【短編】トムとジェリー
仲田日向
Θ
『トムとジェリー』
⇔
わたし達のジョークはかなり趣味が悪い。
なにかをひどく揶揄したり、だれかを悪意に満ちたネタの対象にしたりする。そして、それ以外の多くの場合には自分たち自身のことを徹底的に侮蔑し、卑下する。まさしく誰も喜ぶことのないジョークがここに完成する。
ジョークはわたし達ふたりのあいだだけでのみ交換される。とても閉鎖的で、かつ限定的なものであり、ほかの人たちにはけっして聞かせないものなのだ—聞かれたら、十中八九めんどうな展開に発展するだろうから。誰にも聞かせない。それはふたりのあいだでなんとなく了解し合った、些細な決まりごとだった。そんな暗黙のとりきめに安心している部分もあり、わたし達は色味の最悪なジョークを心置きなく着々とつみあげていった。
でも、もしかしたら。もしかしたら、わたし達はそのせいで、こんな報いを受けているのかもしれない。
最近はそういうふうに考えることが多くなった。
だれも聞いていないと思っていた。けれど、神さまは—もしもそんなやつがいるとしたら—ひっそりと耳をすませて聞いていたのかもしれない。きっとそうだ。そうなんだ。
そして、こんな最悪の結末でそのことを知らせている。
⇔
わたし達はオリジナルの隠語を作るのが好きだった。それを使って人前で「とても人前ではできない会話」をするのが好きだった。わたし達のなかで〈街路灯〉は〈ペニス〉であり、〈タクシーのりば〉は〈娼婦〉であった。
ウィーンを病院へ迎えにいったあの日も、わたしは待合室でさっそくそのような会話をはじめようとした。憔悴しきったみたいな表情のかれを見つけ、いきおいよく肩をたたいた。
「どうしたよ、〈揚げドーナツ〉に細枝つっこまれたみたいな顔しちゃって。そんな悲壮感まるだしの顔されたら、おまえさんの〈フロッピーディスク〉も一生やる気を出してくれなくなるぜ?」
わたしのおどけた口調にウィーンはにやりと笑った。でもその笑顔にはむりにつくられた感があった。
「そいつあ、困るなあ」とかれはいった。「もしそうなったら〈とけたバター〉が必要になるな。それか〈干し梅の絞り汁〉か」
わたしも笑った。
「〈八日目のフライヤー油〉じゃないの、あなたが本当に必要としてるのは?」
「ばか言わないでよ。そんなわけないだろ、それこそ〈フロッピーディスク〉が死んじまうじゃんか」
「どうかな。かえって生き返るんじゃないの? あなたの役立たずな〈フロッピーディスク〉」
そこで、受付の女性看護師がウィーンの名前を呼んだ。
名前は二度くりかえされた。
でも、かれはすこしも動こうとしなかった。間の抜けた沈黙だけが広がっていった。
「ねえ、呼んでるよ」
「……てくれない」
「え?」
ウィーンの声は小さく、細々としすぎていて聞き取れなかった。
「なんていったの?」
かれはうつむく。
「ウィーン? ねえ、どうしたのよ、だいじょうぶ?」
「……ジェイ」
「なに?」
「いっしょに、来てくれない?」
かれの両目に深いかげが下ろされた。とたんに目の色を読み取ることができなくなった。それと同時に、かなしい死臭のような匂いが、かれの身体中からいっせいに発散されたような気がした。それは、いま思い返してみてもかなり不思議な体験だった。
目の前にいる恋人の肉体が、まるで絵具が水に溶けていくときみたいに、みるみると別の、あっさりと消えてしまうような色に変わっていくのだ。
診察室の医者は、わたし達に残された時間の話をした。わたしは自分でも意外なほど冷静にそれを聞いていた。
診察室を出るころには、ウィーンはすっかり灰色に染まりきっていた。それはあと一年足らずで死んでしまう人間の色だった。
⇔
ウィーンはほんとうにどうしようもなくなるまで、いままで通りの生活を続けることを望んだ。やめていたタバコを再開することもしなかったし、雑誌でしか見たことがない場所に行こうともしなかった。むしろこれまでよりも節制した生活を心がけているようにさえ見えた。
わたしにはかれの考え方がうまく理解できなかった。わたしだったらきっと、すぐに仕事を辞める。ドラッグを好き放題やるし、苦手なやつの家に巨大な石ころを投石する。そんなことをウィーンに打ち明けると、かれは笑った。でも、なんの説明もしてくれなかった。
いまでも正解はわからないけれど、きっとかれはプライドのようなものを守りたかったんだろうな、と思う。できの悪い映画みたいに、「死ぬまでにやることリスト」を作りたくなかったんだろう。それはつまるところ、自分が死ぬという事実を自覚することだから。認めてしまうことだから。
ウィーンはそんなことができるほど強い人間ではなかった。
⇔
ウィーンがほんとうにどうしようもなくなって、入院生活を余儀なくされる三週間前、かれはトイプードルの幼犬を抱いて帰ってきた。
「どうしたの、その子」
わたしが訊くと、ウィーンはあの子供っぽい笑顔を浮かべて答えた。
「会社の同僚が犬飼っててさ、その犬が6匹も子供産んだっていうから1匹だけ引き取ってきたんだよ。ほら、可愛いでしょ?」
トイプードルはかなり怯えた様子でわたしのことを見上げていた。可愛いと思うより先に可哀想になる。
「意味がわからないよ」
「意味はわかるだろ、犬を飼うんだよ」
「わたしになんの相談もなく引き取ってきたわけ?」
「いやなの? 前からペット欲しがってたじゃない」
「そもそもこのマンション、ペット飼うの禁止なのよ」
「そんなの建前じゃん。ぜんぜんだいじょうぶだよ、バレないバレない。ほら、二階の筋肉ヤロウだってあのイグアナみたいなネコを飼ってるじゃない。だいじょうぶだよ」
わたしは怒るのもばからしくなってその犬を一度部屋のなかにいれた。そしてすこし時間を置いてからウィーンを説きふせた。
ウィーンはいった。
「……さびしくなると思ったんだ」いまにも泣き出しそうになっていた。「もし、もしもだよ? もしものことだけど、おれが死んだとするだろ? そしたらさ、そしたら……」
わたしはため息をついて、これから続くであろう言葉を先にいってやった。
「わたしが寂しくなると思ったのね?」
「……そう」
「それで犬をもらってきたわけね?」
「うん」
わたしはウィーンを置いて、さっさと家を出て行きたくなった。その衝動はかなり危ない水準にまで高まっていた。純粋に腹がたった。かれのあまりの考えのなさに。そしておもわず苛立ってしまうほどの幼なさに。
そのときわたしが声を荒げなかったのは、単にウィーンへの気遣いが働いたからだろうか。もうまもなく死んでしまうかれに、いやな思いをさせるのはどうか、そんなことを考えたのだろうか。
それとも、わたしは「諦め」ていたのだろうか。今さらなにをいっても仕方がない。どうせかれは死ぬのだ。わたしの前からいなくなるのだ。だとしたらここでこうして叱ることに何の意味があるだろう。ただ疲れるだけだ。
そういうふうに考えれば、わたし達の関係はある意味「ウィーンの余命」によって延命させられていたのかもしれない。それはわたしに情けをもたらし、ウィーンの未熟さには修正が求められなくなった。
でも、もしそうならば、わたしが情けでそこにい続けていたのだとしたら、ウィーンが息を引き取るその瞬間までかれの手を握っていたのは、あれは「愛」ではなかったということになってしまうのではないか。
すこし考える。
そうだ、そうなのかもしれない。
……いや、「かもしれない」なんて嘘だ。逃げ道だ。
まちがいなく、わたしはそうだったのだ。そして、そこからはけっして逃げられない。
⇔
外面的にみれば平穏そのものの生活は過ぎ、ウィーンは外面的にも内面的にも苦痛に満ちた入院生活をはじめることとなった。
「大きな箱型の死刑台」とウィーンはその病院を評価した。
「ジェイ、きみもここに座って数日過ごしてみればわかるよ。ほんとうに奇妙な場所なんだ、病院ってのは。ここに来る人間の大半は骨折を治して、病気を治して、生活習慣病を予防する薬をもらって、必死に生命を長引かせようとする。でも入院患者となれば話は別だ。みんな死ぬためにここに来るんだ。きのう初めて知り合った若いブロンドの女の子も次の日には体調が悪化して、八十の老婆みたいになってる。フルーツをくれた丸坊主のおじいちゃんのベッドが次の日の朝には空っぽになってる。そんなことばっかなんだ、ここでやってるのは。それで、そういうのを見ていくたびにさ、ほんとに嘘じゃなくて、自分のなかのいろんな部分が死を受け入れようとしているのがわかるんだよ。死にちかづいて行こうとするんだ。しっかりと、一歩ずつ。……でも、でも、心はちがう。心はまだ受け入れようとしてないんだ。受け入れてくれないんだ。こんなこと言っても、意味わかんないかな。でもさ、どうしてもできないんだよ。怖くて、おそろしいんだ。からだはすこしずつ死んでいく。心は生きようとする。そんなせめぎあいがつづく。どこまでもつづく。それが入院生活ってもんなんだよ」
ある日の面会時間にかれが語った言葉を、わたしは笑うかなにかして適当にやり過ごした。するとウィーンも「たしかに柄じゃないよね、おれがこんなこと言うの。ああ、なんか恥ずかしくなってきた」とふくらみの薄い胸のあたりをぼりぼり掻き、顔を赤くして言った。
そうして、ウィーンの心はまた一歩、また一歩と死に行進していったのだろう。わたしはその後押しをしてしまった。
わたしの耳はそいつの足音をたしかにとらえていた。
⇔
わたしはウィーンの姉として病院の門をくぐった。病院では仲のいい姉妹ということでとおっている。不治の病にかかった哀れな妹と、献身的でこれまた哀れな姉。親切な担当医からのアドバイスでそうすることにした。肉親であれば特別処置として面会時間の枠が比較的自由に選択できるからだった。これがただの友人となればいろいろ面倒になる。同性愛の恋人ともなればなおさらだ。
わたしたちの古くからの友人が病室を訪れることもしばしばあった。フレッドにジャーン、リンダにロズウェル。そして彼らがやってくるたびに、相部屋の患者たちはまるで陸にあがってきた魚類を見るような目でこちらをうかがっていた。
一度、フレッドが容赦ない視線を送ってくる男の子に絡んでいったことがある。
「どうしたの、ぼく。なにか聞きたいことでもあるのかい?」
スキンヘッドで筋骨隆々、身長は百八十センチを超える大男が近づいてくれば誰だって怖がってしまうだろうと、わたしはその少年に同情した。そしてすぐにフレッドを止めに入った。でもそれより早くに、少年はフレッドに質問をした。
「ねえ、おじさんたち、なかまなの?」
「なかま?」フレッドとわたしは声をあわせて聞き返した。
「そう、仲間」少年はなんでもなさそうにいう。
「仲間、か」わたしは口のなかでその言葉を転がした。
フレッドはやけに子供っぽい仕草で首を傾げてみせた。
「そうだな」と彼はいった。「俺たちは、まあ仲間かもしれない。少なくとも、友達ではあると思う。そうだよな、ジェイ?」
「そう思うわ」とわたしも応じた。それからベッドに腰かけている少年に訊いた。
「ぼうやにも仲間やお友達がいるでしょう? わたしたちもそんな感じなのよ」
「僕にはいないんだ」と少年は答えた。
「ひとりも?」とフレッド。
「小学校には?」とわたし。
「まだすこししか行けてないから」少年は伏し目がちにいった。「六歳になってすぐに入院することになっちゃって」
「そういうことか……」
わたしとフレッドは彼にかけるべき言葉を必死に探した。でもなかなか見つからず、沈黙の時間だけがいやに長引いてしまった。
そんなとき、うしろから声が飛んできた。ウィーンだ。
「おい、少年」とかれはいった。「友達がほしいの?」
少年はちからづよく肯いた。「うん、ほしい」
「だったら」ウィーンはベッドの上で精一杯背筋を伸ばして宣言した。「パーティーに行くんだ。あるだけのパーティーに参加するんだよ」
「パーティ?」
少年は理解の手助けを求めるようにわたしたちの顔を見上げた。でもわたしにしてもウィーンの言っている意味がよくわからなかった。
「それってどういうことなの?」と少年の代わりにわたしが訊いた。
ウィーンは呆れたというように首を振って、やけに熱のこもった口調でわたしたちにいった。
「ほら、おれたちが出会ったのもパーティーだっただろ? フレッドとも、あとはリンダとロズウェルとも……っていうか、ゲイやレズのやつらとはみんなそこで出会ったじゃない。だからパーティーに行くんだよ。あるだけのパーティーに参加するんだ。そうすれば仲間ってのは勝手に増えていく。あるときにはそいつらとの関係が薄っぺらに思えるかもしれない。でもそれでいいんだ。それでも孤独でいるよりかは何倍もましなんだ」
かれの言葉が病室の無機質な壁に浸透していくまで、すこしばかり時間がかかった。わたしはそれを待ってから、ゆっくりと少年のほうを向いた。
「……だってよ。わかった? とにかくパーティーに行けだって」
「とにかくパーティーに行け」と少年はくりかえした。「パーティーはどこでやってるの?」
ウィーンが応じた。
「黙っていても噂が流れてくるさ。何月何日の何時にどこそこでパーティーをやりますって。それは誕生日パーティーかもしれないし、なんかの記念パーティーかもしれない。だれかの死を悼むものかもしれない。でもそんなの関係ないさ。噂を聞きつけたら手当たり次第に参加するんだ」
「噂が聞こえてこなかったら?」
「そしたら、自分でひらけばいい」
「ひらくって、パーティーを?」
「そうだ。そうすればみんなお前に挨拶しにくるぞ」そういって、ウィーンは「はは」と声をあげて笑い出した。「そうだ、そうすればいい。どんどんパーティーを開いていくんだ。なんならおれが死んだときにも、それを祝うパーティーを開けよ。そうすりゃ、いっぱい友達ができるぞ。ふつうの友達はできないかもしれないけどな」
フレッドは少年の肩を叩いた。
「よしきた。そうなったときには俺も協力するぜ。なあ、ウィーン、お前いつごろ死んじまうんだよ。早めに教えてくれよ。ケーキの手配とかがあるからな」
「お前なあ!」
ウィーンは楽しそうに嬌声をあげた。
少年も笑っていた。
⇔
季節は夏をむかえた。その夏というのも例外的な暑さをほこる夏だった。セミの鳴き声もまるで熱波への悲鳴のように聞こえた。おまけにウィーンの入院していた病院では乱暴な建設業者による乱暴な外壁工事がおこなわれていた。騒音はいかにもわずらわしく、入院患者や看護師たちの神経をいちじるしく摩耗させていった。おまけに作業中は窓も防塵ネットに覆われてしまっていたから、わたしたちはまるで騒音の檻にとらわれてしまったかのようなありさまだった。
そんな折に事件は起こった。
ウィーンのつとめていた会社の人間がふたりでやってきた。退職手続きのためだった。どちらも、いかにも杓子定規といった感じのお堅い男だ。こんなに暑いのに、彼らはきっちりとワイシャツを着込み、高価そうなネクタイをきつく締めていた。
手続きは淡々とすすめられた。相談相手のいない事務作業みたいだった。
「なにか言いたそうだね」、突然、ウィーンがそう言った。
声はベッドからすこし離れた位置に立っている男にむかって放たれていた。
「べつに、何も」
男はそっけない口調でそう答えた。それだけでウィーンとこの人物のあいだに少なからぬ因縁があることが読み取れた。
「おれを笑いにきたんだろ。じゃなきゃお前みたいなのがわざわざここまで出向いてくるはずがない」とウィーンはなおも突っかかった。
「上からの命令さ」と男は応じた。「俺だって来たくなかった」
「そうか、じゃあさっさとその面引っ込めてくれないか? ここから出ていってくれよ、この手続きが終わるまででいいからさ。じゃないと病気が悪化しちまうよ。あまりにイライラしすぎちゃってさ」
男は何かを言おうとしたが途中で思い直し、ゆったりとした足取りで廊下へとすすんでいった。わたしはなにもいわずにその背中を見送った。ベッドの脇に控えていた男は困ったような表情のまま、ウィーンへ説明をつづけた。ウィーンは大人しく話を聞き、書類にサインをし、わたしが自宅から持ってきた会社貸与品を返却し、電子印鑑を押した。必要な書類がそろうと、男たちは荷物をまとめ、灼熱のビル群へと引き返していった。
夜になって、わたしウィーンに訊いてみた。
「ねえ、あの人と何があったの?」
「え?」
「さっきの人。会社の」
「ああ」ウィーンはひどくつまらなそうに顔をしかめた。「べつに、なんもないよ」とかれは言った。でも、なんもないはずがなかった。
ウィーンはその夜、とても長い時間、声を押し殺して泣きつづけた。かれがなぜ泣いているのか、なぜそんなにくやしそうなのか、わたしにはひとつもわからなかった。かれもそれを教えてくれなかった。
ただ、わたしには知らないウィーンの世界があるのだということを、わたしはこのときになってはじめて知った。知っていたはずなのだけれど、はじめて知った気がした。かれはその世界にむかって一人で、孤独に泣いているのだ。
⇔
いつだったかはもう憶えていないけれど、あるときにウィーンがこう言った。
「ねえ、おれたちのセックスはまるでアレみたいだよね。あの、昔のアニメーション」
「アニメーション?」
わたしはおもいつくかぎりにアニメ番組のタイトルを述べたてていった。『スポンジ・ボブ』、『シンプソンズ』、『サウスパーク』、『ルーニー・テューンズ』。
「いや、どれもちがう」とウィーンはいった。「ほら、アレだよ、追いかけっこするやつ。ずっとそれやってるやつだよ。お互いがお互いを懲らしめようとして……」
「ああ」わたしはウィーンが思い描いている作品にぴんときた。「わかった、アレのことか」
「そう、アレ」
「それで? アレのなにがわたし達のセックスに似通っているっていうの?」
「ほら、想像してごらんよ」かれは目に見えないなにかの形を示すように、手のひらを上に向けて両手をかかげた。「アレって終わりがないだろ?」
「どっちも死なないし、どっちも殺さない。そういうこと?」
「そう」
「つまり?」
「つまりさ」ウィーンはいった。「おれたちのセックスも、……というか女同士のセックスっていうものは終わりがないじゃないか。明確にこれでおしまいってポイントがさ。男の絶頂には回数制限があるけど、おれたち女にはない」
「たしかにそうね」とわたしはうなずいた。なにか汚い話がつづくのを待った。でもそのあとにかれがしたのは、ひどく感傷的で、らしくない話だった。
「終わりがないっていうのは、なかなかにこわいものだよ」ウィーンは裸のままベッドに横たわり、つづけた。「延々とくりかえさないといけない。いつ終わるかも、そもそも終わりがやってくるかもわからない状況のなかを進まないといけない。ひかりも音もない暗闇のなかを、気がおかしくなりそうな暗闇のなかをさ」
「あのネコとネズミもそういう恐怖を感じているのかしら」
「たぶんね」ウィーンは枕を背もたれにして上体を起こした。「きっと感じてる」
「そうとは思えないけれど」とわたしはかれの発言を茶化すようにしていった。「だって彼ら、楽しそうだし」
「外面にはそう見えなくてもきっと感じてるんだよ」
「そう」とわたしは言った。「で、とにかくあなたはそんなアニメーションとわたし達のセックスとを結び付けたのね。それはどういう観点で?」
「観点もなにもないよ」とかれは言った。「でもすこし怖くなったんだ」
「怖く?」
「うん」
静かな夜だった。聞こえてくる音といえば、分別をわきまえた運搬トラックが家のまえを過ぎていくときのものだけだ。それ以外にはなにもない。虫も鳴かないし、ひとも騒がない。みんなが動きを休めている。時間さえも止まっているみたいに感じられる。
わたしはウィーンの細い指に手で触れる。
「なにが怖いの?」
ウィーンはぐっと眉をひそめた。言葉をもたない考えに言葉を与えようとしているのだ。それがわかった。わたしはじっと待った。窓の端にかかった三日月を見ていた。
「彼らは」とやがて、ウィーンは長く閉じていた口をそっとひらいた。
「なかなか終わらせてもらえないんだ。なんでかって、かんたんな話だよ。番組の人気がつづくからさ。だから、きっとこの先もずっとシリーズが続いていくんだろう。続かないにしても、生産済みのディスクはなんべんでも再生されつづける。……でもさ、それって、とっても危険なことだと思うんだ。ほかでもない、彼らにとって」
「終わりがないから?」とわたしは訊いた。
「うん」
「じゃあ、わたし達のセックスも同じような理由で危険ってことなのね」
「そういうことになる。おれはそう思った」
「終わりがないから」
「そう、終わりがないから」
その会話でウィーンがなにを伝えたかったのか、わたしにはわからない。でも、きっと意図なんてなかったんだろうと思う。かれはふと思いついたことを、とうとうと言葉に変えていっただけなのだ。
その後、わたし達はかれの言う「終わりのない、危険なセックス」をはじめた。朝になるまで、お互いがお互いをみちびいた。わたし達の「終わり」は朝がやってくることだ。それでしか「終わり」はもたらされない。そしてその「終わり」だって、とりあえずの設定として与えられたものなのだ。もしも朝がやってこなければ、わたし達は死んでしまうまで、お互いをむさぼりあうのだろう。それはある意味では殺し合いみたいなものなのかもしれない。相手のエネルギーを吸い合う。吸い尽くすまで終わらない。たしかに、あのアニメみたいだ。おわらない、殺し合い。コミカルに描かれていないだけで、わたし達がやっているのはそういうことなのだ。
「最終回を与えてあげないと」とわたしは言った。
「かれらに?」とウィーンが訊いてくる。
「そう」とわたしは答える。
「どんな最終回にするの?」
わたしはすこしだけ考えた。そのあとでなげやりな回答を放った。
「びっくりするくらいあっさりと、片割れが死んじゃうのよ」
「わーお」ウィーンは大袈裟に両手をあげた。「そいつは残酷だね」
「でも、そうしないと終わらないもの」
「まあ、たしかにそうかもしれない」
「わたし達のセックスもいっしょよ」
わたしがそういうと、ウィーンはいつもの下品なにやけ笑いを浮かべた。それは趣味の悪いジョークがこぼれ落ちるときのサインだった。
「じゃあさ」とかれは言った。「どっちがイカれ死ぬまでやり尽くさないとだめってことだね」
「もう死ぬってとこまで?」とわたしも微笑みながらのっかる。
「そうだよ。だってそうでもしないと、どっちかが死でもしないと、セックスが終わってくれないもん」
「むりやりに終わりをつくるわけね」
「そうそう!」
かれはとても楽しそうに笑った。そして、そのだいたい半年後に余命宣告がくだされた。わたし達のセックスは、このようにしてきちんと「終わり」をむかえることとなった。
⇔
かれが死んでからひらかれたパーティーは、もちろんあの少年が企画した。とはいっても実際的な運営を担当したのはフレッドだった。彼はウィーンの古い友達から、ウィーンとはあまり関係のない人物まで、百人近くの人間を招待した。そしてそのひとりひとりを少年と引き合わせ、自己紹介をさせ合った。少年は「ともだち」をたくさんつくった。癖があり、弱みがあり、常に社会のどこかにひどく怯えている「ともだち」を。
パーティーは葬儀とはべつにひらかれ、そこにはウィーンの親族は呼ばれなかった。かれの両親は同性愛者である自分の娘を強く恥じていた。そんな人たちを同性愛者にあふれた会場に招くのはどう考えても悪手だ。お互いにとって気分の悪い結果になることは目に見えている。
フレッドの友人に金持ちのアジア人がおり、その人の邸宅が会場となった。屋敷のなかは無数のビニール風船であふれ、安酒で満たされ、スナック・フードに汚された。
パーティーの途中、少年がわたしのテーブルに近づいてきた。
「ねえ、おねえさん」と彼はいった。
「なに?」
「ちょっと訊いてもいい?」
「いいわよ」
ふたりきりで話すのはそのときがはじめてだった。たいていの場合、わたし達の会話にはウィーンが加わっていたからだ。あの病室にいたウィーン。痩せていき、死んでいったウィーン。
少年はいう。
「おねえさんはさ、あの、ウィーンさんの、恋人だったってほんとう?」
純粋そうな澄んだ瞳がわたしのことを見上げていた。わたしはどう答えるべきか悩んだ。ここでの答えかたが、少年のなかの核のようなものにわずかなり影響を与えていくだろうことがわかった。
「そうだよ」とわたしは言った。
「好きだったの?」と少年は訊いた。
「うん」わたしはうなずく。「好きだった」
少年はそれ以上なにも訊いてこなかった。わたし達の会話はそれで終わった。わたしはなんだかひとりで取り残されたような気分になった。
パーティーは夜更けまで続いた。
わたしは最初少年が「女性同士が恋人になっていること」を不思議に感じて、わたしのもとにやってきたのだろうと思っていた。そしてそういった類の質問がされるのだろうと思っていた。
だが、実際にされた質問はとても簡素なものだった。でもそれだけがすべてだった。同性愛だとか、異性愛だとか、そんなものは関係ない。わたしはそれ以前だったのだ。
「好きだったの?」
彼はそう訊いた。
わたしはこう答えた。
「うん、好きだった」
⇔
追いかけ合い、殺し合う相手がいなくなったわたしは、かつての相棒の墓を訪れた。かれが置いていった頭のわるい仔犬といっしょに。
墓石に手を触れるけれど、なにも感じられない。温度もないし、声が聞こえてくることもない。当たり前だ。だってただの石なのだから。きっとウィーンだって同じことを言うだろう。
「みんなが必死に敬って、維持するのに何十万円もかけてるのはただの石なんだぜ。たしかにバカでかい石だけど、石はどこまでいっても石だ。そんなものに頭下げたりしてどうすんだよな」
だれにも聞かせられないつまらないジョーク。趣味の悪いジョーク。
犬は静止していることに我慢がいかないようで、はやく散歩を再開しようとひき縄を引いてくる。わたしは引き返す。犬はしぶしぶとこちらに帰ってくる。わたしは彼女の頭をなでる。そして気づけば泣いている。
【短編】トムとジェリー 仲田日向 @pulpfiction2
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