘が耕平のほうに走り寄ってきた。耕平のところにまで来ると、手を取って右手の丘を指差した。

 身振り手振りでの説明によると、自分たちの村へ一緒に行こうと言っているらしかった。耕平は一瞬迷ったが、こんなところで独り寂しく一夜を過ごすのなら、どこへでも行ってやろうと思った。たぶん以前の自分だったら、絶対そんなことはしなかっただろうと思いながらも、ウイラの前で首を縦に振ってみせた。すると、ウイラは目を輝かせながら姉のほうへ戻ると、ふた言三言会話を交わしていたが再びカイラを連れて戻ってきた。

 ふたりは両方から耕平の腕を掴まえると、さあ一緒に行こうと言うように促しながら、みんなが待っいる方向へと歩き出した。ウイラは歩きながら鼻歌のようなものを口遊んでいた。こんな時代でも歌なんか存在していたのかと、少々驚きを隠せない耕平であった。

 みんなと合流すると、ウイラは一同に耕平を紹介した。女たちも子供たちも、それぞれ自分たちの名前を口にするとペコリと頭をさげた。さすがは原日本人と言われているだけあって、縄文人たちは礼儀正しいものを身に備えていた。カイラが何か号令をかけると、女たちは魚や貝などが入った土器を頭に乗せたり手に抱えたりして、集落があるらしい丘を目指して歩き出した。

 これから先、どんな暮らしが待ち構えているかのと想うと多少の不安はあったが、もうそんなことでくよくよ悩むのはやめようと思った。また、この世界にも新しい季節が廻って来るだろう。その新しい季節の中で、カイラやウイラたちとともに本当の自分を見つけながら生きて行こうと決心していた。

 そして耕平は、多大な迷惑や心配かけた山本徹や、母親たちに幸せが訪れるように

と心から祈っていた。

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