第五章 耕平の成すべきこと

      一

 それからの耕平には地獄のような日々が続いていた。あの日、公園から帰ると亜紀子は祖父のもとへ行き、きょう産婦人科病院に行ったこと。その結果、自分が耕平の子供を宿していることなどを告げた。祖父は少し驚いたようすだったが素直に喜んでくれて、亜紀子と結婚して佐々木家の婿養子になってくれとまで言ってくれた。しかし、そんなことができようはずがないことは耕平が一番わかっていた。まして実の母親と結婚するなどということは絶対に許されないことだ。それだけは何としてでも避けなければならかった。

 耕平は、ここ数日間悩みに悩み抜いていた。これが地獄でなかったら、いったい何だろうかとも思われた。こんな時、どうすればいいのだろうか。ふと、山本徹のことが頭に浮かんだ。アイツなら何て言うだろうか。二〇一八年に戻って山本に相談してみようとも考えたが、それは見送ることにした。あの時、必死で自分を引き止めようとした山本に対して、いまさらこんな手前勝手なことで虫のいい相談などできるはずもなかった。

 それに、山本が言っていた人間の過ごしてきた歴史の中には『いつどこに、どんな落とし穴があるかわからないんだからな』という、言葉が妙に生々しく思い出された。

『落とし穴?…。そうか…。もしかしたら、これが山本の言っていた「落とし穴」だったのか……』

 と、耕平は思ったが「後悔先に立たず」の諺どおり、いまとなってはもう手の施しようのない状況であることも、また明白な事実として受け止めなければならなかった。

 あの吉備野という老博士は、初めからこうなることを知っていたのに違いない。確か、人間の運命についての研究をしているとか言っていたが、そうだとしたら自分がこれからどうなるのかも知っているのに違いないと耕平は考えた。来年生まれてくる亜紀子の子供は佐々木耕平に間違いないのだから、これはうかうかしてはいられなかった。

 吉備野氏から直接そのことを聞いてみるのが、もっとも手っ取り早いという結論に達した耕平は、すぐさま元いた時間に戻ってきた。

 その晩、みんなが寝静まった時間に起きだすと、吉備野博士に連絡を取るためにマシンの通信用ボタンを長押しした。すると、音もなく耕平の傍らに吉備野が現れた。

「こんばんは。何かご用でしょうかな。佐々木さん」

 吉備野が腰を下ろすのを待って、耕平は自分の中で燻ぶっている疑問について尋ね始めた。

「突然呼び出したりして申し訳ありません。二、三お聞きしたいことがありまして来て頂いたのですが…、あなたはぼくの運命というか、もしかしたらぼくにこの先起こることのすべて対して、何から何までわかっていて今回の計画を立てられたのですか…、教えてください」

「あなたには大変申し訳ないことをしたと思っておりますが、そのとおりです。前にも申し上げたと思いますが、あなたは私の研究対象の中でも極めて珍しいタイプのパターンをお待ちになっておられるのです。そのことにつきましては後ほど詳しくご説明いたしますが、あなたが知りたいと思っていらっしゃることは、私も充分わかっているつもりでおります」

「それじゃあ、なぜあの時にこうなることを前もって教えて頂けなかったのですか。前もって注意してもらえたら、こんなことにはならなくて済んだはずなのに…」

 耕平は自分の苛立ちを抑えながら吉備野に詰め寄った。

「それは、出きなかったのです」

「何故ですか。もし、あの時に教えて頂いていたら、こんなことにはならなかったはずです」

「いいですか、佐々木さん。あの時あなたに本当のことを告げたら、確かにあなたが現在抱えているような苦悩からは逃れられたでしょう。しかし、その瞬間にあなたの存在自体が、この時間軸の中から抹消されたかも知れないのですよ。あなたは、それでもよろしかったのですか」

「え、何ですって………、ぼくの存在が抹消……」                            

 耕平はあまりにも唐突な言葉に思わず絶句してしまった。

「その通りです。これはあくまでも不確定な要因によるものなので、はっきりとは断言は出きないのですが、時間軸には自己治癒力とでもいうべきものがあると考えられております。これが些細な出来事、つまり歴史的にはさほど影響を及ぼさないことなどには、自然淘汰的に修復されることも考えられているのですが、世界大戦などの大きな出来事や人間の生死、つまり存在などにはあまり関係しないようなのです。ですから、人間ひとりの存在は時間連続体から見れば、大変重要な役割を果たしているということになるわけです。佐々木さんひとりの存在もしかり、時間連続体からすればこれもまた重要な役割を果たしているというわけなのです」

 黙って話を聞いていた耕平が、急に思いついたように吉備野に尋ねた。

「ひとつ伺ってもいいですか…。ひとつだけ教えて頂きたいことかあるのです。もし、ぼくが自分の父親であるなら、本当のぼくの父親はいったい誰なんでしょう。もしかしたら、あなたはそれをご存じなのではないのですか」

「さあ…、それは私にもわからないのです。ですが、もしあの行為をあなたが拒んでおられたら、確実にこの次元からあなたの存在が消滅してしまったことだけは間違いないと考えられます。ですから、あなたは正当かつご自分を守り抜いた行為を選択されたことになるのだと思うのですよ。私は」

 耕平は、もう何が何だかわけがわからなくなっていた。それでも、何かしら得体の知れないモヤモヤとしたものが心の中で渦巻いているのを抑えることができなかった。

「ですが、先生…」

 この七百年後の未来からやって来た吉備野のことを、初めて先生と呼んでいる自分に気づいて耕平は自分でも少々驚いていた。この老紳士を先生と呼ばせたのはタイムマシンの開発者でもあり、耕平自身も知らない彼の数奇な運命に興味を示して自らの研究対象として、地道な研究を続けてきたこの老科学者に対する畏敬の念だったのかも知れなかった。

「考えれば考えるほど頭の中がめちゃくちゃになって気が狂いそうなんです。何とかしてください。先生…」

 吉備野はしばらく何かを考えていたが、耕平を見てこう言った。

「わかりました。あなたがそれほど苦しんでいるのでしたら、それは私にも一因があることですから一緒に来ていただけますか。実は私も少しばかり気になっていることがありまして、あなたと一緒に考えてみましょう」

「行くって、どこへですか…」

「私の研究所です。さあ、行きましょう」

 そう言いながら吉備野は立ち上がった。つられて耕平も立ち上がると肩に手を触れるようにして片手でコントローラーを操作した。すると、二人はたちまちその場から姿を消していた。


      二


 吉備野の研究所の中は部屋全体が光に満ち満ちていた。その明るさは照明器具などの光源ではなく、壁や天井・床といった全体から放出されているという感覚のもので、その証拠に自分の足元に影か映っていないことを見ても明らかだった。部屋の中央には円筒形の機器が設置されており、計器類が目まぐるしいほどり返していた。

「これがタイムマシンのマザーシステムで、私をあなたのところへ転送したり戻したりしている機器です」

 吉備野はそのマシンを指して耕平に説明した。

「………」

 耕平は珍しそうに部屋を見渡していたが、中央部に置かれた巨体なモニターのようなものに気づいて、

「先生、あれは何ですか」と、吉備野に尋ねた。

「ああ、あれですか。あれはその年代、つまり時代時代の場所・月・日・時間・分・秒をインプットさえすれば、ここにいても立ち所にその時代に起こった出来事が映し出されるRTSSと云う、時を超えて実際に起こった事象を鑑賞できる装置です」

「え、本当に過去に起きた事件やなんかが見られるんですか」

 まさかそんなことが、とでも言うように尋ねると、

「そうです。佐々木さん、何か見たいものがおありですか。もし、よかったら何かお望みのものがありましたら、お見せしましょうか。何がお望みですか?」

「本当に見せて頂けるのでしたら、古生代の石炭紀と呼ばれている時代の映像を見せてください。石炭紀の日本がどうなっていたのか、一度ぜひ見てみたいと思っていたんです」

「そうですか。よろしい、それではお見せいたしましよう」

 吉備野は手早く機器類の操作に入り、巨大モニターには映像が映し出され始めた。すると、

 モニターが作動し始めると周囲の空間に広大な原野のような風景が映し出された。耕平の知っている映像は二次元映像なのだが、そこに現れたものは三次元化された立体映像だった。遥か遠くのほうには火山が噴煙を上げているのが見て取れた。吉備野がズームアップすると、耕平が見たこともないような巨木が一面に繁茂していて、底辺部は湿地帯と見えて多量の水分が含まれていて、ところどころに水溜まりができており、シダ植物のような下草が生い茂っている。その上を耕平の知っているものよりも二〇倍はあろうかと思われるトンボが群れを成して飛んでいるのが見えた。

 初めて見る映像に、度肝を抜かれたように見惚れている耕平に吉備野は言った。

「いかがです。ご満足いただけましたかな。お見せした映像は太古の映像ですが、これはすでに過ぎ去った時間の残像などではありません。時間連続体の中では現在でもこの時代の時空間にいまでも存在しているのです」

「……………」

「あなたも、すでに経験されたはずではありませんか。タイムマシンを拾われた時間帯に戻ってご自分の部屋に来られたし、現在あなたのおられるこの年代にしたところで、あなたが実際に住んでおられた二十一世紀から見ればすでに過ぎ去った年代なのですよ。これがあなたには残像に見えますか」

 言われてみれば、確かにその通りだった。しかし、いま見た石炭紀の森林や、その時代や年代ごとにアンモナイトやら恐竜、ネアンデルタール人やクロマニヨン人が現存して生きていると言うこと自体が、耕平には信じられないという思いでいっぱいだった。

「さて、余談はこれぐらいにして、そろそろ本題に入りましょうか」

 吉備野氏は,少し考え込むような仕草を見せてから、

「先ほど、佐々木さんがお尋ねの件ですが、現時点で亜紀子さんが宿しておられるお子さんは、間違いなく佐々木耕平さんあなたなのですが、現在ここにおられる佐々木さんの父親も佐々木さんあなたなのです。この問題を何とか解き明かそうとして、私は私なりに手を尽くして調べては見たのですが、どうしても核心に迫るところまで辿りつくことができないのです」

 何をどう聞けばいいのかさえ、わけがわからなくなり黙り込んでいる耕平を他所に、

「ある時、私はひとつの仮説を立ててみました。佐々木耕平さんの人生の中にパラレルワールドに抜ける分岐点のようなものが、存在していたのではないかと私は考えたのです。しかし、パラレルワールドそのものの実体が未だに具象化されておりません。

 時間軸、つまり時間の縦の流れと時間連続体、これは過去から現在・未来へと流れている時間ですが、私たちに認識できているのは、実はここまでなのです。時間軸は〝揺るぎない物〟としての確固たる存在なのです。しかし、ここにも私たちには計り知ることのできない何かが存在していることだけは確かなようなのです。

 現在でもあらゆる方法、それこそ全精力を尽くして探ってはいるのですが、結局は何も得ることができなかったというのが実情でもあります。ですが、確かに佐々木さんの出生については何かしらの謎めいた部分があるのはわかるのですが、それが一体何であるのか私の長年の研究をもってしても一向に認識することさえできないでいるのです」

 そこで吉備野は軽くため息をついた。

「先生のお話しはあまりに難しすぎて、ぼくにはわからない部分のほうが多いのですが…」

 耕平は自分が蟻地獄から必死に逃れようとしている蟻のごとく、どうしようもない焦燥感に囚われながら吉備野に聞いた。

「母のほうは、どうなのでしょうか…」

「お母さまと申されますと……」

 吉備野は怪訝そうな顔で尋ねた。

「母が生まれた時代には、何か変わったことがなかったかと思いまして…」

「ああ、それなら別に何もなかったと思われますが、それが何か…」

「いや、それならいいんです。どうも、そのパラレルワールトというのが、ぼくの中では完全に理解できてない部分があるのですが、その存在を確かめる手段っていうのは本当にないものなのでしょうか」

「そう云われると、私といたしましても非常に心苦しいのですが、パラレルワールトは何分専門外のことでもありますし、専門に研究されている方々の間でも大変苦慮されているところでもあるのです。パラレル、すなわち〝並行あるいは多元〟と呼ばれている宇宙も、ビッグ・バンとともに、われわれの存在している宇宙と並行した形で生み出されたと考えられています。その実態を解き明かすことは、われわれのテクノロジーを以ってしても未だ立証することは不可能に近いと思って頂いても結構です。

 パラレルワールドは三次元と四世次元空間の中間、つまり三・五次元とでも云うべきところに存在していると考えられています。この世界はとても不安定なものとして捉えられておりますが、並行世界という概念すらなかった時代から不思議な世界を見てきた話として『浦島太郎』伝説のようなものが、日本でも古くから伝わる伝承や民話として語り継がれてきたのではないかと私は考えています」

 それから吉備野は三時間ばかりかけて、自分の研究について事細かく説明してくれた。耕平も吉備野の講話を聞きもらすまいとして熱心に耳を傾けている。そんな中、何を思ったのか吉備野は立ち上がると、

「しばらく待っていてください。いま飲み物でもお持ちさせますから」

 吉備野が部屋を出て行ってから間もなく、若い女性が飲み物を持って部屋に入ってきた。「イラッシャイマセ。ドウゾ、オ召シアガリクダサイ」

 彼女は、耕平たちが通常使っている日本語とは少しニュアンスの違う言葉で挨拶をした。

「はあ、どうもありがとうございます」

「イマ少シオ待チクダサイ。間モナクジイガ来マスノデ」

 何ともタドタドしい変な日本語だった。彼女が部屋を出ていくのと前後して吉備野が戻って来た。

「お待たせしました。さあ、どうぞお召し上がりください。その飲み物は、あなたのいた年代ではまだ作られていない飲み物で栄養価も非常に高いので、どうぞ遠慮なく召し上がってください」

 勧められるままに耕平はグラスに手を伸ばすと、口もとに持ってくると何とも言えない香りが鼻腔いっぱいに広がって行った。口に含むとこれまで一度も味わったことのない奥深い味わいかあった。

「いかがですかな。お味のほうは」

「はい、すごく美味しいです。何という飲み物ですか。これは」

「お気に入られましたか。それは火星で採取された苔の一種で、探検隊の隊員が採取して地球に持ち帰り培養したのが始まりでした。それを生成して作られたのがその飲み物なのです。しかも、地球では考えられないほどの栄養素が、その一杯に含まれているというのですから、まさしく驚きのひと言に尽きます」

 吉備野は耕平の顔を見て満足そうな表情で、

「先ほどそれをお持ちしたのは、私の孫娘ですが何か粗相はなかったでしょうか。あれまだ近古代語にはなれておりませんので、心配しておりましたが…」

 この時代では、二十一世紀のことを近古代に分類しているのかと耕平は思いながら、

「いえ、大丈夫です。よくわかりましたから」

 と、答えた。

「それは何よりでした。さて、先ほどの続きに入りましょうか……」

 それから吉備野は耕平の運命談議に戻ると、あらゆる角度からふたりの抱いている疑問に迫ろうという試みに没頭して行ったが、これもまた核心に触れることもできないまま、耕平と吉備野の周りを時間だけが無情に過ぎ去って行った。

 それから間もなく、耕平は失望に打ちのめされるような思いで、吉備野の元から一九八九年の世界へと帰って行った。

 あまりに落ち込んでいる耕平を見るに見かねて、吉備野は何かわかり次第知らせてくれるという約束をしてくれたのが、耕平にとってはたったひとつの希望ではあったが……。


      三


 それから、さらに三ヶ月が経過していた。その後も亜紀子は体内にやがて佐々木耕平として生まれてくる生命を宿しながら、何事もなく順調な日常性生活を送っていたが、耕平にしてみればその一日一日が地獄のような苦しみを味わって生きていたといっても決して過言ではなかった。時間が経つにつれ、それが次第に彼の中で大いなる不安となって、自分でもどうしたらいいのかわからず茫然自失の状態に陥っていた。

 このままここにいたら、やがて生まれてくるであろう佐々木耕平を自分の手で抱き上げている姿を想像すると、突然発狂してしまうのではないかという恐怖さえ覚えるのだった。このままではいられない。何とかしなければいけない。そんな思いが募る日々が続く中で、このままここでじっとしているわけにはいかなかった。かといって、どうすれば一番いいのか見当もつかない自分に苛立たしさを感じながら、もしこの時代から自分がいなくなったらどうなるのだろうと考えてみた。子供ができたことで、亜紀子も祖父もあんなに喜んでいるのに、それはあまりにも残酷すぎると思えた。それにやがて生まれてくる自分を抱えながら生きて行かなければならない亜紀子を考えると居た堪れない思いがした。

 子供ひとりを育てるには金が必要だが、子供が高校卒業するまでにかかる費用は、養育費まで含めてどれくらい掛かるのか耕平には予想もつかなかった。亜紀子の生活費と合わせて五百万くらいか、いや、一千万円くらいかも知れない。もしかしたら、それ以上かも知れなかった。そんな大金は、いまの耕平にはたとえ逆立ちをしたとしてもどうすることも出来ないほどの金額なのだ。そこまで考えると、耕平の思考回路はショート寸前にまで追い詰められていた。

 それはどう考えたとしても、不可能か少なくともそれに近いものであることだけは確かだった。だから、それ以上はいくら自問自答を繰り返したところで、何ひとつとして回答など得られるものではないことを耕平自身もわかっていた。しかし、それでも何とかしなければという思いのほうが先に立っていた。

 それでは『どうすればいいのか』という問いに対して、『どうすることも出来ない』という答えが同時に沸き上がってきて耕平を苦しませていた。

 もし、自分が突然この時代から姿を消してしまったとしたら、亜紀子はどうするんだろうと考えた時、耕平はあることに気が付いてハッとした。すべての真相が鮮明に見えてきた。

『そうか。そうだったのか……』

 どうして自分には父親がいないのか。という疑問。そして父が若い頃に死んだというのなら、母とふたりで撮った写真が残っていたとしても不思議ではないにも拘わらず、位牌や墓さえ存在しないのは何故だろうかという、耕平が少年の頃から長い間抱き続けてきた疑問が一気に解けたのだ。それは暗黒の闇の中に隠されていた薄汚れた氷塊のごとく、白日の下に晒されると忽ち蒸発したかのように消え去って行くのが耕平にもわかった。

 やはり自分の父は自分だった。と、いう現実に少なからず戸惑いもあったが、一刻の猶予も残されていないことを悟った耕平は、出来る限り早い時期にこの時代から姿を消そうと決心していた。そのためには、まず佐々木耕平という人物がこの時代に存在したという物的証拠は絶対に残してはならないこと。わずかなもので残せば『未来である二〇〇〇年代にどんな悪影響を及ぼすかわからない』と、山本から口が酸っぱくなるほど言われていたからだった。

 亜紀子とふたりで写した写真がないことは、子供の頃の記憶を辿るまでもなく存在しないことは確かだから、まずこれは大丈夫だった。あとは近くの本屋で買ったSFの文庫本が五・六冊だけだから、始末さえしてしまえばこれもOKだ。あとは、やがて生まれてくる自分に掛かる養育費と、亜紀子が仕事をしないでもしばらくは暮らして行けるだけの生活費用だった。しかし、これが一番の難問だった。人間には出きることと、出きないことのふた通りしかないのである。

 時間さえ賭ければ金を貯めるなり、稼ぐなりして手に入れることも可能だろうが、耕平には金を得るための時間さえなかったのだから、もうこうなったら神仏に頼るかギャンブルしか方法が浮かばなかった。

『ギャンブル……』

 このあいだ見たばかりの、ここに来るときに図書館でコピーしてきた新聞記事を思い出していた。

『け、競馬、競馬だ…』

 耕平は自分でも驚くほどの速さで押し入れの襖を開けると、中から新聞のコピーが詰まったカバンを引きずり出すと、紙封筒を取り出し畳の上に一気にブチ撒けた。その中から一九八九年十一月十二日に、京都競馬場で開催された「第十四回エリザベス女王杯」のコピーを見つけ出して食い入るように読んだ。その記事によると、一着に入ったサンドピアリスという馬は、二〇番人気という人気最下位の馬だった。だからこそ、単勝で四三〇・六倍などという、信じられないような高配当になったのだろう。記事を読み進めて行くうちに、耕平は自分でもわけのわからない興奮に浸っていることに気づいた。

「これだ…。これなら絶対行けるぞ」

 耕平は、思わず小さな叫び声をあげていた。十一月と言えば、まだ四ヶ月も先のことだった。耕平は急いでカバンの底のほうに仕舞って置いた、この年代に使える山本から借りてきた紙幣の入った封筒を取り出した。いくら残っているのか気になって数えてみた。まだ、十五万とちょっと残っていた。

『配当が四三〇・六倍だから、これだけある花ば何とかなるんだ……』

 ペンを取り出すと、耕平は必死に計算を始めた。

『これだけあれば、何とかなりそうだ…』そう思うと、耕平はますます気持ちか高ぶっていくのを感じた。

『これから、四ヶ月間待てばいいか…』

 そんな考えも浮かんだが、あまり悠長なことも言っていられなかった。たとえ短い期間とはいえ少しでも過去の歴史に干渉した以上、いつまでもここに止まってはいられないという考えのほうが優先していた。そして、これから直接一九八九年十一月十二日に行ってみようと思い立った。

 取り敢えずきちんとした身なりに着替えると耕平は、

『百万円の札束の厚さは確か、一センチぐらいだったかな…,二億くらい入るカバンかなんかを買わなくっちゃしょうがないかな』そんなことを考えながら、デパートのカバン売り場へ向かっていた。そして、二億円はらくに入りそうなスーツケースを買い込むと十一月十ニ日へ向けて飛んでいた。

 競馬場は相変わらず人でごった返していた。もちろん、耕平は順を追って各レース毎に買うつもりでいた。結果はわかっているのでこれほど確かなことはないのだから、赤子の手を捻るより簡単なことでもあった。

 それをメーンレースの「エリザベス女王杯」に賭ければ、間違いなく二億などという金額はあっという間に集まるに違いなかった。

 最初に耕平が買ったのは四レース目だったが、これに三六〇円の配当がついていた。これに持ち金全部を注ぎ込むと、払い戻し金が四千五十万円になって戻ってきた。もう、これだけあれば余計なレースは買う必要がなくなっていた。あとはメーンの「エリザベス女王杯」まで待って、五万円ほど賭ければ軽く二億は超すはずだから、これで大丈夫だと耕平はホッとひと安心する思いだった。

 しかし、世の中には競馬や競輪・競艇といったギャンブルに、何百万・何千万という金を注ぎ込んで身を持ち崩して人もいるという人もいるのひとつの現実だったから、自分だけ大金を独り占めするというのも、いささか後ろめたいような感覚に襲われたが、これもすでに確定された歴史なのだから、後々の歴史には直接の影響を与えるようなことはないはずだ。と、いうのも、耕平が自分のやっている行動に対して、正当化しようとする一つの言い訳に過ぎないことは本人が一番わかっていた。

 こうして、濡れ手で泡とでもいうべき手段でまんまと二億五千数百万という大金を手中した耕平は、大金の詰まったスーツケースを手に競馬場を出て駅前に向かうとホテルに部屋を取った。ここにやって来たのは、この先自分がどのように行動すれば最良の道なのかを考えることと、もし自分が突然姿を消した場合に亜紀子はどうするのかということとだったが、それは子供の頃の自分を思い返してみても漠然とはわかっていた。耕平の子供の頃に『自分の父親はどうしていないの』という問いに対し、母はただひと言『お前が生まれる前に死んだ』とだけ答えるのが常だった。そうやって母は、やり場のない哀しみをひと言も口には出さず自分の内に秘めながら、ここまでひたすらひたすら生きて来たのだろうと耕平は思った。だから、これから生まれてくる耕平自身にも、また同じ答えを繰り返すのも確かだろう。それなら祖父の場合は自分がいなくなったことについて、どんな風に感じていたのだろうか。ところが、そのことについては耕平の中にまったくそれに関する記憶は残っていないのだった。これはただ単に、男女の違いだけで済ませてしまってもいいものなのか、耕平にはどうしてもその回答は見いだせそうにもなかった。

 とにかく、この競馬で得た金の中から亜紀子には二億五千万は渡してやりたかった。最初は二億円を目標にしていたのだが、運がよく五千万ほど余分の収穫があったのだから喜ばしい限りであった。後の残りは、山本から借りた分に利息をつけて返してやろうと考えていた。それから耕平はホテルを出ると、銀行に行って貸金庫を借りて金の詰まったスーツケースを預けて四ヵ月後の世界へ帰って行った。


      四


 それからまたひと月ほど過ぎ去り、耕平はいつもの通り朝になると祖父の会社に通勤していた。与えられた仕事をこなし、退社時間になると何もなければ祖父と共に家に帰ってくる。そんな、ごく普通の日常生活を送る日々が続いていた。

 ただ、耕平は、ここのところある種の不安に苛まされていた。夜寝ていてもほとんど毎晩のように悪夢にうなされるのだった。驚いて起き上がると、体中が汗でピッショリと濡れていることもしばしばだった。それでいて夢の内容などは、思い出そうとしても何ひとつとして覚えていないのである。それでもひとつだけはっきりしているのは、何かはわからないが得体の知れない〝何か〟に追われている夢であることだけは確かだった。誰かに相談したくても、この年代には相談したくても相談に乗ってくれるような友達もいないのだ。こんな時、山本でもいてくれたら、どんなに心強いか知れないのだが、それも出来ない現状に耕平は辟易していた。この世界に存在していることへの限界さえ感じていた。

 もう、もとの世界に帰ろうと思った。しかし、二〇一八年に戻るのには少しばかり抵抗があった。何故なら、こんな結果になってしまった以上、母親にどんな顔をして接したらいいのかまるで自信がなかったからだ。それに、もし山本にいまの状況を知らせたら、間違いなく逆上して怒り出しかねないからだった。

 それなら二十七年後はどうだろうかと思った。タイムマシンの動力源が切れた場合を想定した年代なら、山本も五十三歳か四歳になっているはずだから、そうむやみに怒ったりしないだろうと耕平は考えたのだった。

 こうして、ようやく二〇四四年に行く決心を固めた耕平は、その晩、亜紀子に宛てた手紙をしたためていた。



 佐々木亜紀子 様


  亜紀子さん。こんなことを書けた義理ではありませんが、突然徒然お別れを

 しなければならなくなりました。どうぞ僕のわがままをお許しください。

  実は、僕自身も少し戸惑っているのですが、どうしても行かなけれはな

 らないところができてしまいました。もうここには帰って来れないかとも

 思っています。

  僕は決して亜紀子さんのことを嫌いになって、こんなことを書いているの

 ではありません。むしろ好きです。大好きなのです。愛していると云って

 もあなたには信じてもらえないかも知れませんが、これには止むに止まれ

 ない事情があるのです。どうか、僕の身勝手なわがままをお許しください。

  ここに、生まれてくる子供の養育費と亜紀子さんの生活していける分のお

 金が用意してあります。

  この金は決して怪しい金ではありませんので、どうぞ安心してお使いく

 ださい。身勝手な僕の行為は、いくら謝ったところで到底お許し頂けるよ

 うなものではありません。

  本当に申し訳ありません。心からお詫びいたします。それでは、これで

 お別れいたしたいと思いますます。さようなら。

 

 坂本耕助



 耕平は、手紙を書き終えた。熱いものが胸に込み上げて来るのを感じながら、わけもなく涙がしたたり落ちてくるのを抑えることができなかった。

 もっと多くのことを書き残したいと思っていたが、もう、それ以上のことは言葉にならなかった。出来るだけ過去において、これから生まれてくる自分や亜紀子に影響が与えるような言葉は避けなければならないと考えたからだった。

 次の日から耕平は、この世界に別れを告げるための準備に取りかかっていた。身の回りの整理と言っても特別なこともなかったが、自分が少しの間でもここにいたという痕跡を残さないように気を配っていた。自分がしていることを亜紀子や祖父に気づかれないように、十分な配慮を要することでもあった。

 それから、また数日が過ぎて耕平はすべてのやるべきことを終えた。金曜日の午後、用事があるという口実で時間を取って、銀行の貸金庫からスーツケースを取り出し、家に持ち帰り押し入れに仕舞ってから会社にもどって行った。

 日曜日になった。その日の耕平は朝食を済ませるとすぐ部屋に戻ると、金の詰まったスーツケースと亜紀子に宛てた手紙を部屋の隅に置くと、自分の荷物の入ったカバンを窓から外に出した。

 しばらくしてから居間に行くと新聞を読んでいた祖父に、

「これからちょっと友達に会う約束があるので、出かけてきます」と、ひと言告げて外に出た。物置に入れておいた自転車を取り出すと、耕平はゆっくりと公園に向かって走り出した。

 昼近くになっていた。耕平はタイムマシンを拾ったあたりまで来ると、マシンの時間合わせに取りかかった。どうせ行くなら、やはり暖かな春先にしようと思った。

 二〇四四年四月十日にセットし終えて、耕平はホッとひと息ついた。公園を見渡すとさまざまなことが耕平の脳裏に浮かび上がってきた。思い返せばこれまでに起こったことのすべては、この公園でタイムマシンを拾ったことから始まったのだった。だけど、もうそんなことはどうでもいいと思っていた。これから、未来の山本に会っていままでさんざん迷惑をかけたことを詫びて、彼から借りた金を返したら誰も知らない時代にでも行って、ひっそりと暮らそうと耕平はひそかに心を決めていた。


 最終章 二〇四四年 春


        一


 その日も、あの時と同じように爽やかな風が吹きすぎて行き、空にはまばゆいばかりの太陽が輝いていた。

 耕平が一九九〇年の世界に旅立ってから、すでに二十七年という歳月が過ぎ去っていた。

 二〇四四年、春。東北の一地方都市でもあるこの街にも、また、あの季節が廻ってきた。山本徹は、この時期になると毎週土曜日と日曜日には公園にやつてきて、耕平が戻っては来ないかと当てもなく公園内を散策するのが長い間の習慣になっていた。そして、山本自身もつい一ヶ月ほど前に五十五歳を迎えたばかりだった。

 四月のとある日曜日、今日もまた公園のベンチに座りひとり物想いに耽っていた。山本は、ここ数年来自分の上に伸し掛かってくる、どうしようもない重圧感のようなものに苛まれていた。

 何故、あの時、耕平を強引に引き止めるか、自分も一緒について行ってやらなかったのかという、断腸の思いに苦しめられていた。しかし、あの時はああするより仕方がなったし、できる限りの協力も惜しまなかったつもりでいた。それなのに、これほど罪悪感に打ちのめされている自分に、たまらなく腹立たしさを感じていた。しかし、耕平の身に何かが起こったことは確かだろう。やはり、タイムマシンの動力源が切れたのか。いや、それはないな。と、山本は思った。もし、タイムマシンのエネルギーが切れたのであれば、耕平が旅立ったすぐ後に五十四歳になった耕平が現れるはずだったから、これは間違いなく彼の身に重大な何かが持ち上がったと見ていいだろう。

 それにしても二十七年と言えば、すごく長い年月のように感じられるかも知れないが山本にしてみれば、あっという間に過ぎたようにも思えた。そして、それは山本が自分ひとりで仕舞い込んできた、耕平とタイムマシンに関する秘密を誰にも漏らすことなく、黙々と過ごしてきた山本自身のささやかな歴史でもあった。

 耕平は、どこでどうしているのか。と、山本は改めて考えていた。耕平から『自分が戻らない時は、時々母親のところに顔を出してやってほしい』と、頼まれたこともしっかり守り、時間が許すかぎり耕平の母親のところへ通い続け、そのうち帰ってくるから気を落とさないようにと励ましもした。しかし、日が経つに連れその慰めも徐々に虚しいものと化していったことも事実だった。その母親も耕平がいなくなってから二十七年が過ぎ去った現在、すでに七十を過ぎてはいたが昔と少しも変わらない美しさを保っていた。

 山本が時々訪ねていくと、まるでわが子が帰ってきたかのように喜んで迎えてくれた。耕平が姿を消したばかりの頃は、見るも無残なまでに落ち込んでいたが、それから徐々にではあるが元気を取り戻していくのがわかり、山本も安堵に胸を撫でおろしたものだった。当初は、このまま病気にでもなって、もし、万が一のことでもあったら耕平に顔向けが出来なくなることを恐れていた。そんな山本の心配はただの取り越し苦労に終わり、耕平の母は元のように元気で明るい姿を取り戻していった。

 この地方都市でさえ、二十七年の間には都市の再開発が幾度となく行われ、駅の周辺地域を中心に超高層ビルが林立するようになっていた。そして、最近では、この周辺地域にまで高層マンションやホテルなどが立ち並ぶようになっており、耕平がいた頃の面影はまったくといっていいほど見られなくなっていた。昔のままの姿で残っているものと言えば、この公園と神社仏閣の類だけになっていた。

 さらに驚くべきことには、ここ数年来の技術革新により、コピューターなどの人工知能の分野でも高性能化が進み、一度プログラミングされたものはコンピューター自体が独自の判断で、すべてを処理することが出来るようになったことだった。これにより、人間が機械を管理するという労力が、それまでに費やされてきた労力を半減することを可能にした。

 しかし、社会的には賛否両論が巻き起こっていた。SF小説や映画で扱われているような、機械が人間に取って代わって社会を乗っ取られでもしたら大変だ。と、いうのが反対派の意見だったが、大半の者は便利になったし仕事も楽になったと喜んでいる者のほうが多かった。

 こんな時代になったことを、もちろん耕平は知らないだろうが、知ったところでアイツのことだから、どうせ驚きもしないだろうと山本は思った。それにしても、耕平はどこで何をしていのだろうと、山本はまたひとつため気を着いた。毎週ひまを見つけては、この公園に通いつめている山本には自分自身でさえ気がつかない、心の奥のもっとも深い部分では半分以上は諦めているのかも知れなかったが、表面的にはそんなことは絶対に受け入れられないことのひとつでもあった。

 人間という生き物は、他人のことをいくら親身になって同情したり、大切に思っていたとしても、結局のところ最終的には自分のことや自分の家族のことを、やはり優先順位の筆頭に持ってくるのが世の常なのだが、山本の場合は少し違っていた。まず寝ても覚めても耕平のことが頭から離れず、雨の日も風の日も一回たりとも休まず公園にやって来るのであった。

 ある時、業を煮やした妻が山本に問いただした。

「一体あなたは耕平さんとわたしとどっちが大事なの。いい加減にしてよ」

 そんな時、山本はいつもこう言うのであった。

「決まってるだろう。お前に决まってるじゃないか。バカ」

 と、いうよりも早く、そそくさと出かけて行くのだった。

 そんなことをいいながらも、山本の頭の中は耕平のことで一杯だった。なぜ、そこまでして公園にやって来るのか正確な理由は、山本の中でもそれ自体がまるで風化した遺跡のように、薄ぼんやりとしたものに変化しつつあった。ただ、ここに来て耕平が戻ってくるのを待つという行為こそ、大袈裟な言葉で表すならば山本に残された最後の砦のようなものになっていた。そして、その試練ともいうべきものこそが、紛れもなく生に対するこれ以上は譲れないという、山本徹個人のささやかな抵抗なのかも知れなかった。

 そんな中、事情を知らない世間の目は冷ややかであり、好奇の目を持って見ている者も多かった。公園通いを始めてしばらく経った頃、知り合いからよくこんなことを聞かれたものだった。

「山本さん。貴方、ここんところ毎週公園に通い詰めているようですが、いったい何をしてらっしゃるんですか?」

 すると、山本は決まってこう答えるのだった。

「はあ、別に何もしていません。ただ、待っているだけです。友だちが来るのを…」

 それ以上のことは何も話さず、公園内を散策したりベンチに座ったまま、黙々と待ち続ける山本に周囲の人々間たちはますます好奇の目を向けたが、昔から『人の噂も七十五日』というくらいで、そのうち山本の奇行のことなど人々の記憶の片隅に押しやられて行った。

 そして、今日も一日が終わろうとしていた。そろそろ帰ろうとして腰を上げた時だった。

「あの…、山本…徹さんでしょうか…」

 誰かが声をかけてきた。

「はい、そうですが、どなたですかな…」

 声のするほうを振り向いた山本は、自分の顔から見る見るうちに血の気が退いて行くのを感じた。山本は、一瞬まばたきをしてから素っ頓狂な声を張り上げていた。

「こ…、耕平…」

 なんと、そこに立っていたのは二十七年間待ち続けた佐々木耕平だった。

「こ、耕平…。本当にお前なのか…」

 山本は、豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をして聞き返した。

「ああ、オレだよ。二十七年振りになるのかな…、こっちでは」

「お、お前…。ほ、本当に…、佐々木…、耕平なんだな…。幽霊じゃないよな…」

 山本は、まだ信じられなという表情で聞き返した。   

「間違いなく、オレだって…。幽霊でも妖怪でもない。正真正銘の佐々木耕平だから、安心しなよ。ほら、ちゃんと足だってあるんだから…

 と、いいながら、耕平は山本の隣に腰をおろした。

「しかし、この街並みにしても山本にしても、すっかり変わっちまったんで少しばかり驚いていたところだよ。まさか、お前が白髪混じりのおっさんになっていようとは考えてもいなかっし、たかだか二十七年なんて気軽に考えていたけど、これが時の流れってものなんだな、きっと…。

 それにしても、さっきお前を見つけたとき、声をかけたらいいものかどうか、一瞬とまどいを感じて迷ってたんだ。いや、こんなにも白髪のふえた山本なんて想像もしてなかったから……」

 耕平は感慨深げにあたりを見回した。すると、山本もようやく落ち着きを取りもどしたのか、耕平の姿をまじまじと見つめながら話しだした。

「まさか、お前が昔と少しも変わらない姿で現れるとは思ってもいなかったから、少し驚いただけだけど…。でも、どうしてもう少し早く帰ってきてくれなかったんだよ。おふくろさんもオレも、どれだけ心配していたかお前にはわからないだろうが…。そんなことより、早くおふくろさんことに行って顔を見せてやれ。おふくろさん喜ぶぞ。きっと」

「う、うん…」

「どうした。早く行ってやれよ。早く、早く…」

 山本は急かせたが、耕平はいっこうに動こうとはしなかった。

「実はな。山本……。実は、オレおふくろには逢えない…。いや、逢わないほうがいいんだよ…」

 耕平は、苦しそうな表情であえぐように云った。

「いったい、どうしたんだ。お前らしくもない。あれほど、おふくろさんのことを心配しいたお前が…。だからオレは、お前に頼まれたとおり時々は顔を出して、おふくろさんを見守ってきたんだぞ。それが、何を言ってるんだ。いまさら、逢えないだの逢わないほうがいいだのと、どうしようってんだよ。この期に及んで…、ええ、耕平よ」

 確かに山本が苛立っているのが耕平にもわかった。うつむき加減になったまま、しばらく何ごとか思い悩んでいた耕平だったが、急に山本のほうに向きなおった。

「いままで、お前にばかり心配かけて本当にすまなかった。お前にだけはオレが体験してきたことをすべて話すから聞いてくれるか…」

 山本は黙ってうなずいた。

「話すといっても、この辺で話すわけにもいかないから、そこらのホテルでも借りるから一緒にきてくれないか。お前に渡すものもあるしな…」

 耕平がひどく苦しんでいる様子をみて、『これは尋常な話しではないな』と、悟った山本は耕平の誘いを受入れることにして、この近くに最近出来たばかりのホテルへ向けて歩きだした。 


       二


 二十四階建ての高層ホテルに着くと、山本徹は最上階の部屋をキープした。さすがに最上階というだけあって、カーテンを開ける市内を一望することができた。ふたりは窓際にイスを寄せると向かい会って腰を下ろした。

「どれ、お前の体験談とやらを聞こうじゃないか」

 と、山本はさっそく話とを切り出した

「うん、わかった。その前にお前に渡すものがあるんだ…」

 と、いいながら、耕平はカバンの中から新聞紙で無造作に包装した、小さな包みを取り出して山本の前に置いた。

「なんだ、これ」

 包みを開けると、中から札束が五つほど出てきた。

「五百万ある。お前に借りた金と、いままで借りてた分の利息だ。取っといてくれ。オレは、もう必要ないからな…」

「ど、どうしたんだ。これは…、オレが貸したのはたかだか二〇万くらいのものだぞ。それに、こんなにいらないよ」

 山本は急いで新聞紙に包み直すと耕平のほうに押し返してよこした。

「それにしても、どうしたんだ。こんな大金を…」

「お金なんて、あって困るものでもないし遠慮しないで取っときなよ。べつに怪しい金じゃないから、安心して使っていいよ。あとで詳しく話すけど、たまたまというか。偶然というか。とにかくラッキーだったんだ」

 耕平は改めて包みを山本の前に戻し、右手を膝の上にのせると顎に拳を当てながら話しだした。

「え~と、何から話そうか…、あ、そうそう、最初から話すとオレが行ったのは、一九九〇年ではなく一九八九年だったんだ。そこでもマシンの時間制御が、目的よりもきっかり一年分ズレ込んでいたんで、もう一度一九九〇年に飛ぼうと思ったんだけど、せっかく一年前に来たんだから家のようすを調べてみようとウロウロしているうちに、横丁の角のところで女の子にぶつかりそうになって、除けようとして自転車ごと転んでしまって、肘のところを擦りむいてしまったんだ。そして、倒れた自転車を起こしていた女の子は、まだ結婚する前のオレのおふくろだったんだ……」

 そこまで話すと、耕平は苦しそうにため息をついた。

「それで、どうした…」

 黙って耕平の話を聞いていた山本がひと言だけ聞いてきた、

 それから自分の家に連れて行かれたこと、そこで死んだ祖父に出逢ったことなど、自分が体験してきた一連の出来事を話し終えた。そこまで耕平の話を聞いていた山本が突然、

「ちょっと待ってくれよ…。たしか、お前は行方知れずの父親のことを調べに行ったんだよな。それなのにお前の話を聞いていると、父親の「ち」の字も出てこない。いったい、お前の親父さんの消息はどうなったのか、そこんところをもっと詳しく聞かせてもらわないと、二十七年間悶々として過ごしてきたオレの気持ちはどうなるんだよ。お前にわかるか。オレの気持ちが、ええ、耕平よ」

 山本は、そこまで一気にまくしたてると、深いため息をついて耕平の次のひと言を待った。すると、耕平は表情を少し強張らせながらおもむろに話し出した。

「これから話すことをお前にするには、オレが向こうに行った頃より、もう少し時間が経って年代にしたほうがいいと思ったんだ。最初、そう向こうの時代から間もない時期に戻ろうとも考えたんだが、いまから話そうとしていることをその頃の山本に話したら、お前が激怒するだろうなと思って、この時代を選んだんだ……」

「オレが怒るって…、それはどういうことなんだよ。耕平」

 山本はすかさず聞き返してきた。

「怒らないで聞いてくれよ、山本。父親は確かにいたよ。父親は、オレの父親は……、つまりオレだったんだ……」

「お前の父親が、お前…。それって、一体どういう意味なんだよ…」

 突拍子もない言葉を聞かされて、山本は思わず聞き返した。

「本当に怒らないで聞いてくれ。一九八九年に行って間もなく、オレは若い頃のおふくろと已むに已まれぬ事情もあって関係を持ってしまったんだ。それで、結果的にオレが生まれることになった…」

 耕平はそこまで話すと口を噤んでしまった。山本もまたひと言も口にしないまま、ふたりの間にしばらく沈黙が続いた。

「だから、あれほど過去に干渉してはいけないと云ったんだぞ。それなのに、なんて大それたことをしてくれたんだよ。お前は…」

 山本は自分が忠告したことに耳を貸さずに勝手な行動をとって、歴史の流れに多少なりとも汚点を残してしまった耕平に、腹立たしさを感じたように喚き散らした。

「とにかく、お前はとんでもないことを仕出かしたことには間違いないんだから、どうするんだよ。これから…、ほんとに困ったヤツだな…。お前ってヤツは」

 山本に言われるまでもなく、自分でも深い後悔の念を抱いていたし、このまま何もなかったような顔をして過ごそうとも思っていなかった。山本が怒ることも痛いほどわかっていたが、どうすれば山本徹の心の高ぶりを抑えることができるのか、皆無に等しいことも知っていた。

「なあ、山本。前に一度お前に、このタイムマシンの開発者のことを話したことがあったよな…」

 耕平は意を決したように話を切り替えた。

「ん、そんなことも聞いたような気もするな…」

 不機嫌そうな表情を変えずに山本は答えた。

「その人は吉備野博士といって、七百年後の未来からやってきた科学者だったんだ」

 耕平の話に少しは気を引かれるものがあったのか、山本は黙って耳を傾けていた。

「で、その吉備野先生は人間の運命っていうか、そういうことを研究してこられた人で、長年の研究の末にタイムマシンの開発に成功され、研究を進めて行くうちにオレの運命に興味を持たれたらしい…」

 山本はポケットから手帳を取り出し、何やら熱心にメモを取り始めた。

「そんで、実際に吉備野博士の研究所に連れて行かれて、RТSSという機械で過去の日本の石炭紀の映像を見せられたんだが、一面が密林っつうか巨大な樹木がビッシリ生い茂ったジャングルが続いていて、遠くほうでは火山があちこちで煙を噴き上げているのを見せられたんだ。しかも、いまの二次元のスクリーンじゃなくて、三次元の立体映像なんだぜ。あれを見せられた時には、オレ本当にビックリしてしまって、とても信じられないくらいだったんだ。博士がいうにはビッグ・バンがあって、この宇宙が誕生した時点から現在に至るまでの事象はすべて、すでに過ぎ去ったものではないというんだ。いまでも時間連続体の中では現存した形で存続しているというんだが、オレには難しすぎて全然わからなくってさ。お前なら、これどう思う…」

 すると、山本はいくらか機嫌を取りもどしたのか、しきりにペンを走らせていた手を止めると顔を上げた。

「うーん…。何とも云えんが、未来からやってきた科学者がそういうのなら、たぶんその通りなんだろうが…」

「いや、オレもそう思ったよ。最初は、あんなアンモナイトとか恐竜なんかが、次元こそ違うとはいえ、同じ時間連続体の中でいまでも生存しているなんてことは、とてもじゃないが信じられなかったが、オレも実際に過去へ行くって自分が中学生の頃に亡くなったおじいちゃんに逢って来たんだから、たぶん本当のことなんだろうけど…」

 そこまで話すと、ふたりはまた黙りこくってしまった。

「でもなあ、山本。お前は信じるかどうか知らないけど、もしオレが若い頃の母親と関係を持たなかったら、その時点でオレの存在そのものが、この世界から抹消されていたって聞かされた時には、オレ本当にビビッてしまったんだぜ。考えてもみろよ、もしオレがこの世に生まれて来なかったら、お前ともここでこんな話もしていられなかったんだぜ。そんなこと考えられるか、山本……」

 また、しばらく沈黙が続いた後で山本が言った。

「うーん…、そう云われても、どう考えればいいのか…。でも、お前の父親がお前ってえのが、どうしても理解できねえんだよな……」

 山本は、また額に拳を当てるような仕草をして黙り込んでしまった。

「それは吉備野博士も一番の謎だって云っていたし、いろいろ必死になって調べてくれたんだが、結局のところそれらしい根拠すらわからず仕舞いだったらしい…。しかし、こんなことも云っていたな…。確か、オレの人生の一部にはパラレルワールドが関わるような〝何か〟が存在している可能性もあるのかも知れないとかなんとか…。でも、それは単なる仮説であって専門外のことなので、まるっきり常識外れの見識かも知れないとも云っていた…」

「なーるほどなあ、お前の話を聞いているとますます訳がわからなくなってくるな…。うーん。でも、それにしてもお前の親がお前ねえ……、さっぱりわからん。うーん…」

 山本徹は半白の髪の毛を両手で掻きむしると、ポケットから煙草を一本取り出して火をつけながら、

「いくらオレがSFが好きだからって云っても、ごくありきたりの生活を送っているありふれた人間なんだぞ。それを捉まえていきなり過去の世界がどうとか、パラレルワールドがどうとか云われても、いまのオレにはどうすることもできないよ。それより、どうだ。久しぶりに逢ったんだから、これから酒でも呑みながらゆっくり話せば、何かいい方法が浮かぶかも知れない。確かお前には前に一回失業中の頃に奢ってもらったこともあったし、ここのホテルのバーは日中でもやってると思うから、電話をかければ待ってきてくれるはずだから、久しぶりに呑もうか」

「そうだな。じゃあ、少しだけなら付き合うよ」

「よし、わかった。いま持ってきてくれるように頼むから、ちょっと待ってろ」

 山本は立ち上がると、電話機ほうへ行くと早速バーに電話を入れ、酒とつまみ類の手配を済ませた。


       三


 ふたりは久しぶりに酒を酌み交わしながら、山本徹は耕平と別れてからの一部始終を語りだした。

 耕平がいなくなってからの母がしばらく落ち込んだように体調を崩して、一時は命も危ぶまれるのではないかとさえ思えるほど体が衰弱してしまって、もし万一のことでもあったら耕平に顔向けが出きなくなると思ったこと。自分の時間が許す限り耕平の母親のところに顔を出し慰めていたこと。毎週、この公園に来て耕平が戻ってくるのではないかと待ち続けていたこと。そして、最近になって山本自身の中でさえ、半分以上は諦めかけていたことなどを話した。

「そうか……、オレが過去に行ったことで、山本にもずいぶん迷惑をかけてしまったんだな……」

「何を云ってるんだ。耕平、お前らしくもない。いいから、さあ呑め、呑め」

 山本は酒を勧めてから、まじまじと耕平を見つめながら云った。

「それにしても、お前あの頃とぜんぜん変わってないんだな」

「そりゃあ、そうだろう。ここでは確かに二十七年経ってるかも知れないけど、オレのほうじゃ山本と別れてからまだ一年も経ってないんだから、当たり前だろう」

「そうか。それで自分の子供を宿したおふくろさんはどうした。お前は、生まれたばかりの頃の自分を見てきたのか?」

「山本、何云ってるんだよ。そんなこと出きないよ。そんなことをして、いつまでもモタモタしていて、本当にオレが生まれてしまったらどうするんだよ。出生届けやなんかどうするんだよ。第一、あの時代にはまだオレの戸籍は存在しないんだからな。そんなこと出きるわけないだろうが…」

 山本からあまりに無頓着なことを言われて、耕平は少しばかり苛立ちを覚えた。

「しかしだな。さっきお前も云ったじゃないか、『もしオレがこの世に生まれて来なかったら、お前ともこうして話してられなかった』って。もしもだよ。もしも、お前が生まれて来なかったら、今回みたいなややこしい出来事なんかに出逢うこともなかったわけだが、パラレルワールド的な考え方をすれば、Aの世界には現にこうして佐々木耕平は、ここに生きているわけだが、Bの世界では佐々木耕平という人間は、そもそも存在しなかったかも知れない。存在しないから、当然オレはお前に出逢わない。出逢わないから今回のような事件にも出くわさない。どうも、その時間連続体のどこかで、何かしらの〝歪み〟のようなものが生じているんじゃないかと思うんだ。これは、もう鶏が先か卵が先かなどという、生やさしい問題じゃないかも知れんぞ。耕平」

 山本はいつになく真剣な表情で言った。

「ひとりの人間が本人自身の親だなんて、そんなことは絶対にあるはずがないんだ。もう、これは正気の沙汰じゃないぞ。何かが狂っているんだ。おい、耕平。その吉備野博士とかいう人、お前に何か云っていなかったのか。そのことについて…」

「いや、別に何も云ってはなかったが…」

 耕平は吉備野が言ったことについて、何か忘れていることはないかと必死に頭を巡らせていたが、

「オレには、あまり難しすぎてわからないことのほう多かったんだが、ビッグ・バンが起こって、この宇宙ができた時、ほぼ同時期にパラレルワールドも出きたらしいんだけど、七百年後の未来世界においても未だに、パラレルワールドの存在を確認できる手段というか、それを認識できる方法は発見されていないと云うんだ…。そうだ、思い出した。これは吉備野博士の仮説だと云っていたが、オレの人生の中にパラレルワールドに繋がる分岐点のようなものが隠されているんじゃないかって云うんだが、これもまた雲をつかむような話なんで、オレにはやっぱりお手上げ状態だったんだが、お前ならどう思う……」

「云ってることはわかるような気もするんだが、実感としてはどうもあまりピンと来ないというか、これもやはり七百年後の未来から来た科学者の云うことと、現代社会に住む一般人との違いかも知れないなぁ……」

「そうかぁ……」

 ため息交じりにつぶやきながらビールを一口飲むと、耕平はまた黙り込んでしまった。

「まあ、それはそれとして、これからお前どうするんだ。耕平」

「何が…」

「謎の真相についてはわからないとは思うんだが、わからないからと云ってこのまま何もせず、ただ手をこまねいていても事態の進展はないと思うんだが…」

「………。じゃあ、何をやればいいって云うんだよ。オレに…」

「何をすればいいかと云われれば、返答に困るんだが…、例えばだよ。例えば、もう一度過去に戻って、もう少し詳しく調べてみるとか…」

「戻るって云ったって、一体いつの年代に戻るって云うんだ。お前に何か心当たりでもあるのかよ」

「そう云われると困るんだが、うーん…。いつ頃にすればいいのかなぁ。あ、そうだ。オレも一緒についてってやるよ」

「え、お前が一緒に……」

「何だ。不服でもあるのか。第一、お前をひとりにして置いたら、また何を仕出かすかわかったもんじゃないからな。それに、この前みたいに二十七年も待たされたんじゃたまらんよ。ちょっと、ここで待っててくれ。家に帰って用意してくるから」

 そういうと、部屋を出て行こうとする山本に、

「おい、山本。一緒に行って云ったって、お前会社のほうとか、家のことはどうする気なんだよ」

「なあーに、気にすることたぁないさ。終わったら、またこの時間に戻って来れば、それで済むことじゃないか」

 と、言い残すが早いか、山本はそそくさと部屋を出て行ってしまった。それから三十分ほど経ったと思われた頃、耕平の背後で空気か揺らぐのを感じて後ろを振り向くと、

「やあ、こんにちは、佐々木さん。また、やって来てしまいました」

 そこには吉備野が立っていた。

「先生、どうしたんですか。何かわかったんですか。ぼくのことで……」

「いや、特別そういうことではありません」

 耕平が、テーブルの椅子を勧めると、吉備野はゆっくりと腰を下ろす。耕平も窓際から椅子を引き寄せて掛ける。

「あなたと山本徹さんのお話しを拝聴させて頂いていて、ひと言だけご忠告いたしたいと思い、急遽参上した次第です」

「忠告と云われますと…、何か……」

 吉備野が突然やって来たことについて、訪ねようとした時だった。いきなり部屋のドアが開いて、小さなバッグを手に持った山本が駆け込んできた。ハァハァと息をしながら、吉備野に気がつくと無言で頭を下げた。

「何だ、山本ずいぶん早かったじゃないか」

「ほう、あなたが山本徹さんですね。直接お目にかかるのは初めてですね。私は吉備野と申します。どうぞ、お見知りおきのほどを」

 吉備野は椅子から立ち上がると深々と頭を下げた。

「はあ、あなたが吉備野博士ですか…。お話は耕平から伺っております。ハァ、ハァ…」

 よほど急いで戻って来たのだろう。山本は、まだ息を荒げている。

「実はな、山本。吉備野先生はオレたちに何か忠告があって、やって来られたらしいんだ」

「忠告とは、どういうことですかな。吉備野博士」

 山本はやっと息が整ったのか、落ち着いた口調で吉備野に尋ねた。

「実を申し上げますと、失礼ながら私はRTSSを使って、あなた方おふたりのお話しを拝聴させて頂いていたのでいたのですが、あなた方はこれからもう一度過去に遡って、佐々木さんのことを探ろうとしていることを知りました。この前、佐々木さんとお別れしてから、私もあらゆる方法を駆使して、さまざまな方向から調べてみたのですが、解決の糸口になるようなものは何ひとつとして見つけることはできませんでした。ですから、もし行れたとしましても結局のところ、残念ではありますがおふたりの努力は、徒労に終わる可能性のほうが多いと思われますので、ひと言ご忠告を申し上げたいと参上した次第なのです」

「それじゃ。わたしら等が行っても無駄だとおっしゃるのですか。博士」

 と、山本。

「さよう。どうしても回答が見出せない以上、行って見たところで無駄足になるというものですから、止められたほうがよろしいでしょう」

「では、オレたちはとうすればいいんですか。先生」

 耕平も、山本と同じように訊ね返した。

「よろしい。それでは、もう一度私のところへ来て頂けますか」

 吉備野は立ち上がり、ふたりを招き寄せた。

「このように、山本さんも佐々木さんの肩に手を触れてください」

 山本は言われたように耕平の肩に右手を乗せた。吉備野は手にしたコントローラーのスイッチを押すと、三人の姿はたちまち部屋からかき消すように見えなくなっていた。

 ほんの一瞬だった。気がつくとまばゆい光に満ち溢れた場所に立っていた。初めて見る未来社会の吉備野博士の研究所だった。山本は驚きの色を隠せない様子で辺りを見回している。部屋の中央には耕平から聞かされたタイムマシンのマザーシステムが設置され、奥のほうにはこれも耕平から聞いた巨大なスクリーンが置かれていた。あれが耕平の言っていた三次元映像を映し出す立体モニターなのだろう。周りでは吉備野の孫娘らしい若い女性と、助手と思われる数人の男たちがマシンの操作に携わっていた。

「さあ、おふたりともこちらにお座りください」

 吉備野に案内され、耕平と山本はソファーに腰を下ろした。助手のひとりを呼ぶと吉備野は何事か指示を出した。日本語には変わりなかったが、普段山本たちが使っているそれとは違う、微妙な感じを受ける言語ではあった。自分たちがいた二十一世紀から七百年も経てば、言語文化も当然変わるのだろう。もし自分が七百年ほど遡って、鎌倉時代や安土桃山時代に行ったとしたら、現代日本語がうまく通じるのだろうかという、疑問が山本の内部で渦巻いていた。当時の言語は、その地方の言方が主流を占めていたのと、武家言葉と一般庶民の言葉では著しく差異があったからである。

「先生、あれから何か新しいことは掴めないのですか」

 耕平は堪らなくなって吉備野に訊きただした。

「それが残念ですが、まったくわからないのです。私としてもいまのところお手上げ状態なのです。誠にもって面目次第もありません」

「もし、あの時に公園にも行かず、このタイムマシンを拾わなかったらどうなったのでしょうか」

 耕平は、自分が抱いている疑問を素直に吉備野に向けてみた。

「それは何とも云えませんね。私があそこに置いたタイムマシンをあなたが拾われたという事実は、すでに確定された歴史の一部なのですから、あるいはパラレルワールドに於いては、あの日公園にも出かけずタイムマシンも拾わなかった佐々木さんがいたとしても、それはまったく次元の違う世界の話なのですから、あくまでもAの世界とBの世界ではまるっきり事情が異なるわけなのです。従って、もともとAの世界に存在している佐々木さんとBの世界の佐々木さんとでは、ご本人が遭遇される事象は微妙にズレが生じている可能性があると推測されます」

「それでは私が以前に考えたように耕平が存在しない世界とか、私が存在しない世界もあり得るということですね」

 横から山本も口を挿さんで来た。

「さようです。ですから、二十八世紀の現在でもパラレルワールドや、次元の違う領域についてはそれを証明する手段は皆無と云ってもいいでしょう」

「では、やはり、ぼくたちが経験してきたことの証明というか、謎を解き明かす方法はないということですね」

「非常に残念です。これから、私の一生を掛けてでも全精力の傾けて研究は続けてまいりますので、何か有力な手掛かりが発見されれば、佐々木さんが何処におられようとも必ずお知らせいたしたいと考えております」

 吉備野は深々と頭を下げて謝意を表した。

「せ、先生、ぼくは何とも思っていませんから、頭を上げてください。本当に…」

「本当です。博士、頭をお上げください」

 山本に言われて、吉備野はようやく上体を起こした。

「先生,それではあまり長居をするとお邪魔になりますので、ぼくたちはこれで帰りたいと思います」

 耕平は、自分でもわからなかったが、なぜか清々しい気分になっていた。

「そうですか。もう帰りますか。いや、本当に面目次第もありません。それでは、こちらからお送りいたしましょう」

 吉備野は助手に命じて転送の準備に取りかかった。

「どうぞ、佐々木さんと山本さん。こちらの方へきてください」

 ふたりが指定された場所へと進んで行き、吉備野がサインを送るとふたりの姿は瞬時にしてその場から見えなくなっていた。


      四


 耕平と山本は、元いた二〇四四年のホテルの部屋に戻っていた。

 ふたりとも椅子に腰を下ろしてもしばらく口を開かなかった。山本は無言で耕平のグラスにビールを注いでやった。それから、またタバコを取り出して一本に火をつけた。タバコの煙がゆっくりと漂っていくのを見つめながら、最初に話し出したのは耕平だった。

「なあ、山本。お前はどう思う」

「何がだ…」

「だって、そうじゃないか。オレがこれから生まれてくるオレの父親なら、ここにいるオレはどうやってこの世に生まれて来たんだって云うんだ。それを考えると、もういまにも気が狂いそうになるんだ。何でもいいから何とか云ってくれ。頼むよ。山本」

 珍しく耕平は取り乱していた。山本にも、充分その気持ちはわかってはいたが、どう言ってやればいいのか見当もつかないでいた。しかし、何か云ってやらなければ、いまにも心が折れそうになっている耕平が哀れだった。同じ年の生まれでありながらも、ふたりの間には二十七年という時間の隔たりがあった。耕平は、まだ二十八歳のままだったが、山本はあと十数年もすれば定年という年齢に達していた。その分、山本はそれなりに社会経験を積んではいたが、こんな場合どのようにして耕平に接してやればいいのかわからないまま、

「なあ、耕平よ。お前もオレも初めての経験でわからないことばかりで、本当はどうすればいいのかさえわからない始末なんだが…」

 そこまで話すと、山本はまたタバコを取り出して火をつけた。

「もう、ここまで来た以上は気持ちを切り替えて、前向きに生きて行くしかないんじゃないのかな…。いまのオレには、それくらいしか云えない…。許せ、耕平」

 無表情のまま山本は、グラスに残っていたビールを飲みほした。それだけ言うのが山本にも精いっぱいだったのだろう。

「オレは、ここに来る前にひとつだけ心に決めたことがあるんだ……」

 いままで黙っていた耕平がぽつりと言った。

「何だ。それは…」

 あまりにも深刻な表情で話し出したので、山本もつい条件反射的に聞き返した。

「今日ここに来て、お前にいままでオレが体験してきたことを報告して、お前に借りてた金を返したら、どこか誰も知らない世界にでも行ってひとりでひっそりと暮らそうかと考えていたんだ……」

「何だって…、どっかに行くったって、いったいどこに行くんだよ。それに、おふくろさんはどうするんた。たったひとりでお前の帰りを待っていたんたぞ。おふくろさんの生活はどうするんだよ」

「いいから、黙って聞いてくれ。山本」

 突然の予想もしていなかった、言葉に驚いたように聞き返す山本を制して、耕平はさらに続けた。

「こっちから向こうに行く前に、図書館に行って一九九〇年前後の前後の新聞記事のコピーを取って持って行ったのは覚えているよな」

「ああ…」

「おふくろ…、いや、亜紀子から子供が出来たって聞かされた時は、オレにはまさに青天の霹靂の思いだったんだ。いくら、こっちも酔っていたからとは云っても、たった一度関係しただけであんなに簡単に妊娠してしまうなんて考えてもいなかったし、オレは人間として一番恥ずべき行為をしてしまったんだぞ。おふくろに…」

 そこで耕平は深くため息をついた。

「それからのオレには、一日一日が地獄のように感じられたんだ。このままここにいたら大変なことになる。これから生まれてくる子供と彼女が当分のあいだ暮らして行けるくらいの金を何とかしようと、押し入れに仕舞って置いた新聞のコピーを引っ張り出して、何か金を得るような方法がないかと呼んでいるうちに、「第十四回エリザベス女王杯で大穴」という記事を見つけたんだ。その配当オッズを見たら、四三〇・六倍だった。オレは、『これだ!』と、思ったんだ。

 日付を見たら、十一月十三日になっていた。と、いうことは、レースがあったのは前日の十二日。まだ四ヶ月あるから、それまで待とうかとも思ったんだが、その時のオレはもう居ても立ってもいられなくなって、億単位の大金が入るくらいのバッグを買い込んでレース当日へと飛んでいた。

 お前から借りた金もまだ十四万かそれぐらい残ってたから、それを全部注ぎ込んで、結局二億五千数百万の大金を得ることに成功したんだ。なにしろ結果が判っている勝負だからな。損するわけがないんだ。それで、二億五千万と手紙を添えて亜紀子のところに置いてきた。そして、その残りがいまお前に渡した五百万なんだよ…。そんなわけだから、別に心配するような金じゃないし、取っといてくれ。長いこと借りてた、オレの気持ちなんだから…」

 一気に話し終えた耕平は、その後ひと言だけつぶやくように言った。

「でも、これって確定された歴史だから、後々に悪影響なんて及ぼないよな……」

「まあ、それはないと思うけど、それにしてもさっきも云ったように、オレが貸したのは二十万くらいのものだから、こんなに貰えないぞ」

 山本は執拗に食い下がって、耕平から受け取った金を返そうした。

「いいから取っとけって、オレにはもう必要のない金なんだから…」

 耕平は頑として受け取ろうとはしないでいる。山本は何とか耕平を引き止めようと必死に食い下がった。

「なあ、耕平よ。もう一度考え直してくれ。どこかに行くって云ったって一体どこの時代に行くつもりでいるんだ。お前は…」

 山本の問いかけに、耕平はどこか遠くのほうを見つめるような顔で答えた。

「わからない……。ただ、自分でもわからないくらい遠い世界に行って、誰も知らない山の奥にでも住んで、ひとりで静かに暮らそうかと思っている…。いくら山本に止められても変わらないよ。もう、心に決めっちまったんだからな…」

「お前がどこに行こうとしているかは知らないけど、そんな誰も知らない世界ったって、お前に何か当てでもあるのか。それにしたって、そんなところじゃあ、食料とかなんかはどうするつもりなんだよ。それに山奥に行くって云ってたけど、本当にひとりでなんてやっていけると思っているのか…。大体お前は昔から考えが甘いんだよ。だから、今回みたいなひどい目に遭うんだぞ。やめといたほうがいいぞ。ホント悪いことは云わないから、止めとけ、止めとけ……」

 山本は耕平が一度言いだしたら、誰のいうことも聴かないことは昔から知ってはいても、それでも二十七年前に味わったような思いは二度としたくないという気持ちのほうが先に立って、耕平をなんとか引き留めようと、山本を必死にさせていたことは明らかだった。

「ありがとう、山本…。お前の気持ちはものすごく嬉しいよ。多分お前にはずいぶん心配かけたんだろうな…、二十七年間も……」

 山本は何も云わなかったが、耕平は独白するように続ける。

「お前は知らないと思うんだが、タイムマシンのここのリセットボタンを押すと、パネルの表示窓の数値がすべてハイフンマークになるんだ。西暦一年と表示すると〇〇〇一という数字が出るんだが、それ以上マイナス方向にしようとすると、すべての計器類の数値は全部ハイフンマークになってしまうんだ…。つまり、このタイムマシンは紀元一年までしか設定されていないのか、便宜上そうしたのかは吉備野先生に訊いてみないことにはわからないけれども、とにかくハイフンマークにすると紀元前の世界に行けるのではないかと考えたんだ」

 こいつはやっぱり、違う次元の世界に行こうとしているんだ。と、いう、思いをひしひしと感じながら、山本は耕平に向かってこう言った。

「耕平、お前の気持ちはよくわかったよ。しかしだなぁ、どうして、ぜんぜん知らない世界になんて行こうとしたんだい。なぜ、元いた二〇一八年に戻る気にならなかったんだ」

「何を云ってるんだよ。そんなこと、出きるわけないじゃないか。第一、オレにおふくろとどんな顔をして逢えって云うんだ。俺はな……、オレは犬や猫にも劣るような恥ずべき行為を犯してしまったんだぞ。それなのに、どうして平気な顔で逢えるっ云うんだ…。そんなこと、出来るはずないじゃないか。そんな恥っ晒しなこと…」

「それじゃ、せめてひと目だけでも顔を見せて行ってくれ。それも出来ないのか。耕平よ……」

 山本は、なおも食いさがる。

「だから、もう逢わないほうがいいんだよ。こっちが惨めになるだけなんだから、何回云わせるんだ。山本」

 耕平も最後のほうは、やや語気を強めて言い放った。

「ああ、そうかい、そうかい。なんて奴なんだ。お前ってヤツは、ええ、耕平よ。たとえ犬畜生だってなぁ、もう少し深い情けってえものを持ってると思うぞ。それを何だ。それが、たったひとりの母親に対して云う言葉なのか耕平。お前ってヤツは、本当に見下げ果てた奴だな。オレは、もう知らんぞ。遠いところでも山の中でも、世界の果てでも好きなところに、どこへでも行っちまえばいいんだ。馬鹿野郎…」

 山本徹も、また売り言葉に買い言葉で声を荒げて怒鳴り散らした。

「ああ、そうするよ。あとはお前とも、もう二度と逢えないかも知れないから、山本も体に気をつけてな……」

 耕平は静かに立ち上がると部屋を出て行った。山本も続いて部屋を出ると、耕平はすでに廊下を曲がろうとしていた。その後ろ姿を見送りながら、

「バカヤロウ…」

 山本は、ひと言だけつぶやくように言うと拳を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。

 耕平は、また公園にやって来ていた。すべてはここから始まったことなのだから、締め括りもここで終わらせなくてはならないと思ったからだった。いろんな時代のいろんな時間帯を行き来したが、おそらくはこれが最後の旅になるだろうと耕平は思った。

 耕平はいささかの食料が詰まったバッグを背負い、かつて山本から貰った自転車に学生時代に使っていた。競技用のアーキュリーセットの入ったケースを積んでいた。何故そんな物を持ってきたかと言えば、どれくらい前の時代に着くのかは知らないが、紀元前の世界に行くのだから、用心に越したことはないと持ってきたのだった。

 この時代とも、これでお別れかと思うと、耕平の胸にも熱い想いが込み上げて来るのを、どうしても禁じ得なかった。周りを見回すといつもと同じように、いろんな人たちが犬の散歩やら当てもなく散策する姿が見てとれた。

 耕平は、しばらくそれらの人々や周りの街並みなどを見ていたが、気を取りなおすように自転車にまたがるとゆっくりと走り出した。

 走りながらタイムマシンのメモリーの数値をすべてハイフンに戻した。公園内を一周するようにして、またブランコの辺りまで辿りついた時マシンのスタートボタンを押した。すると、耕平の乗った自転車は音もなく、たちまち霞のように消え失せていた。辺りを散策している人々は、耕平の姿が消えたことに誰ひとりとして気づく者はいなかった


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