小料理しずか

ゴリ・夢☆CHU♡

小料理しずか

 東京のオフィス街。


 暑い夏の日も、寒い冬の日も、堅苦しい格好で、気難しい顔をした人たちが、忙しそうにあくせくと歩き回る。


 俺も、そんな人たちのひとりだ。


 定年退職までウン十年。

 楽しみがないと乗り切れない。


 俺の楽しみは、幸運なことに、ここから歩いて行ける距離にある。


 今日は金曜、時刻はもうすぐ午後八時。


 今夜はちょっと、あそこで呑み明かしてみようか。


 路地を一つ裏に入ると、人通りはぐっと減る。


 オフィス街には不釣り合いな木造の小さな建物が、コンクリートのビルにはさまれて窮屈そうに建っている。


 三枚の暖簾には、柔らかくきれいな文字で、それぞれ「し」「ず」「か」と書かれている。


 ここが俺の行きつけの、ちょっとした楽しみだ。


 暖簾をくぐり、引き戸を開ける。


「あら、いらっしゃい」


 割烹着を着たおかみさんの上品な声が、俺を出迎えてくれる。


「今日も美人だね、おかみさん」


「褒めたって割引なんてしないわよ。何にする?」


 おかみさんは四十ちょっとくらいらしい。さすがに「二十代に見える」なんて野暮は言わないが、それでも同じ歳の女性に比べればずっと若く見える。


 左手の薬指に光る結婚指輪のお相手が、俺にはとてもうらやましい。


「とりあえずビールと……今日のおすすめ」


「はあい。ちょっと待っててね」


「しずか」というのはおかみさんの名前だ。この店はおかみさんが一人で切り盛りしているらしい。


 旦那さんはというと、ずいぶん昔に亡くなったらしい。もともとこの店も、夫婦でやっていたんだとか。


 おかみさんがたまに見せる寂しそうな顔が、俺にはとても切ない。


「はい、まずビールね」


 居酒屋のそれに比べると少し小さいジョッキに、黄金と白が完璧な比率で注がれる。


 この冷たいビールを喉に流し込むと、一週間の疲れが消えていくように感じられる。


「本当においしそうに呑むわよね」


「本当においしいんだよ。おかみさんが注いでくれたビールだからね」


「調子いいんだから。はい、どうぞ」


 白米と味噌汁、アジの開き、ほうれん草のお浸し、卵焼き。

 日本の夕飯、といった感じだ。


 白米も味噌汁も、特別うまいわけじゃない。アジもほうれん草も、言ってしまえば普通の味だ。


 だが美味い。


 実家でおふくろに作ってもらったような味だ。


 卵焼きを食べる。


 おかみさんはしょっぱい方が好きらしい。


 うちのおふくろのは甘い卵焼きだったが、それでもなんだか懐かしく感じる。


「うめえなあ……」


 思わず声に出てしまう。


「そうでしょ?

 ……死んだダンナも、これ、好きだったのよ」


 おかみさんはそう言って悪戯っぽく笑った。


「なァ、おかみさん」


「なぁに?」


「あのさ、今度……」


 次の言葉が出てこない。


 そりゃそうだ。多少酒を飲んだところでしっかり分かってる。


 今もおかみさんにとって、愛する男はただ一人だ。


「今度は、ビール、ちょうだいよ」


「今度は、って。さっきもビールだったじゃない」


「そうだっけ? まあ、いいからさ」


「分かった。はい、どうぞ」


 おかみさんがお代わりのビールを注ぎ終わると、引き戸がカラカラと音を立てた。


 顔が赤くて丸い、常連のおじさんが、暑いだのなんだのぶつくさ言いながら店に入ってくる。


「いらっしゃい」


「おう。しずちゃん、今日も美人だね」


「そっちのお客さんと同じこと言ってる」


「あら、気が合うね」


「ええ、よく会いますしね」


「何にする?」


「今日のおすすめと、ビールもらおうかな」


「注文まで同じね」


「なんだい、生き別れの兄弟じゃねえだろうな」


 おじさんは愉快そうに笑いながらそう言った。


 しばらくして、おじさんの分のビールと料理が出る。


「おう」


 するとおじさんが、俺にジョッキを向けた。


 俺はそのジョッキに、俺のジョッキを合わせた。


「乾杯」


 俺がそう言うと、おじさんはおかみさんには聞こえないほどの小さな声で、


「俺たちの失恋に」


 と、ニカッと笑って続けた。

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小料理しずか ゴリ・夢☆CHU♡ @heiseicyclone

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