失われるもの

『樹陰の浮島イソラ』に繋がる吊り橋の前には、兵士たちと数人の村人と思しき男たちがいた。どうやら男たちは橋を落とそうと実力行使に出ようとしたが、兵士たちに阻止され、更にグラベルたちのことを聞き、もはや所在無さげにただ突っ立っていることしかできないようだった。

 兵士たちは、再び魔物討伐に来たという飛龍の口実に、グラベルたちが先に渡っていたこともあってか、すんなり通してくれた。

 吊り橋を渡り、クリアスたちはまず『創造の花リグレッタ』が発見された古代遺跡へと向かった。すでに日はほとんど沈み、森は闇に沈もうとしていた。夜がもたらす根源的な恐怖の中、クリアスは『闇夜に灯る希望ヴェル・フィンクゥル』の光を灯しながら、飛龍とアインに寄り添い、森の中を歩く。

 ほどなく不思議な流線形の形をした塔が見えてきた。昼間見るのとは違って、その奇妙な造形は異界を彷彿とさせる不気味さを放っていた。

 その塔へ向かって躊躇なく進む飛龍とアイン。クリアスは光の玉を先行させながら、二人に挟まれる形で、恐るおそる足を進める。その時、飛龍が駆け出した。

「シールズさん!」

 更なる闇を内包する塔の入り口。そこから巨躯を思わせる大きな足が見えている。クリアスはその姿を鮮明に照らすべく、明かりとともに飛龍を追い掛ける。

「来るな! クリアス!」

「うっ!」

 飛龍の制止よりも早く、クリアスは明かりに浮かび上がった光景から眼を逸らした。

 大地に仰向けに倒れたその上半身には、殺された兵士たちの喉笛にあったのと同じような抉られた傷が数か所あった。さらに腹には破裂したような大きな穴が開き、内臓が半ばはみ出ていた。その凄惨な状態はどうみても生の可能性を感じさせなかった。しかし、

「まだ生きている……」

 飛龍の口から漏れた呟きに、クリアスの中で恐怖よりも使命感が大きく膨れ上がる。

「アルジェル君を呼んで来れない!? それまでは何とか応急処置で……」

「いや、無理だ。とてもそれまで持たない」

「そんな……」

 だが、その無念さを嚙み締める声が聞こえたのか、シールズの虚ろな目が微かに開く。

「何か言おうとしているぞ」

 アインが膝を折り、飛龍が耳元に顔を近づける。

「何ですか、シールズさん」

 初めて聞く、そして、最後になるであろう。シールズの肉声が三人の鼓膜を重く揺らす。

「……うら……ぎ……った」

「裏切った……?」

 飛龍が切れ切れの声を何とか聴きとる。そして、飛龍がさらに耳を口元に近づけた次の瞬間、三人が聞き取れるほどの明瞭な言葉がその口から出た。

「あいつは……悪魔だ」

 直後、その瞳から命の輝きが失われる。死がすべての音を連れ去ったかのように、辺りに静寂が訪れる。と、そこで飛龍がシールズの左手に目を向けた。

「これは……」

 その手には小さな袋が握られていた。飛龍は敬意をもってシールズの指を開き、その袋を手に取る。中を確認し、僅かに眉を顰めると、その両手を胸に乗せ、立ち上がった。

「グラベルさんがいない……」

 飛龍が油断なく辺りを見回す。傷の深さや血の痕跡から、シールズはこの場で何者かに襲われたに違いない。では相棒のグラベルは何処へ行ったのか。シールズを殺した者から一人だけ逃げ延びて森の奥に行ったのか。それともシールズの言う悪魔とは……。

 クリアスが死者の残した謎に意識を奪われていると、横で膝をついていたアインが急に立ち上がった。

「何か臭う……」

 塔を出るアインを追いかけ、外に出ると、クリアスの鼻腔を灰の臭いが刺激した。

「これは……火事!?」

 風向きは東。となると火の気配は西から――あのセリアが守る不思議な森の方から漂ってくる。すると天を仰いでいた三人の頭上を影が横切った。

「あれは……セリア!?」

 飛龍が走り出す。

「待て、飛龍! 一人で行動するな!」

 しかし、アインの声が響いたときには、飛龍の姿はすでに森の奥へと消えていた。アインが大きく舌打ちし、「追うぞ」とクリアスの手を掴み、走り出す。

 自身の能力を超えた速度が感覚を狂わせる。が、それでもクリアスは何とか付いていくことができた。それはアインがそう加減してくれているからだった。

 手を掴んで走るのは決してはぐれないようにするため。この森に潜む得体の知れない存在から自分を守るため。その思いに応えるべく、限界を打ち破るようにクリアスは走り続ける。

 信じる仲間と真実を追い求めて――クリアスは月光が照らす夜の森を一心不乱に駆け続けた……。


 二つの森の境界線を越え、セリアが守る不思議な森に踏み込むと、煙が目に見える形で漂い出した。そこから更に奥に進んだところで、アインとクリアスは立ち止まった。

 壁が行く手を塞ぐ。まさしくそれは赤い壁だった。燃え盛る炎は、ここ数日前から続く季節風のためか、見る間に勢いを増して森を呑み込み、迫ってくる。

 その迫り来る赤い壁の前で、黒い背中と白い翼が重なっていた。

「森が……私たちの森が……」

「セリア! ここは危ない。早く逃げるんだ!」

 飛龍が炎から引き離そうとその腕を引いていた。しかし、二人の位置は動かない。セリアは迫りくる炎を前にしても、退こうとはせず、頑なにこの場に留まろうとしていた。

「駄目よ。私はここを守らなければならない。でないと私は……」

「もう、無理だ。僕らにはどうにもできない」

「無理じゃない。放して!」

 激しい動きで飛龍の手が振り解かれる。そして、その顔に突如浮かんだ激しい拒絶。

 初めて見るその表情に、飛龍は手を振りほどかれた体勢のまま絶句する。セリアも自身の声に驚いたかのように動きを止めた。が、次の瞬間には、反転して翼を広げる。

「よせ!」

 飛龍が飛び立とうとするセリアの背中に覆い被さり、それを抑える。しかし、白い翼はなおも激しく羽ばたき続ける。

 セリアは人を抱えてはその場から飛び立てない。そう言っていた。しかも飛龍がしがみつき、翼の動きは制限されている。それにもかかわらず、二人の体は宙に浮きだした。強烈な意志がセリアに限界を超える力を与えていた。

 大地から引き離されつつあることを感じた飛龍は、苦悩の表情で目の前の背に囁く。

「すまない、セリア」

 そして、飛龍は叫んだ。

「『神威空間』!」

 紅色の三角錐が現れ、二人を囲う。上空へ飛ぼうとしたセリアはその障壁にぶつかり、飛龍もろとも大地へと落ちた。そして何が起きたのか、セリアが理解する間もなく――

「――っ!!」

 飛龍の腕がその細い首を締め上げる。セリアは苦しさに藻掻くが、数秒ののち、くたりと脱力し、飛龍の腕の中に倒れた。

「ちょ、ちょっと! そんなことして大丈夫なの!?」

「気絶させただけだよ」

 飛龍は短く言うと、気を失ったセリアを肩に担ぎ、森を振り返る。

「急ごう。ここもすぐに火に包まれる」

 折しもさらに強くなった風で、炎は見る間に近くまで迫っていた。

 飛龍がセリアを担いで走り出すと、クリアスも再びアインに手を惹かれ、走り出す。今度は、走りながらも精神を集中し、『闇夜に灯る希望ヴェル・フィンクゥル』でく先を照らす。

 森の夜道は無限回廊のごとく同じ景色に見えたが、魔力の維持に集中していたためか、帰途の時間は実際よりも短く感じられた。しかし、村と浮島イソラを繋ぐ吊り橋を渡り終えた頃には、月は高く登り、多くの星々が瞬いていた。

 いつもなら静けさに包まれるグランザルムの夜。だが、今宵は、空は赤く染まり、木々の爆ぜる音が絶えず鼓膜を刺激する。

 全ての終焉を示すかのような凄まじくもどこか虚無的なその光景を、クリアスは魅入られるようにいつまでも眺めていた……。


 炎は台地の上の全てを焼きつくし、夜明け前に鎮火した。一時は村にまで火の手が及ぶのではないかと危惧されたが、明け方にかけて風が弱まり、飛び火することは避けられた。だが、新たな台地を繋いでいた吊り橋と霊妙な古代遺跡、そして神秘の森は永遠に失われた。

 あれから異変を察知し、村人とともに駆けつけたハミルトンに、クリアスたちはその場で話しうる限りの事情を説明してから宿へと戻っていた。それから夜が明けた今日、再び集会所に赴くことになっていた。

「体の調子はどう?」

 クリアスは同室にいるセリアに声をかける。

 吊り橋を渡り終えたところですぐ目を覚ましたセリアは、眼前に広がる燃え行く森をただ茫然と見つめていた。その後、宿のクリアスの部屋に泊めることにしたが、その時からセリアは一切口を開こうとしなかった。それにおそらく一睡もしていない。

 沈黙のまま、寝台ベッドの上で膝を立てて座り込む姿に気を揉みながら、クリアスは腰を上げた。

「私、ちょっと行かなきゃならないところがあるの。女将さんのご厚意でしばらくはここに泊まっていいことになってるけど、もし、あなたが谷底の住まいに戻るというならそうしてくれてもいいわ。でも、行く前に出来れば飛龍には一言声をかけてあげて欲しいの」

 しかし、反応はない。クリアスは変化のないその顔を気遣わしげに見つめたあと、部屋を出ようとする。が――、

「どこへ行くの?」

 不意に背にかけられた声にクリアスは振り向く。それまでとは打って変わって、はっきりと意志が感じられる瞳が向けられていた。

「王国軍のところよ。この村で起きている事件と昨日の浮島イソラの火災について、ハミルトンさんに話すことになっているの」

「あの森に火を放ったのが誰か、あなたは知っているの?」

 クリアスは喉の奥で小さく唸った。

 セリアがそう考えることは何ら不思議なことではなかった。火の手が上がった時、雷など火災の発端となる事象は起きていない。ならば昨夜の火は人為的なものと考えるのが妥当だった。

「いいえ。でも飛龍は何か分かってるみたい。彼は真実を見抜く眼を持っているから」

 その飛龍は先に集会所に向かっている。何でもハミルトンと話す前に確認したいことがあるとのことだった。

 するとセリアはすっと立ち上がり、重さを感じさせない動作で寝台から降りる。

「私も行く」

「行くって……王国軍の人たちがいるところなのよ?」

「それでもいい」

「話なら帰ってきたときにしてあげるわ。王国軍はあなたを捕まえようとしてるんだから、わざわざそんなところへ……」

「私は今すぐ知りたい」

 セリアはクリアスに歩み寄り、正面から見つめる。たとえ表に見えなくともその意思が硬いことは明らかだった。クリアスはそれをしかと受け止めると、こちらも真剣な瞳で頷いた。

「わかったわ。一緒に行こう。ハミルトンさんにはあなたを許してもらうよう私から頼んでみる。それが聞き入れてもらえないようなら、何とかあなたが逃げられるようにするから」

 セリアが起居する木の住処は遥か渓谷の底にある。そこなら王国軍は手出しできない。つまり、拘束されない限り、セリアが逃げ延びるのはそんなに難しいことではない。問題は、そこへ行く時の姿――セリアが有翼人フェザーフォルクであることを如何に見られないようにするか。

 そのための算段を頭の中で組み立てていたクリアスに、セリアは真顔のまま首を傾げる。

「……あなたも不思議な人ね」

「何が?」

「そんなことをしたら、あなたが責められる。なぜあなたはそんなことするの?」

 セリアの言う通り、理屈で考えればこれは何の見返りもなく、それどころか罪に問われるかもしれない行為。しかし、クリアスの口からは迷いなき答えが自然と口を衝いて出た。

「そうしたいからよ。ただ、それだけ」

 クリアスは晴れやかに笑い、先を示すように手を前に出す。

「行こう」

 誘われるがままに部屋を出るセリア。その表情は心なしか穏やかに緩んだように見えた。

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