甘カレ ~モテ男と平凡真面目女子のやんごとなき部署内恋愛~ 塩カノスピンオフ

宇月朋花

恋人未満同居編

第1話 とびきりの変化は、危険

「さっちゃーん、こっち承認印回すぶんでーすっ」


目にも鮮やかなパステルカラーの、フリルがたっぷりついたスカートと、猫耳の黒のパーカーに身を包んだ間宮が申請書類の束を持ち上げる。


本日も無機質なパソコンと地味な色合いのスーツで埋め尽くされたフロアに咲いた大輪の花のようだ。


10本すべての爪の色が微妙に違う彼女のこだわりが詰まったネイルがキラキラと光った。


ショップ店員のような彼女が凄腕SEだなんて、最初は信じられなかった。


働き始めて3か月。


仕事の早さと正確さ、タイピングの速さを間近で見て来た祥香は、間宮の凄さを実感している。


さっちゃんと呼ばれる事には今だ多少のくすぐったさを覚えるけれど。


「了解です、こちらで引き受けます。そろそろ社内便の締め時間でーす。追加はありませんかー?」


立ち上がってフロアに向かって声を掛ける。


キーボードを叩く音が響く静かなフロアに、控えめな返事が返って来る。


これも通常スタイルだ。


「今井さん、悪いけどこっちの書類をセキュリティ室行きに追加で」


宗方が机の右脇に置いてあったクリアファイルを持ち上げる。


内向的なタイプが多い職場では珍しくコミュニケーションに困らない応対スキルを持っている彼は、次期課長との呼び声高い。


見た目からぶっきらぼうで粗野な印象を受けるが、実は面倒見がよく後輩思いだということもこの3か月でよく理解した。


就業が決まって最初の出勤日に、大人しそうな課長から何か困った事があれば彼に相談するように、と宗方を紹介された時には、フロアには女性社員もいるのになぜ?と思ったが、彼の仕事ぶりと気遣いを知ってからは適材適所だったと納得している。


奇抜な衣装と独特の世界観を持つ間宮は、ムードメーカーではあるけれど、相談役としては不適切だし、服装は至ってまともな橘美青は、人見知りで大人しく、いかにもなSEだ。


祥香が宗方の書類を受け取って社内便の準備をしていると、宗方が引き出しの中から取り出したオーガニッククッキーを持って椅子ごと彼女の隣の席まで移動した。


もう見慣れた風景だ。


「美青」


差し出されたパッケージを見て、美青が目を輝かせた。


斜め前の机で作業をしていた祥香の目にもそれははっきりと見て取れた。


地元情報誌でよく見かけるオーガニックスイーツの専門店のものだ。


素材選びから拘ったという店主お墨付きの詰め合わせクッキーは一番人気だった。


お値段もそこそこするので、ご褒美菓子や、手土産に喜ばれる。


今、宗方が惜しげもなくぽんと差し出したのは、一番人気の詰め合わせセットだった。


む、宗方さん、あの店に行ったの!?


書類を袋詰めする手の動きは止めずに、宗方を凝視する。


身長180センチちょっと、空手と合気道をしていたという身体は鍛え抜かれていて、一見SEには見えない。


普段はそうでもないけれど、眉根を寄せれば、それだけで見ている人間が震えあがりそうな強面。


その彼が、ファンシーな可愛らしい森の隠れ家をイメージしたというあのお店で買い物をするなんて、不似合いすぎる。


通販はせず、店頭販売のみなので、この人気商品を手に入れるには店を訪れるしかない。


愛の力って、本当に偉大だ。


「どれにする?」


尋ねた宗方には返事もせずに、白くて細い指を伸ばした美青が、チョコチップクッキーと、バタークッキーを選んだ。


仕事柄か、昼食を抜く事が多い美青の身体は見ているこちらが不安になりそうな位華奢で細い。


油ものとは一生縁が無さそうな体型だ。


万年貧血気味の彼女を実に甲斐甲斐しく世話する宗方の目じりの垂れ下がりっぷりを目にした時には、砂を吐くかと思った。


珍しく一緒のランチで間宮の質問攻めを受けていた彼女の返事によると、どうやら半同棲状態らしい。


家ではさらに甘やかされていると困り顔で報告する美青の頬が、健康的な薔薇色に染まるのを見せつけられて、見ているこっちが恥ずかしくなったくらいだ。


祥香がこの会社に来た頃に付き合い始めたという二人のイチャイチャぶりは、フロアでは超有名だ。


至る所から注がれる生温いSE達の視線を気にもせず、美青の頬をひと撫でして席に戻る宗方の余裕ぶりが凄い。


工程管理から上がって来たエラー報告の対応で、朝から休む暇なくプログラム画面を睨み付けている彼女の顔色は、本日もあまりよろしくない。


祥香の入社時は、美青の隣の席の間宮が、支店応援で暫く直行直帰を繰り返していた為、会議や他部署サポートで抜ける事が多い自分の代わりに、美青に食事を勧めて欲しいと宗方から頼まれた事もあって、何となく彼女の顔色を確かめるのが日課になっていた。


準備できた社内便専用封筒を抱えて、総務部に向かいながら、ようやく見慣れて来た風景に、ほっと息を吐く。


氷河期のこのご時世、奇跡的に内定を貰えた正社員の事務職を勢いだけで辞めて、翌週に登録した派遣会社ですぐに紹介して貰えたありがたい派遣先。


実家を離れて生活しているので家賃や水道光熱費の支払いを止めるわけにはいかない。


正社員時代も貯蓄する余裕なんて殆どなかったので、通帳を開いては押し寄せる不安と戦う日々だった。


とにかく仕事を見つけなければ、と、何でもやります、どこでも行きます、と訴えて急募の仕事を回して貰った。


前職が営業事務だったので、システム部門の庶務の仕事と聞いた時には不安だったが、慣れない専門用語に戸惑いはするものの、穏やかな職場環境で平和に働けている。


最寄駅から地下鉄で3駅の好条件、且つ、買い物や昼食に事欠かないビル街にあるオフィスなので、物凄く便利だ。


産休交代なので、1年後には去る事になるが、先の不安より、目の前の現実が優先だ。


来月の家賃が払えません、じゃ話にならない。


贅沢は出来ないけれど、胸の奥にずっとあった苦い痛みはずいぶんと薄れた。


あのまま会社に残るよりはずっと良かった。


この道を選んで良かった、間違いなんてない。


終日、目の前で繰り広げられるラブラブカップルの愛の劇場には胸やけがするけれど。


任された仕事は完遂しなければと、生真面目な性格も相まって、事あるごとに美青の様子を伺っていると、彼女の微妙な表情の変化に気付くようになった。


”美青”と呼ばれる度に、目くじらを立てて職場では呼ぶなと怒っていた彼女が、反論を止めたのは祥香が務めるようになってからひと月ほどしてからの事だった。


何となく美青の雰囲気が変わった事と、宗方との距離が近くなったことで、そう、なのかな?とは思っていたけれど、ランチでの間宮からの直球の質問で、確信に変わった。


宗方と一線超えたらしい。


間宮からの明け透けな質問に、真っ赤になりながら拒否権を求める美青を眺めていると、蓋をした過去が蘇って来て、度々胸が痛くなったけれど、平気な顔で間宮を窘めた。


あのままあの会社で何も知らずに働き続けていたら、同じような顔で同じような報告をしていたのだろうか?


ちらりと浮かんだ疑問を振り切って、目の前の現実にしがみ付く。


たらればを言えばきりがない。


恋愛への憧れは、3か月前に木端微塵に消え去った。


暫く、いや、当分は恋愛とは縁遠い所に居たい。


馬鹿みたいにはしゃいで、独りよがりに盛り上がって、勝手に悩んでいた自分を思うと、油性ペンで塗りつぶしたくなる。


馬鹿みたい、馬鹿みたい。


そう思うのに・・・


目の前の美青は、宗方が置いていったクッキーを頬張りながら目を細めている。


全身で愛されるとこうも変わるのかと驚かされる位、みるみるうちに美青は丸くなった。


あたしの恋が、ホンモノじゃなかったから傷ついただけだ。


ホンモノだったら、きっとこんな風に幸せに笑えてた。


じゃあ、どうやってホンモノを見分けるの?


何を持ってホンモノだって決めればいいの?


自分の物差しすら信用ならなくなってしまった今の祥香には、恋愛自体が重たくて辛い。


宗方の腕に簡単に抱き上げられてしまう華奢な身体は、愛情で埋め尽くされていて、美青は出会った頃より俯くことが少なくなった。


宗方の餌付けの効果が出て来たのか、ほんの少しだけふっくらした身体は、祥香から見ても魅力的に変化している。


恋をしている時に出る独特のオーラみたいなものがあるのだ。


そして、それは恋愛をしていない人間ほど気付く。


眩しくて、目を逸らすのに、どうしても惹かれて、また視線を戻してしまう。


愛される人間の持つ強さに、引き付けられずにいられないのだ。







清掃の行き届いた廊下を抜けて、次のフロアに入る。


総務部の入り口横にある大きなキャビネットが、社内便専用ボックスとなっていた。


本社に届いた全部門の荷物を総務部が仕分けして、各部のキャビネットに収納するスタイルだ。


受取用と出荷用のキャビネットがあり、締め切り時間までにキャビネットに収納するのが決まりになっていた。


システム部は、各部からの利用申請書等の書類のほかに、PCや周辺機器の発送もあるので、日によっては台車で往復する事もある。


今日は書類の束だけなので、運動がてら階段を使って移動した。


「お疲れさまです」


向かいから歩いてくる営業部の事務員と会釈を交わす。


「お疲れさまでーす」


身体のラインがはっきりわかるタイトスカートにフリルシャツ、華やかなメイクの茶髪美人がにこりと笑みを浮かべた。


こういう人を前にすると、自分の地味さ加減を嫌というほど思い知らされる。


社内便の出荷を終えて自席に戻ると、珍しく宗方から慌てた様子でミーティングスペースに呼ばれた。


何かミスでもしただろうかと不安になる。


働き始めてからこちら、宗方から個別に呼び出される事なんて一度もなかった。


もしかして、派遣切りとか!?


就業契約の継続書類は先日自宅に届いていたが、事情が変わったのかもしれない。


今月の携帯代と食費・・残りは全額貯金に回して来月の家賃を捻出して、会社都合の退職だから、失業保険はすぐに出た筈。


最悪のパターンを思い描きつつ、パーテーションの奥を伺うと、宗方のほかにもう一人、SEの芹沢が待っていた。


芹沢は愛想も良く穏やかな好青年で、SEの中でも話しやすい部類に入る男性だ。


彼の雰囲気が宗方の強面パワーをいい意味で半減させている。


芹沢の表情が険しくない事にまずほっとして、次に視線を向けた宗方の渋い顔に、消えかけた不安が一気に再燃する。


やっぱりクビ!?


「あ、あのう・・・宗方さん・・なにか」


沈黙が耐えられずに問いかけると、芹沢が宗方の方を見て後ろに押しやった。


「ほら、宗方、お前の顔が怖いから今井さんビビっちゃってるだろ!」


「あ、いや、申し訳ない、少し報告、というか注意事項があって」


「わ、私何かしましたか!?」


「違う違う、今井さんに注意なんか無いって、バタバタの引継ぎだったのに良くやってくれてるって言ってるよ、なあ?」


「ああ、勿論だ」


芹沢の視線を受けて、宗方がはっきり頷いてくれてホッとする。


社員の出向や、プロジェクト稼働期間だけの追加SEの雇用など、人の出入りが多いシステム部の庶務全般は、人事と経理が半分ずつ賄っていたらしい。


その担当社員であった人事部の女性事務員が妊娠し、経理部の担当社員に引継ぎを行っている最中に、経理部の事務員の妊娠も発覚した。


二人同時に産休育休に入るため、その期間だけ派遣で賄おうという事で採用されたのが祥香だったのだ。


人事部の事務員は有休消化ですでに休暇に入っており、経理部の事務員からマンツーマンで引継ぎを受けられたのは10日間。


残りはマニュアルを読みながら手探りで必死に業務をこなしてきたが、それをきちんと見ていて貰えたことが凄く嬉しい。


「今井さんがどうこうっていう話じゃないんだが、実は、来週からもう一人このフロアに人員が増えるんだ」


今動いているプロジェクトは無いので、中途半端な時期の増員だ。


だれかが出向するのでその穴埋めという事だろうかと首を傾げる。


「入れ替え増員とかですか?」


「実は、うちのフロア元からもう一人居たんだよ、SEが。ちょうど、今井さんが入って来る少し前に、名古屋と東北支社のPC入れ替えがあって、SEが不足していたからそいつがサポートで就くことになったんだよ」


「本当はもっと早く戻る予定だったんだけどな、そのまま関東支社の入れ替えも立ち会うことになって、結局この時期に戻ることになったんだ」


「な、なんか忙しい方ですね、承知しました。何か手配するものはありますか?えっと、お席は?」


「ああ、それなら大丈夫、俺の隣の席、今書類とラップトップで埋もれてるけど、そこが奴の席だから」


確かに芹沢の隣の席は、モニターが埋もれる程雑多に物が積まれていた。


物置かと勝手に思っていたら、きちんと人がいたらしい。


「はい、じゃあ、荷物退けて頂いたら、後で軽く掃除しておきます」


「うん、悪いけど、頼みます」


「お話は、以上でしょうか?」


人員が増えるというだけの話なら、べつにこんな場所に呼ぶ必要もないのに、と不審に思った祥香に向かって、宗方が真剣な表情で切り出した。


「本題はこれからだ。今井さん、あの、こういう事言うのは同僚として不本意極まりないんだが」


「はい、なんでしょう」


「戻って来るSEは平良といって、俺たちと同期で、芹沢とよく三人で飲みに行く仲なんだよ。で、そいつが・・その、かなりフレンドリーなタイプで」


「はあ・・」


「ぶっちゃけ言うと、昔から女の子侍らせては同性の反感買ってたようなモテ男なんだ。声掛けてくる女の子は所構わず相手しちゃうような軽い男で、悪い奴じゃないんだけど」


芹沢の言葉に、胸の奥がすっと冷えた。


あり得ない、絶対にあり得ない。


「私その手のタイプの方とは全くご縁がありませんので、のぼせ上がって仕事が手に付かなくなるような事もありませんから、安心して下さい」


「いや、今井さんはそのつもりでも、相手がな・・」


「女子なら誰でもいいような方なんでしょうか?」


自慢じゃないがイケメンと呼ばれる男性は皆自分の前を素通りしていく程度の容姿しか持ち合わせていない。


呆れた気持ちで言い返した祥香に、宗方が返したのは予想外の言葉だった。

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