第3話 やかたにすくうもの参
あの八月二十七日のことを言えば、明も後藤も無事だった。それどころか、意識のない後藤を一人で後藤の家になんとか連れ帰ってやったというのに、後藤はそのこと自体覚えていないようだった。後藤には肝試しで何も起こらなかったという記憶しかないようなのだ。新学期のまだ暑さたっぷり残る教室で「化粧台が不気味だったな」とそれとなく話題を振っても、「化粧台? そんなのあったか?俺一階の部屋見てないとこあるのかな~」と能天気に答えるだけだった。そんな後藤を見ていると、あの夜のことは夢だったのかもしれないとさえ思えてくる。肝試しの夜から日が経てば経つほど、恐ろしい出来事は悪い夢だったように思い始めていた。
しかし、明の思いは打ち砕かれる。
新学期始まってすぐの学校は、授業もなく昼前に終わる。まだ夏休みを引きずるような感覚で、生徒たちはぱらぱらとお腹を空かせたまま校門を抜けて帰路についていた。明も他の生徒たちと同じように、今日の昼はそうめんが食べたいなあなどと考えて歩いていた。
「おい」
ちょうど校門を出たところで、背後から声をかけられた。名前を呼ばれたわけではないが、自分の背中に投げられた声に振り返る。そこには壁に寄りかかるようにして立っている男がいた。肝試しの夜に屋敷に現れた怪しい男だった。
「お前に話がある」
男が明に話しかけるが、明はくるっと帰り道に向き直って、進み始めた。知り合いでもなんでもない怪しすぎる男の声に従う気はなかった。
「お前、アレが何か知りたくないか?」
強引に帰ろうとする明に男はさらに言葉を投げる。
「知りたくないか?」
男がもう一度繰り返す。男の目は真っ黒なビー玉みたいだった。
魔が差して男についていった明は、薄汚れた雑居ビルの2階に案内された。エレベーターを降りてすぐのドアにはシノノメ探偵社という剥げかけの文字が見える。中に入ると、古びた臙脂色の革のソファーが二つ向かい合っていて、ソファーの間には低い机が置かれていた。それから、パソコンが置かれたデスクには紙の資料らしきものがうず高く積まれていて、全体的に室内が雑多な印象を受ける。
「ここは俺のインターン先。シノノメ探偵社って言ってるが、専門はバケモノについて」
「いや、お前その前に名乗れよ」
部屋の中を見回す明に男が説明をするが、明からすれば、男も得体が知れないしシノノメ探偵社の説明もまったくわけがわからなかった。
「あー、名乗ってないっけ? 本宮久斗。本物の宮って書いてモトミヤ、久しいに北斗七星の斗でヒサト。年は十七」
「は? 十七?」
「どういう驚きだ、それは」
「いや……大人だと思ってた。老けてるとかじゃなくて、そうじゃなくて、えっと、あっと……大人っぽい! そう、大人っぽいから」
「お前墓穴掘ってるぞ。で、お前は田町明だな」
「……」
当たり前のように言われ、やっぱりついてきてしまったのは間違いだったかと冷や汗をかく。
「個人情報ってのは、俺の界隈だと簡単に扱えるんだよ。ある程度までは治外法権だから。あんまりビビんなって」
「ビビるにきまってるだろ……」
できるだけ距離をとろうとする明に、久斗は肩をすくめて笑った。「まぁ座れ」と臙脂色のソファーを手で示すと、自分はのれんのようなもので仕切られた奥の部屋に消えていく。
「おい、どこ行くんだよ」
「俺にビビってたくせに、居なくなられるのは不安か? 安心しろ、コーヒー淹れるだけ」
からかうような声が部屋の奥から聞こえて、明はイラつきながらも黙ってソファーに腰かけた。しばらくすると、コーヒーの良い香りを携えて、久斗が部屋に戻ってきた。綺麗な仕草で明の前にコーヒーカップとミルク、砂糖を置いて、明の対面のソファーに自分も座った。ちゃっかり自分のコーヒーも用意している。そちらはすでにミルクの色で濁っていた。
「コーヒー飲めない?」
「飲める。いただきます」
「はいどうぞ」
微笑んでコーヒーを飲む久斗は様になっている。それを据わった目つきで見ながら、明もコーヒーを飲んだ。
「おっと、ブラック派か」
「なんだよ、砂糖もミルクも入れそうってことか?」
「そうじゃないって。俺はミルク入れるの好きだから入れるけど、その豆用意してる所長的にはブラックで飲んでほしいらしいから喜ぶと思って。おんぼろ事務所だけど、コーヒーだけは良いやつだから味わって飲めよ」
そういう久斗は、今日の目的を忘れたように、ゆっくり味わってコーヒーを飲んでいる。
「なあお前、俺に何て言ってここに連れてきたか覚えてるか? はやく教えろよ」
明は、あまりに久斗がゆったりとくつろいだ様子なことに、また苛立つ。
「お前じゃなくて、久斗な」
「……本宮」
「久斗な?」
「久斗、教えてくれ」
明がきちんと言葉にすると、やっと久斗はカップを皿の上に戻した。
「明、お前霊感とか感じたことあるか?」
「明って呼ぶな。ねぇよ。幽霊とかおばけ見えたことあるかってことだろ? 生まれてから一度もない。ていうか俺、嫌いだし、そういうの」
「明があの時いた屋敷は、簡単に言うと呪いの屋敷だ」
「だから明って呼ぶな」
明は久斗の馴れ馴れしさを注意するが、久斗はまったく気にせず、続きを話し始める。
「呪いと言っても、何かあったとか、誰かが人為的に作ったとかそういうものじゃない。いや、もしかしたら最初は人為的だったのかもしれないが、ひとまず今はそうじゃない」
「意味がわかんねぇんだけど」
「屋敷の周り、妙に不気味に感じなかったか?」
久斗の問いかけに頷く。明はあのとき早く帰りたくてしょうがなかった。周りも住宅街を通っていたはずなのに、気づけば家はなく不気味は雰囲気を感じた。
「あそこは地形的に溜まりやすい」
「溜まりやすい? 何が」
「まあそう焦らずに聞けよ。簡単に言えば、悪意。悪意を煮詰めて呪いみたいになったものが溜まる場所なんだ。悪意を煮詰めた呪いが、家全体に溜められて、あの家全体がバケモノになってる。明の連れが飲まれた化粧台は、バケモノの口だな。でも決してあの化粧台だけがバケモノではない。家に入った時点でお前らはアウトだったのさ」
「……そのバケモノって何。幽霊とかお化けとは違うのか?」
「この世の怪奇現象は見えないやつが思ってるより複雑なんだよ。幽霊、お化け、妖怪、呪いから生まれた現象……そんなものをひっくるめて俺たちはバケモノって呼んでる。所詮便宜上でしかないけどな。それで、あの家は幽霊でもないし、お化けでもない。人間の鬱屈した感情のごみ箱だ。でもあそこに溜まってくれるなら、それはそれで楽なんだ」
「は? 楽?」
久斗はコーヒーを飲み干しながら、器用に頷いて見せる。
「だって、集まってくれば掃除もしやすい。あれだけの呪いが町中にバラバラある方が面倒だし、人間にとって不幸だ。俺があの日あの屋敷にいたのは、定期浄化のためだよ。二か月に一回あそこで溜まりすぎた悪意を祓うのが俺の仕事のひとつ。あんまり溜まりすぎるとキャパオーバー起こしてもいけないだろ?」
「はぁ……よくわかんねぇけど」
「でも、あの屋敷結構扱い難しいんだよ。だからあの日、明たちがいて正直ラッキーって思ったんだよ」
「ラッキー?」
久斗は微笑を保ったまま言葉を紡ぐ。
「だって、明の腕一本か、あの男の身体一つで鎮められるなら、しばらくバケモノは大人しくなるだろうし、楽でいいやって」
明は久斗がさも当たり前のように言うので、何も言葉を返せなかった。うまいコーヒーを入れてくれたことや、ここまで少し話したことでかすかに薄れていた警戒心が、最初よりももっと強くなったのは間違いなかった。久斗と向かい合っていても、こいつは自分とは違う世界にいる。向かい合っているのに、ねじれの位置にいるような奇妙で寒気のする感覚に襲われた。
「生贄がいれば、たいがいのバケモノはしばらく大人しくしてくれるからな。でも、結果は違った」
「……違った?」
「無事だっただろ? 明ももう一人も」
「……ああ……後藤なんか屋敷であったことこれっぽっちも覚えてない」
「消えたからな」
「消えた?」
「うん、消えた。今度行ってみるといい。しばらくは不気味でも何でもないただの空き家だ。まあ立地が悪いから五年十年したら呪いの家に戻ってるかもしれないけどな」
「何で」
明の問いに久斗が黙る。そして、明の目をじっと見つめた。久斗の黒いビー玉みたいな目は感情が透けてこなくて明を困惑させた。残しているブラックコーヒーに視線を落とすが、その黒さも久斗の目を連想させて、すぐにまた顔をあげた。
「理由はひとつ。バケモノが拒絶された。存在ごと。だから木っ端みじんに吹き飛んで、消えた。消したのはお前だよ、田町明」
「は……?」
「お前、霊感ないって言ったよな? よく思い出してみろ、本当にないか?」
「ない……そんなの、見たことない……こないだが初めてだったんだ。あんなお化けみたいなの……」
「俺あの時言ったよな、明の腕一本か、もう一人の身体でバケモノを鎮めるしかないって。明の霊的なって言うのか? とにかく、力があるから腕一本でいいって言ったんだ。それだけで十分な対価になりうると思った。お前になんの力もないなんて、お前の思い過ごしだ。あの屋敷で初めて見た時から、明がコチラガワの人間だってすぐにわかった」
「何言ってんだよ」
冗談めかして笑おうとするがうまくいかない。さっきまで微笑を浮かべていた久斗はいつの間にか真顔だった。
「お前の力はたぶん封じられてた。でも、その封はあのとき引きちぎられたんだ。もう、意味がない。幽霊も妖怪も何でも見えるぞ、これから」
「……なんだそれ」
「でも、それは明にとっては危険なことでもある。だから提案があって、俺はお前に会いに来た」
久斗の微笑が戻って来ていた。作り物めいた弧を描く唇が言葉を生む。
「明、転校しろ。光陰高校へ来い」
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