第2話 透明人間と通う彼女

日暮透ひぐらしとおる、二十三歳。大学卒業後はフリーターとして日々を送っていた。しかしとある日の朝、目覚めると体が透明になっていた』


 何年か経てば体も元に戻り、どこぞの学会に発表できるのではないか。

 そんな可能性に淡い期待を持って日記でもつけようかと思い立ったのも束の間、正確に日付を思い出せず諦めてパソコンを閉じた。

 透明になっておそらくひと月、春も終わりに近づく中で午後の二時頃は暑さのピークだ。

 俺は昨年と変わらず、風量の出ない扇風機と比較的冷たい畳に寝転がることで熱を逃がしながら命を繋ぎとめていた。

 今年はエアコンを買おうと思っていたのだが、その矢先に節約しなければならない理由ができてしまった。

 それ以前にエアコンを買いに行くことができない。業者も呼べない。


「どうするか……」


 楽観視できない大きな問題に対して回っていない頭を、暑さのせいにして放置する。

 ……扇風機の風が直接当たって気持ちが良いなあ。

 しかし、そうやって楽な方に逃げた時ほど間が悪いものは無いのである。


[ピンポーン]


 以前までを平均しても月一回ほどしか鳴らなかったインターホンが俺を呼んだ。

 こういう時は、普段気にしていない神の存在を肯定したくなる。

 ひとまずドアスコープを覗くと、制服姿でニコニコと手を振る少女が見えた。

 若干警戒しつつ、ドアを少しずつ開ける。


「やっほ」

「早く入れ」


 彼女の方も気にしてくれてはいるだろうが、周りに人がいないことを改めて確認してからドアを閉めた。

 振り返って部屋の方を見ると、さっさと部屋に入った彼女は既に座布団を占拠しており、俺はまたしても畳に直接腰を下ろすことになった。

 大きなため息を一つ。


「たまに来て良いとは言ったがな」

「別にいいじゃん。むしろ目の保養になって得っしょ」

「こっちにも都合はあるんだ」

「なんの都合? 仕事も無いのに?」

「…………」

「あ。なんかごめん」


 彼女は出会ったその次の日から下校時に訪れるようになり、二時間ほどダベっては帰っていくという流れを繰り返していた。

 実に今日で五日連続である。幸いにも他のギャルの姿はまだ見えない。しかしその間に座布団君は征服され、もう数日もすれば人数が増えて部屋ごと奪われるのではと戦々恐々としている。


「まあまあ、そーいうのは置いといて……ジャーン! これなんだ?」


 彼女がスクールバッグから取り出したのは十冊程の文庫本。そのタイトルには見覚えがあった。


「全部買ったのか」

「そ、言われてたの全部」


 買う時は金を出すから、と言っていたのだが彼女はサプライズ的な事を考えていたようだ。しかし文庫本十冊となると、並みの高校生が簡単に出せる金額では無い。

 そう考えると一抹の不安が浮かぶ。


「何の金で買ったんだ」

「バイトだけど?」


 とぼけているのか事実なのか、あるいはそれもバイトに含まれているのか、確証が持てずに俺は一つ濁して質問をした。


「どこでバイトしているんだ?」

「え、普通にあの辺の飲食だけど。来んの? あ、ムリか」


 ノーマルな答えが返ってくるが、俺はまだ疑いを捨てきることができずもう一つ濁した質問をする。


「パパはいないな?」

「パパはいるけど?」

「……別のパパのことだ」


 少し言い淀んで、セクハラまがいの言葉を口にすると、お互いの様子を見るように黙ってしまう。

 そのまま何も言われなければ弁解の言葉でも入れようかと思っていたのだが、鼻で笑うような声が先に沈黙を破った。


「バカじゃないの? するわけないし。ていうかそういう本の読みすぎじゃないの?」

「そうかもしれないな。気を悪くしたなら謝る」

「別にいーよ」

「そうか」


 真っ当に稼いだ金と聞いて少し安心した。

 俺は本と一緒に受け取ったレシートに書いてある金額を「次は先に言ってくれ」と念押ししながら渡す。すると彼女は手馴れた手付きでお札を数え出した。


「一枚、二枚……。うん、ピッタリ」

「別にちょろまかしたりしないぞ」

「まあ、一応? 損すんのアタシだし」

「そういう風に思われるのは心外だが、俺は高校生相手にそんなことはしない。労働には適切な対価が必要だ」


 そう言って財布から千円札をさらに一枚取り出す。

 それを押し付けるように机に置くと、彼女は目を瞬かせ、受け取れないと首を横に振る。


「手数料だ」

「むう、わかった。おつかいみたいなモンなのにちゃんとしてんね。さんきゅ」


 笑顔を俺に向け、彼女は厚意を素直に受け取った。

 ここで謙遜せずに受け取るあたりは子どもっぽくて可愛らしい。

 しかし子どもとは思えない部分も、と気持ち目を細めていると、ふと顔を上げた彼女と目が合った。


「何?」

「いや?」


 そしてしばし無言になる。煩悩退散。憲法順守。

 俺はもう一度レシートを眺め、彼女の方に視線を戻す。


「頼んでいないのもあるな」

「あ、バレた? お金返した方がイイ?」

「や、別に構わないが……」


 本とか読むんだな、意外。というのは思うだけに留めておく。


「その人好きなんだ。それだけ持ってなくて、つい」

「そうか……」


 好き、という言葉には何かしらの魔力がある気がする。女子高生の口から直接聞くのであれば尚更だ。

 不覚にもドキっとしてしまった俺とは違い、彼女の方はスマートフォンとにらめっこを始めている。それを見て俺も新刊の一つに手を伸ばす。

 両手を使って高速フリック操作をする姿はそのまんまギャルっぽい。

 アパートの共有ワイファイの接続番号は教えてあるので、ここからはお互いに干渉しない時間だ。

 本を読む合間に時々視線を対面に送ってみる。

 彼女はやはりスマホを握っていて、指を動かすたびに眉間にシワがよったり口元が緩んだりと表情筋がよく働いている。古くなったら俺のあまり使っていない表情筋と交換してやるか。

 と、そんな冗談を頭の中に浮かべつつ、本に目を落とした。

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