あなたになりたい

Meg

第1話 あなたになりたい

 分娩室Aで、ひかりは絶叫した。

 尻が裂けるような感覚。スイカが抜けていくような痛み。次いでオギャーと、元気な産声が轟いた。


「おめでとうございます。元気な女の子です」

 

 全身で叫び、くねる、赤々とした新しい生命。湯気の立つ産湯に、助産師がその子を浸け、白い垢を落とし、産着を着せた。

 台の上で仰向けになっている光は、気持ちのよい疲労感に脱力した。まだお尻に痛みはあるが、生物としての満足感だろうか、幸福という産湯に浸かっている気分だ。

 汗びっしょりの光の手を、付き添う夫が握った。

 

「おつかれ光」

 

 崇拝のまなざしに見つめられる。くすぐったいような嬉しさで、「へへ」っと笑った。

 

「これからは家族3人暮らしだね」

 

 

 

 分娩室Bで、影子えいこの呻めきが虚しく響いた。

 ついで、場が沈黙に包まれた。

 

「後はこちらで処置します」

 

 そら豆型のトレーに載せられた、朽ちた小さな生命の抜け殻が、助産師により運ばれていく。

 とめどなく溢れる汗と涙は、影子の血の気を失った額に、長い髪をはりつかせた。

 

「どうして私の子だけ。どうして私だけ」

 

 夫は慰めるでも、同情するでもなく、不機嫌そうだった。

 

「この恥さらし。女のくせにまともに子供も産めないのか。おまえとは離婚だ」

 

 影子は夫に縋る。

 

「あなた待って。次はちゃんと産むから。次は……」

 

 硬い手に、冷たく振り払われた。彼はスタスタと出て行った。

 

 

 

 数日後、影子は病院を出た。

 絶望しきり、足が痺れてうまく動かず、フラフラだ。晩冬の風の冷たさも、影子の体をいじめる。

 はたから見ても、この上なく不幸そうな姿をしているんだろう。

 背後を、この上なく幸福そうな母親が、赤ちゃんを抱きながら通りすぎた。

 

「かわいい」

 

 つばの広い帽子を被った、若い人。セミロングの髪を耳にかけ、抱き抱えた赤ちゃんの顔をのぞきこんでいる。若い夫が付き添っていた。


ひかりはよくやったよ。父さんも母さんも喜んでた」

 

 光さんっていうんだ。

 駐車場の車から、明るい表情の男女が何人も降りて、幸せな彼女を取り囲んだ。

 

「光、退院おめでとう」

「赤ちゃんみせて」

「わあ、かわいい。光とそっくりの美人になるよ」

 

 光さんは目尻の涙を拭い、笑みを浮かべた。輝くよう。というか、ピンク色が透けた白い肌は、本当に輝いている。

 彼女は光。自分は影。

 生まれ変わったら、あなたになりたい。

 

 

 

 陽光と花粉の季節になった。

 光と夫は、小さな宝物を抱えて、お花見へ行くことにした。友人たちも誘った。

 アウトドア用の荷物を用意し、つばの広い帽子を被る。

 ベビーカーに載せた、ほっぺの丸い赤ちゃんは、無邪気に手足をパタパタさせている。

 この子には、きれいなものにたくさん触れてほしい。日光とか、暖かい風とか、舞い散る桜とか、かわいいと言ってくれる友達の笑顔とか。

 外出の前に、なんとなく玄関の姿見で全身を確認した。そして、あることに気づく。

 

「ん? んー……?」

 

 夫が振り返った。

 

「どうしたの?」

「この帽子いらないかも。あとで捨てよう」

 

 お気に入りだったけど、今は似合わない気がする。出産して体型が変わったから?

 光は帽子を外した。

 

 

 

 公園の桜は満開で、花見客が詰めかけていた。奇跡的に空いていた場所に、友人たちがブルーシートを敷いてくれる。

 

「お花見誘ってくれてありがとう。光ちゃんしゃべってて楽しいから会うの楽しみだった」

 

 お礼を言うのは、手伝ってもらったこっちだ。

 赤ちゃんを抱っこする夫は、光の友人たちに囲まれている。

 

「赤ちゃんかわいい」

「光ちゃんの旦那さん赤ちゃんのお世話して偉いよね。優しいし」

  

 ヒラヒラ落ちるピンクの花を、赤ちゃんは澄んだ目で、ジィッと観察している。小さな鼻先にヒラッと落ちた花びらを、光はいとおしい気持ちで取ってやった。

 気に入ったようだ。連れてきて正解。

 ただ、さっきから気になる存在がいる。離れた木の裏に半身を隠し、こっちを凝視する女性。つばの広い帽子を、深々と被っている。べっとりしたセミロングの髪は、明るい春の日に似合わない。重く暗い雰囲気を抱え、布の塊を大事そうに抱えていた。

 なんなんだろうと思っていたら。不意にその人は走り出し、光の隣に膝を抱えて座った。

 「えっ?」と声が出そうになった。

 謎の女性は帽子のつばで目元を隠し、布の塊を大事そうに抱えたまま、ずっと無言だ。

 この謎の人物に、光も、夫も、友人も、誰も触れられない。

 

「そ、それでね」

「うんうん。だよね……」

 

 汗をかきながら、気のない相槌を打って、会話に夢中なフリをするのが精一杯。

 この人、なんで来た?

 いくら無視されても、謎の女性は無言だった。

 光は段々いたたまれなくなってきた。そこで、思いきって話しかける。

 

「あ、あの。いいお天気ですね」

 

 その人は一言だけボソッと、

 

「……そうですね」


 会話が続かなかった。

 ますますいたたまれない。気まずい。多分、しゃべるのが苦手なんだろうけど。

 光は話題を探そうと、女性を観察した。

 

「その帽子似合ってますね」

「……本当?」

 

 彼女の唇がほころんだ。不自然に塗りたくられた口紅を崩している。

 横から、赤ちゃんを抱えた夫が、

 

「本当ですよ。光も同じ帽子被ってましたけど、こう見るとちょっと似てますね」

 

 夫は気を遣ってくれたようだ。

 謎の女性は心を開いたのか、自己紹介をしてくれた。

 

「私、影子です。新米ママ同士よろしくね」

「は、はぁ」

 

 話し方だけなら、意外と普通そうな人。悪い人ではないと思う。ただ、『新米ママ同士』という言葉や、抱えている布の塊は、どうにも怪しい。

 嬉しげな影子さんは、早口で続けた。

 

「帽子のこと褒めてくれてありがとう。嬉しいです。……あなたに近づけば幸せになれるから」

 

 後半のセリフは小さすぎて、耳がよくなければ、聞こえなかったかもしれない。

 

 

 

 お花見のあと、女友達だけでファミレスに集まり、おしゃべりに花を咲かせた。

 赤ちゃんは夫に連れ帰ってもらった。


「なんで影子さんとSNSの相互フォローしたの? あんなヤバい人」

 

 友人はまくしたてた。ちょっと言い方がキツいような。

 

「教えて教えてって言われて押しきられちゃって……」

「あの人いっつも光の後つけて写真撮ってるよ」

「そうだったの?」

 

 気づかなかった。

 影子さんのSNSを見るが、フォロワーはほとんどいない。ただ、写真の投稿は多かった。今日の桜も、しっかりアップされていた。


『お友だちとお花見しました』

 

 おくるみを抱えた影子の自撮り。背景には舞い散る桜と、光と、赤ちゃんを抱っこした夫と、友達。

 

「なんでおくるみ持ってるの?」

「あー、赤ちゃん死産しちゃったからじゃない?」

 

 死産?

 

「しかも影子さんのご主人、DVとかモラハラがひどいらしくて」

「死産のときもひどいこと言ったらしいよ。離婚したみたいだけど。看護師の友達に聞いた」

 

 不幸を絵に描いたような人だ。


「そんな状態で幸せそうな光を見つけて、憧れちゃったんじゃない?」

「まさか」

 

 確かに、お気に入りの帽子と似たものを被っていたはいたが。ファッションや髪型も、寄せられていたかも……。

 

「あの人もともと変な人じゃん。なにやらかしても不思議じゃないよ」

「暗いっていうかズレてるっていうか」

「いっつも無言でママ友の輪の中に立ってるし。仲良いわけでもないのに。あれなんなんだろうね。対応に困るよ」

 

 陰口は絶えない。

 すると、入店音がした。入ってきた一人の女性に、光も友人も絶句した。

 つばの広い帽子を被ったその人は、細い足でコツコツと、光たちが囲むテーブルの席まで来た。

 濁った瞳が、爛々と見下ろしている。黒いオーラまで渦巻かせ。

 影子さんだ。

 さっきの悪口、聞かれてた?

 影子が身じろぎすると、光たちは恐怖で息が止まった。

 殴る? 怒る? 水かける?

 が、彼女は無言で、空いている椅子に座った。

 光たちは唖然とする。

 水を運ぶ店員が、影子に尋ねた。

 

「ご注文は?」

「ドリンクバーで」

 

 ドリンクバー? 居座る気?

 影子は帽子を取ると、店員が渡した水を堂々と飲んだ。肌は純白のおしろいで厚く塗り固められている。

 光はどぎまぎした。どうしていいかわからない。

 影子はただ、光をジロジロ眺めるだけだし。

 

「で、でさぁ、この前義母が……」

 

 ママ友たちは気を使い、気まずそうに話題を振った。

 

「だよねー」

 

 気まずいので、光やほかの友人もその話題に乗った。無理にでも。

 テーブルの下で、影子のスマホが、光の声をこっそり録音しているのに、もっと早く気づいていればよかった。

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