第2話 やかたにすくうもの弐

屋敷の引き戸をからからと開き、広い玄関に足を踏み入れる。風が屋敷に吸い込まれるように吹いて、明の身体を舐めていった。靴を脱ぐべきかどうか迷って、ごめんなさいと心で念じながら土足で板敷を踏みしめる。そのまま廊下を見渡すが、後藤の姿はない。ここにいてくれたらすぐ帰れたのに……と思いながら、足を進めていく。襖で仕切られた空間をひとつひとつ開いていく。人のいる気配がないのに、妙に清潔な和室は小骨の引っかかるような違和感と気持ち悪さを明に与えた。

 そろりそろりと足を進めながら、ひとつひとつ襖を開いていく。しかし、どこにも後藤の姿はなかった。廊下の突き当りまで進むと、急な階段が現れる。屋敷は一階の時点で相当気味が悪く、逃げ出したくなるような重たく気持ちの悪い空気が充満していた。しかし、二階はそれの比ではない気持ち悪さだった。ただ勾配の急な階段が伸びているだけなのに、空間が黒く膜が張り、歪んでいるように見えた気がした。

「一階にはいなかったし、行くしかないよな……」

 自分に言い聞かせるように呟く。

「あーもう後藤の大馬鹿野郎!」

 きっと呑気に屋敷見学をしているだろう後藤に悪態をついて、明は一段目に足を乗せた。

 ぎぃっという木造住宅独特の木が軋む音が響く。平均身長程度で体重も軽めな自分が乗って、床が抜けることはないだろうと思いつつ、嫌な音には違いなかった。幅の狭い階段をびくびくしながら登りきると、左右に部屋があった。まず右側の襖を開けてみる。他の部屋と同じように和室で、6畳程の空間には何も置かれていなかった。右にいないなら左しかないと、明は反対側の襖に手を掛けた。明はそこで気づけなかった。状況のおかしさに。後藤が中にいるなら人の気配がしてもいいにも関わらず、左の部屋からは他の部屋と同じように物音ひとつしていなかった。後藤は物静かなタイプではないし、今日はずっと目を付けていた心霊スポットへ訪問して変にテンションが高かった。それなのに左の襖の奥はシンと静まり返っていた。

 一刻も早く家に帰って、のふわふわタオルケットに包って眠りたい明は、そんなことに思いも巡らせず「後藤!」と怒り気味に声をあげながら襖を一気にスパンと開いた。

 結論から言えば、後藤はそこにイタ。

 左側の部屋も右と線対称で同じ形をしていて、畳が敷かれた6畳間であった。しかし、右の部屋には無いものがあった。部屋の中央に鎮座しているのは、古めかしい化粧台だった。三面鏡を備えていて、使わない時は閉じておくのであろう観音開きの左右の鏡はゆるやかに開かれていた。そして、後藤はその化粧台の備え付けらしき椅子に座っていた。

 後藤は身長こそ明と変わらないが、柔道部に所属していて、肩幅はもちろん体躯全体ががっちりとしていた。そのため、白くて派手な装飾の化粧台に向かって座っている姿はとても似合わなかった。

「おい後藤、何してんだよ」

 こちらに背を向ける後藤に、明は苛立ち気味に声をかける。

「なあって」

さらに言い募ろうとするが、後藤からの返事はない。

「ほんとお前、おもしろくないぞ」

 明は一歩二歩と近づいて、それまで後藤自身の姿に隠されていた鏡越しの顔を見ようとした。

「ごとう」

 その瞬間、耳鳴りがわぁぁぁぁぁぁんと明の両耳で響いた。空間が歪むように視界が捻じ曲がる。耐え切れず、明は一瞬目を強く瞑った。次に目を開けた時、後藤は明の目の前から姿を消していた。いや、正確に言えば姿は見えていた。ただ、その姿は鏡の中にあった。

「後藤!」

 明は化粧台の正面の鏡に駆け寄り手を伸ばした。鏡の向こう側になど行けるわけがないのに、なぜかそちらへ行ってしまった後藤を掴んで戻そうと身体が動いた。鏡に手が触れるぎりぎり、あと1センチのところで手が止まる。勢いよく伸ばした明の手首を、誰かが掴んでいた。

「……っ」

 暗い部屋の中、不気味な化粧台、それに取り込まれた友人という異常な空間に突然現れた存在に、明は思考を停止してしまう。すぐに正気を取り戻し、腕を強く引くがびくともしない。

「やめとけ」

 暗がりの中で明の手首を掴んでいるのは長身で黒づくめの男だった。夏だというのに、長そでのシャツをジャケットを着ている。

「屋敷に入った時点で禁を犯している。お前の腕か鏡の中のこいつの身体で鎮めるしかない」

 男は明にはよく分からないことを伝えてくる。明には後藤が今のままでは助からないことだけが理解できた。そうするとどこから力が湧いてきたのか、びくともしなかった男の手を振り払うことができた。そのままの勢いで鏡に向かって手を伸ばした。

 ぐぷっ

 腕が鏡の中に沈む不気味な感覚。低い温度の泥の中に飲まれるようなねっとりとした感触があった。それと同時に鏡の中から黒い靄が染み出して、明の身体全体を包んだ。呼吸がままならなくなり、意識が薄くなっていく。

「馬鹿。本体は鏡じゃない。どっちも逝ったか?」

バリッ

 大きな破裂音が屋敷に響く。薄まる意識の中で、その音は明にも妙にハッキリと聞こえた。次の瞬間、空気が弾ける。黒い靄は霧散して、鏡も割れた。後藤の姿は鏡の中ではなく、部屋の入口にあった。横たわっており、意識はない。しかし、それは紛れもなく実体の後藤だった。

「……お前、祓ったな」

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