咲いて散って、咲いて。

斗話

咲いて散って、咲いて。

 何でそんな美人がお前なんかの彼女なんだよ。


 言われ慣れた言葉だった。彼女の写真を観て盛り上がる小劇場の控え室で、「何でですかねー?」とおどけて見せるが、そう言われる度に思ってしまう。本当に何でなんだろう。


 佐伯幸太郎は売れないピン芸人だ。三十二歳、身長一六五センチ、魅力的な容姿をしているわけでもない。特徴的なアフロ頭も、学生時代に面白半分でそうしてからやめ時を失ってるような状態だ。誇れることといえば、美人な彼女がいること、それくらいだった。


「じゃあ、お先に失礼します」


 年下の先輩芸人に挨拶しながら、楽屋を後にする。


 小さな劇場だ、控え室まで観客の笑い声が聞こえてくる。まるで建物全体が揺れているのではと思うような、大きな笑い声が響いてくる。舞台に立っているのは芸歴四年目の新人コンビ。圧倒的な才能で、多くの先輩芸人を差し置いて今日のトリを務めている。また、建物が揺れた。


 ――もう潮時かな。


 と、毎回思う。毎回思って、毎回何も決断出来ずに次の日がやってくる。





「ただいま〜」


 家賃六万の木造アパートの一階。そこが僕と彼女の家だ。建て付けの悪いドアを開けると、カレーの良い匂いがふわりと鼻腔を抜けた。


「あれ? こうちゃん今日飲み会じゃないの!?」


 キッチンに立っていた彼女の瞳がキッと細くなる。


 彼女の名前は一条瞳。フリーのイラストライターをしており、稼ぎは幸太郎の倍以上はある。ハーフバンツから覗く細い脚、引き締まった腹部に、無駄な肉が一切ないフェイスラインを包むブロンド色のショートヘア。幸太郎の主観ではなく、瞳は完璧な美人だ。欠点があるとすれば――


「連絡くらいよこしなさいよ、この貧乏芸人! そういう当たり前のことができないからいつまでも三流なのよ」


 言葉に心臓を貫くほど鋭利な棘があること。


 ではなく。


「どうせご飯も食べて無いんでしょ? カレー作りすぎたから、特別に食べさせてあげる。私が少食だったことに感謝しなさい!」


 本当は二人分作ってくれていたことを隠してしまう強がり。


 でもなく。


「ほんっと、私がいなきゃダメなんだから」


 ――僕なんかといつまでも交際していることだ。




 転機とは徐々に訪れるものである。


 深夜枠の短いネタ番組で、瞳に制作してもらったフリップのクオリティが高すぎるとSNSで話題になったのがその始まりだった。


「ほらやっぱり、私が作った方がよかったでしょ?」

「……うん」


 肉じゃがをつまみながら、曖昧に返事をする。


「ほんっと、私がいなきゃダメなんだから」


 実際、話題になったことでいくつかの番組出演も決まっていたし、劇場の出番も少しずつ期待値の高まる後半になっていった。けれど、その評価の源泉が、瞳のおかげだということが気に食わなかった。


「最近やってないけど、タイムマシンのネタも小道具作り直したらウケると思うな。途中のタイムマシンが壊れちゃうとことかさ、もっと派手に壊れるようにしてさ!」

「うん」

「あ、言っとくけど今月の納品少ないから手伝ってあげるだけだからね!」

「ありがとう」


 瞳の意見はいつも正しかった。

 その後初めて出演したゴールデンタイムのネタ番組で、タイムマシンのネタが幸太郎の人気に火をつけることになった。


「幸太郎さん、大人気じゃないっすか。最高の彼女さんがいてよかったすね」


 数ヶ月前まで劇場のトリを務めていた若手コンビが、ネタを終えて袖にハケてくると真顔でそう言った。完全に嫌味だった。一人じゃ何もできないくせに。そう言いたいのだ。


『続いては、今最もアツいピン芸人……』


 大袈裟な紹介文に怯みながらも、幸太郎は勢いよく飛び出した。その日の夜、海外に短期滞在するバラエティ番組への出演が決まった。




 三ヶ月。中南米でのロケはあっという間だった。現地の人と交流しながら、いわゆるゲテモノと言われる料理を食べたり、伝統的な祭りへの参加したり、SNSと連動させたVlogを撮ったりと、休日の方が多かったこれまでの生活が嘘のようだった。過酷な現場も数多くあったが、瞳の制作物を使ったネタではなく、幸太郎自身がコンテンツとして電波に乗っている。その事実が嬉しかった。


 国外といえど、瞳とはSNSで連絡を取り合っていたし、「オンエア見たけど全然面白くない」だの、「反省できるように録画しておいた」だの、いつもの小言も電話越しに聞いていた。

 だから、三ヶ月ぶりに帰ってきた家に瞳がいない意味が分からなかった。


『こうちゃんは私がいなくても大丈夫』


 まるで最初からそうだったかのような静寂に包まれた部屋で、幸太郎は置き手紙に書かれた一文を眺めた。




 瞳は、テレビの画面に映る幸太郎をぼうっと眺めていた。


 国外ロケが決まった時、嬉しかった反面、そのままどこか遠くへ言ってしまうのではないかという不安が瞳を襲った。「泣きべそかいて電話してこないでよ」と言って送り出したのにも関わらず、画面越しの幸太郎を見ると、涙がこぼれそうになる。


 何で売れない芸人なんかと付き合ってるの?


 言われ慣れた言葉だ。そう言われる度に瞳は同じセリフを吐いた。


「私がいなきゃダメだから」


 家事もできなければ、生活習慣もめちゃくちゃ。ゴミ出しの一つもろくにできないくせに、小道具の材料だからと、段ボールやら絵の具やらは大量に持って帰ってくる。そんな彼が腹立たしくて、愛おしかった。


 着信音が鳴る。母からだ。


「もしもし」

『もしもし。お見合いの話、スケジュール空けてるわよね? その確認の電話です』


 母はいつも本題から喋り始める。瞳はそんな母が苦手だった。


「分かってます」

『瞳は幸せにならなくちゃいけないんだからね?』


 これも言われ慣れた言葉だ。


 瞳の両親はどちらも医者である。三人兄妹の、唯一の女の子である瞳は、至極当然に医者の家系の男性と婚約するものだと両親は考えていた。一条家の地位を確固たるものにするには、勢力の大きい家系の男性と瞳が婚約し、一条家の実質的な傘下に組み込むのが手っ取り早いのだ。瞳の幸せなど、端から願われていない。


「分かってるから」


 少しだけ反抗の気持ちを込め、語気を強めてみるものの、母は「なら良かった」とそそくさと電話を切ってしまった。


 勿論、両親は幸太郎と、売れない芸人と付き合っていることなど知らない。完璧を求められ、成功者と呼ばれるレールの上をただ受動的に歩んできた瞳が、無計画でだらしのない、そして優しすぎる人間に心を惹かれていることなど、知らない。


再び着信音が鳴る。次は幸太郎からだった。


「もしもし」

『あ、もしもし? オンエア見てくれた?』


 自慢げな顔をしているのが電話越しでも分かった。


「見たけど全然面白くない」


 いつもの癖でついつい棘のある言葉が先に出てきてしまう。


「反省できるように録画しておいたから」

『ありがとうございます』


 幸太郎は何だか嬉しそうだった。


「ほんっと……」


 そこまで言いかけて言葉に詰まった。私がいなくても、彼は大丈夫なのかもしれない。これからもっと売れて、レギュラー番組を持って、芸人として自立していく姿を想像する。勿論それは喜ばしい事だ、けれど、それは他方で私の事が必要じゃなくなる事を意味している。


「あのさ」

『はい』

「私がいなくても大丈夫?」


――いや、瞳がいなきゃ全然ダメだよ。


 その言葉を期待していた。必要とされたかった。けれど、返ってきた言葉は、瞳が一番聞きたくない言葉だった。


『案外、大丈夫みたい。僕、一人でもうまいことやってるよ』


 無意識に涙が頬を伝っていた。


 そのまま通話を切り、電波が悪いのかもと嘘のメッセージを送った。

 幸太郎の出番が終わったバラエティ番組が嫌にうるさい。


 その日の夜、瞳は荷物をまとめ始めた。




 隅田川沿いの桜を眺めながら、瞳は三本目の缶ビールを開けた。


 今日は幸太郎が帰国して来る日だった。今頃彼はどんな顔をしているのだろう。もぬけの殻になった家であたふたしているだろうか。どうせならその姿を見ておけば良かったと後悔する。


(私って性格悪いなぁ……)


 ぬるい缶ビールを一口飲むと、桜の下に設置された照明が、ポツポツと灯り始めた。期間限定で開催される、桜のライトアップである。初めこそ、その美しさに感動していたのに、いつからだろう、当たり前の景色になってしまっている。


 桜は不憫だ。ずっとそこにいるのに、春になって花をつけた時にだけ盛大にもてはやされ、綺麗だと言われる。ピンク色の花をつけていなくても、桜の木は桜の木なのに。


 時刻は十九時。一時間後には、お見合いに行かなければならない。

道ゆくカップルが手を繋いで歩いている。高校生くらいだろうか、男の子も女の子も照れ臭そうだった。目頭が熱くなってくる。手を離したのは私の方なのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。私は本当は。


「瞳!」


 振り返ると、そこにいたのは幸太郎だった。ぜぇぜぇと肩で息をしながら、今にも泣き出しそうな顔をしている。周りの人は何事かと眉をひそめたが、どうやら彼の視界には映っていないようだった。


「……何で場所分かったの」

「瞳の絵、桜とか川とか書く時は隅田川の景色が多いから、もしかしたらと思って……」

「馬鹿じゃないの」


 そんな軽薄な理由で探しにくるなんて、本当に馬鹿だ。


 ――なんで急に出ていったの?

 ――あなたに私が必要無くなったから。

 ――そっか。


 頭の中でそんな会話を想像した。気弱で優しい幸太郎は、きっと怒ったりせず、理由を求めてくるはずだ。そして、勝手に納得して、トボトボと帰るんだ、。


 それでいいんだ。一人で生きていけるようになった幸太郎にとって、私が邪魔な存在になってしまうくらいなら。


 幸太郎の唇が動いた。


 瞳が人生で聞いたどんな言葉より、その言葉ははっきりと聞こえた。


「結婚しよう」


 桜の花びらが風に吹かれて舞うように、瞳の両頬を涙が伝う。


 こんな時、どんな表情をすればいいんだろう。どんな言葉を返せばいいんだろう。


 少し間が空いて、「ダメかな?」と、幸太郎が照れ臭そうに笑う。


 自分でも不思議なくらい、頬が緩んでいくのが分かった。


「遅いよ、ばか」


 瞳はそう言い、幸太郎を強く抱きしめた。


 例え景色が変わっていっても、花が咲かなくても、そこにあるものは変わらない。夜風に運ばれた桜の花びらが、優しく二人を包んでいった。

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咲いて散って、咲いて。 斗話 @towa_tokoshie

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