水鏡にわだかまり

小川なお

水鏡にわだかまり

「探偵きどってんじゃねえぞ!」

 突き飛ばされて、背中から倒れこむ。かわいた土のにおいが鼻をついた。

「ぼくじゃない」

「先生にチクるとか、いかにもお前じゃねえか。あのときどこで見てたんだよ」

「見てない」

「おれだって、だれも見てねえと思ったよ。盗るのに一分もかけてねえ。だからどうしてわかったか訊いてんだ」

 ぼくだって知りたい。いったいどうやって、は犯人を突きとめたのか――。

「答えろ!」早瀬はやせがさらに熱くなる。「まさか超能力だとか言わねえよな」

「だれだってわかるよ。学校一の馬鹿のしわざだろうって」

 早瀬の右腕らしいデブが声をあげる。「しぶてえやつだ。どうする」

「そうだな」キツネ目をいっそう細めて早瀬が笑う。

「こいつの持ち物みんな燃やそうぜ。ここなら焚き火しても、だれにも見られねえだろ」

 投げ出されたカバンをデブがうれしそうに拾った。カバンで済むならぼくだってうれしい。そんな雲ゆきとは思えないけれど。

「早瀬、金は取るか?」

「大事そうなものはとっとけ」

 ぼくの大事なもの? 通学カバンに見つかるものか。それがわかるのなら言ってみろ、せめて、最後に――。

 視界がかすむ。早瀬たちの影がぼんやりと遠ざかる。かわりに現れたのは、見おぼえのある学校の一室、それから校舎裏のあの場所――これがぼくの走馬灯なのかと思うとさみしかった。


 *


 初めて校長室に入ったのは一年生のときだ。

 担任に連れられるまま奥まった廊下を通りぬけ、扉をくぐるなりニコニコ顔の校長が「我が校の歴史的快挙!」と賞状を広げたので驚いた。作文が入選したことにではなく、それがこの中学校の「歴史的快挙」だというほうに。それから校長は「わたしも作文が得意でね」「恩師がこの辞書を贈ってくれて」といった昔話を果てしなく続けて、聞いているぼくは、文章力よりもスピーチ術のほうが人のためになるかもしれないと思ったりした。

 それからはたびたび校長室に招かれた。「このコンクールもどうかね」にはじまり「弁論大会の募集が」「生徒会に立候補しては」果ては「パソコンがわからない」まで。ぼくがひそかに校長室を「ニコニコ相談室」と呼ぶゆえんである。

 なのできのう、担任の平田と校長室に向かいながら、こんどはなにをお望みか、などと考えたぼくのうぬぼれも仕方がないのだ。「座って」と低い声で言った校長は見たことのない、雷で焦げた岩のような顔をしていた。これが初めて体験する「濡れぎぬ」なるものだと気づいたとき、ぼくはこの学校の大人と子ども全員に心の底から同情した。すべては、みんなのが足りないせいだった。

「なにかわかれば、隠さず話してくれ」

 昇降口で別れるとき、平田はいつも以上の暑苦しさで言った。解決に手を貸してほしいとも、お前がうたがわしいとも聞こえる。卒業まで残り一年、そのあとはこの学校のことなんてきれいに忘れよう、という考えさえもなぐさめにならない。吸いせられるように、ひとりきりになれる空間、校舎裏のいつもの場所に足を向けた。

 木々に囲まれた裏庭はいつでも夕暮れのようにほの暗い。校舎はもう人がいないらしく、踏み入れたとたんにシンとした静けさに包まれた。目的地はもう少しだ。

 こんもりしげった草で隠れているけれど、木々の下には池があった。本当はビオトープらしく、観察のためのベンチまである。花壇だらけの中庭とは対照的にここは荒れ放題、おかげでみんな「おばけ沼」と呼んで近よらない。いっぽうここで度胸試しをしようと深夜に集まり補導、という不良たちも後をたえないとか。校長室に呼ばれることにかけてはぼくなどまだまだのようだ。

 雑草をかきわけながら小みちを通りぬけたとき、いつもとは違う光景に思わず息が止まった。

 ベンチに女の子が座っていた。水面に心をうばわれたみたいに、こちらを見ようともしない。おばけはマジだったのか、と立ちすくんでいると、やっと気配を感じたように顔をあげた。二つにわけた長い前髪、そのあいだで余計に小さく見える顔には、はっきり見おぼえがあった。

「このあいだ転校してきた子だよね?」名前は出てこない。「ぼく、隣のクラスの古泉こいずみ

「わあ」見返した目が宙をさまよう。「ええと、なんと」

 これはおばけよりヤバいかもしれないと思ったとき、ふいに彼女の視線が、ぼくの目をぴたりととらえた。

「ちょうど、古泉くんのこと考えてた」

「え?」

「こんなところに水たまりがあるから、見とれちゃった。落ちつくよ」

 ぴょこんとベンチから立ちあがると、あっけにとられるぼくに背を向けて「じゃ」と片手をあげた。雑草を踏みわけて小みちの向こうに消えていく。

「ねえ!」とっさに声が出た。訊きたいことが山ほどあった。

「水たまりじゃなくて、ビオトープな!」

 やっとそれだけ言うと、草むらからかすかに「へえ」と返事があった。あるいは、ただ木々がざわめいただけだったかもしれない。ともかく、やっと水辺をひとりじめにできた。

 さて、と事件に思いをめぐらせる。

 校長の仕事机にあった、恩師との記念の辞書が消えた。黒光りした年代ものは、ぼくも不本意ながらよくおぼえている。校長によると、その日の職員会議に向かうまではたしかにあったのだが、会議から戻ってすぐに見当たらないと気づいたという。扉に鍵をかけなかったのはいつものことらしい。先生たちは全員会議に出ていた。つまりアリバイがあるのだ。

 こんな生徒がいたとしよう。なにかの理由で校長室に招かれたことがあり、そこで目にした古い辞書に、彼は子どもらしい好奇心をくすぐられた。そのページをめくってみたい気持ちをおさえられず、ついにこっそり忍びこむ。すると当然、自分のものにしたくなる――。

 たかが古本が目当てのコソ泥と、お粗末な想像で探偵気分の大人。どっちもどっちだ。もう放っておこう。それよりずっと気にかかるのは、さっきの女の子だ。隣のクラスの転校生だとは知っている。

 彼女は不思議なことを言った――ぼくのことを考えていた?

 水面には桜の花びらが散らばって、汚れてもつれあった塊がそこかしこにただよっている。ながめながら心を落ちつけるより先に、とっぷりと日が暮れてしまいそうな景色だった。


 そのうち解決するだろうとは思っていた。けれどまさか、次の日とは。

 放課後、平田はぼくを呼びつけるなり校長室までと言うので、大人たちの気休めにどこまで振り回されるのか、とうんざりしながら扉を開けた。立ちあがった校長は雨にぬれた子犬みたいな顔で「古泉くん、すまない」と目を落とした。視線の先の机には黒光りする本。それと――。

「学校の郵便受けに入っていてね」校長が取りあげた紙切れには、丸っこい字でこう書かれていた。

 犯人は三の二、早瀬。見ました。コイズミくんは無関係。

 差出人の名はなかったけれど、ふいに顔が浮かんだ。名前は知らない。

 早瀬はすでに犯行を認め、ロッカーに隠してあった盗品は無事に戻った。不良らしい理由からたびたび校長室に呼ばれていた彼は、校長の思い出の品を見知っていたひとりだった。仲間と度胸試しをしているとき、校長の宝物を盗んでみせることを思いついた――校長の思い描いた犯人のほうがよっぽど見どころがあるというものだ。

 それからは校長の平謝り。「おわびの品を」「困ります」の押し問答が続いたのち、やっと解放された。くたびれきって校門を出たときのぼくには、「おい」という鋭い声と取り囲んだ視線を無視してダッシュするほどの力は残っていなかった。


 *


「財布がねえぞ」

 デブの叫びで目がさめた。キャッシュレス派で助かった。早瀬はいらついたように「身ぐるみはがせ。見張りのふたりも呼んでこい」と声を荒げた。

「でも早瀬、これ見ろ」

 デブがつかみ出したのは、黒光りする物体。ぼくをにらんだ早瀬の目が燃える。

「なんでこれ持ってんだよ」

「校長がくれた。盗んだ馬鹿を思い出すから、もういらないって」

「こいつで殴ったら、痛えだろうなあ」

 ぼくのなにより大事なものは日常だと、たいして面白くない答えが出たときだった。通りのほうから「おまえら!」という聞きなれた声が響いた。見張り役が転がりこむ。

「逃げろ、こっちだ!」「なんでここが」

 塀をよじ登った早瀬たちが姿を消すと同時に、息を切らせて平田がかけつけた。「立てるか」と差し出した手をつかもうとしたとき、平田の後ろから女の子がひとり、ゆっくり歩いてくるのが目に入った。


「ともかく、淀野よどののお手柄だな」

 職員室でことのしだいを聞き終えた平田が言った。淀野さん。やっと名前がわかった。

「早瀬たちがうろついてるとまずい。古泉、親に迎えに来てもらえ」

「そうします。でも、淀野さんもあぶないんじゃ」

「当然だ。お前んちから遠くないだろ」

 母さんが仕事を終えるまでは時間がある。「図書室で待ちます」と立ち上がってから淀野を見ると、彼女はちらりとぼくの目を見て「わたしも」と続いた。

 向かったのはビオトープだった。

 ひとりぶんの距離をとってベンチに腰をおろすと、ぼくはカバンから辞書を取り出し、彼女とのあいだに置いた。

「淀野さんが解決したんだよね」

 まるで聞こえていないように、横顔は暗い水面を見つめたままだ。

「早瀬が犯人だってことを、どうやって突きとめたのか知りたい。それからきょう、ぼくがやつらに連れて行かれた場所が、どうしてわかったのかも」

「どっちも見た」

「早瀬は言ってた。校長室に忍びこむとき、だれも見てなかったって」

 そう信じるのも無理はない。校長室は校舎の奥まったところで、その前の廊下をふだん生徒が通ることはない。かりに淀野がそこにいたとして、早瀬の警戒をかわしたとなればよほどの強運だ。

 いっぽうで窓の外から見たとも考えにくい。廊下の窓、または校長室の窓からならのぞけただろう。しかし両方ともすぐ外は広い花壇だ。淀野が偶然窓のそばにいた、なんてありえるだろうか。パンジーを踏み荒らそうとしていたのなら別だけれど。

「それから、ぼくを助けに来てくれたあの空き地」こちらはもっとわからない。「通りから離れた、しかも塀に囲まれたところだった。もし校門からぼくらの後をつけたのなら、淀野さんにもわかったと思う。でも向かうときのあいつら、だれか見てないかってずいぶん警戒してた」

 ぼくらが空き地に入るのを見届けてから、平田に助けを求めた? そうなる前に連中に追い払われるか、一緒に焚き火にあたるはめになっただろう。

「見た」

 もちろん納得いかない。「どこで」

「いまから言うこと、信じる?」

「辞書をかけてもいい」

「見えたの。このビオトープで」

 そこから彼女は、水面に語りかけるように話しはじめた。ますます不思議なあらましを――。

「小さいころから、こういう静かな水辺をぼーっとながめるのが好きで。そうしてると心が軽くなって、頭がすっかり空っぽになって……。そんなとき、ほかの人に見えないものが見えるの。水面に映しだされるみたいに、ここにないものが」

「ここにないもの?」

「だれかの描きかけの絵だとか、手帳にはさんだ写真だとか。このビオトープで見たのは、地面の下のタイムカプセル、合格のお守り、縁結びのお守りはきみの担任の……」

「たぶんだけど」事実だとして、ふと気になった。「淀野さんに見えるものって」

「だれかの強い思いがこもったものなんだと思う。すごく大事なもの」

 だれかの大事なもの。それが見えて、しかも――。

「ひょっとして場所とか、周りの様子もわかる?」

「今回のことは、この子が全部教えてくれた」

 淀野は辞書に手をのばすと、つやつやした表紙をそっとなでた。

「校長室の事件はクラスで噂になってて、しかも優等生――きみだけど――が疑われてるって話だから興味がわいて。見つかったら面白いなってここでぼーっとしてたら、本当にありかがわかっちゃった。そこにきみが来たからもっと驚いたけど」

 校長にとって、よほどの宝物だったのだろう。それをぼくに譲ってくれて――ひょっとしたら校長には、おわびだけではない特別な思いがあったのだろうか。淀野にはもうわかっているのかもしれない。

「先生に教えに行くなんてダルいから紙に書いた。きょうはもう辞書が校長室に戻ったかなってここで見てたら、きみの手に渡っていて、でも早瀬も横にいるぞヘンだなって見続けて……」

「じゃあさ」

 謎はすべて解けたらしい。それでも、まだ訊いてみたいことがある。彼女は水面に、それを見たんだろうか――。

「ぼくの大事なもの、わかる?」

「わからない」

「え……せめてちょっとは思い返してよ。ぼくの近くに見えたことは?」

 風が出てきた。水面にさざなみが立つ。なんとなく、淀野の答えはわかっていた。

 大事なもの。憧れを、愛情をこめたもの――ぼくにはそれがわからない。だからいつもうらやましかった。グラウンドで、笑いながらがむしゃらにかけまわる運動部だとか、教室のすみに集まって、好きなマンガや手書きの絵で盛りあがっている女子たちだとか……。

 勉強は得意だ。頼られるのだって嫌じゃない。でも、それとは別のもの。きっとぼくが見落としているだけで、じつは、すぐ近くに――。それを淀野が解きあかしてくれるんじゃないかと、ほんの少し期待した。

「あっ!」

 いきなり淀野が身を乗りだした。その目が大きく見開かれる。

「見える」

「え、なにが?」

「なにこれ面白い。ええと……」

「待って! 心の準備が」

「すっごい病みポエム」

 興味をなくしたぼくにかまわず、「どれどれ」と淀野は楽しそうだ。

「この子、クラスでなにかあったっぽい……つらくなってきた」

「だれだってつらい」

「わかった!」

 淀野は背すじをピンとのばすと、まっすぐにこちらを向いた。

「古泉くんなら、なんとかできる」

「教室のいざこざを? ぼくが?」

「頭いいし、先生に好かれてるし、なんでもうまくやれそう」

 いやな気持ちはしない。言い返せないうちに「面白そう!」と淀野の声がはずむ。

「わたしが見たものを、きみに教える。持ち主が困ってたら、きみが助けてあげる。これって、なんというか」

「いいコンビってこと?」

「ときどきここで会おうよ。それに、見つけてあげたいし」淀野が笑いかける。「きみの、大事なもの」

 あわい夕闇のなかで、気づけば見つめ合っていた。脈拍がその時間を数える。いったい、いつまで――。

 目をそらさずに、彼女は小さく息を吸いこんだ。

「めがにてる」

「メガ?」

「目が、わたしの彼氏に似てる。転校したからいまは遠距離でさ」

 水面に目を戻す。彼女にしか見えない水鏡。恋人のおもかげを探すなら、はじめからこっちを見ていればよかったのだ。

 そうだ。ほんの少し動きだしたところの、せいぜいこれがぼくの大事な「日常」なのだ。不満なんかない――。そう言い聞かせるみたいに、たぶん母さんからの着信だろう、ポケットのスマホが無表情なトレモロを鳴らしはじめた。

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水鏡にわだかまり 小川なお @ogawa_nao

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