貪食の円環

i-トーマ

第1話 猪崎:家

「ちょっと、帰ったんならただいまくらい言いなさい」


 母親の言葉を無視して、彼は二階の自室に行くため、階段に向かった。

 母親は料理の手を止めて、廊下を通り過ぎる息子を見て声をかけた。


「どうしたの? 顔真っ青よ?」


 確かに彼の顔色は、まるで死人のような血の気のない色だった。彼はフラフラしながら階段を上がり、自分のお腹を抱えるようにして歩いていた。


「うるせぇ……入って来んなよ」


 それだけ言って、自室の扉を乱暴に閉めた。

 はぁ、とため息をついて、母親は夕食の準備に戻った。

 まだ反抗期なのか、高校に入ってからも自分のやりたいことを常に優先して行動していた。来年は受験生になるというのに、成績もあまり良くない。子供の人生は子供のものなのだからと、親であってもあまりとやかく言わないようにしてきたが、そろそろ今後を見据えた進路を話し合うことが必要なのかもしれない。


「兄ちゃん、具合悪いの? 風邪かなぁ」


 居間で宿題をしていた下の子が、心配そうに言う。

 弟の正幸まさゆきはまだ小学生だが、対象的にとても素直に育っている。変に影響される前に、こっちにも言っておいた方がいいかもしれない。


「マサ君は、ちゃんと挨拶はしないと駄目よ」

 正幸は母親を見ながら頷き、宿題の続きに戻った。



 部屋に戻った彼、猪崎一成かずなりは、扉をかろうじて閉じたあと、床に倒れ込んでいた。

 自分の体になにが起こっているのかわからなかった。

 腹の中を何かが蠢くような感覚。とにかく不快でたまらなかったが、さらに不気味なのが、痛いわけじゃなく、どことなく痒いように感じることだ。当然、腹の中を掻くことなんて出来ない。スッキリすることのない感覚だけが常に蠢いているのだ。

 そして先程から、手足の感覚が無くなってきていた。力が入らない。ただ歩くだけがままならない。床を這うようにして、なんとかベッドまで進んではいたが、あまり広いとはいえない自室の、すぐそこのベッドまでが果てしなく遠く感じた。

 いや、その考えすらもぼやけていた。自分が何をしようとしていたのか。何をしていたのか。

 何をしてしまったのか。


(あんな事、するんじゃなかった)


 彼の心の中は、後悔と不安でいっぱいだった。この状況に心当たりがあるのだろう。だけどそれはもう手遅れ。取り返しがつかない。そう思っていた。少なくとも彼自身はそう信じていた。


(クッソ、オレだけじゃないだろ。不公平じゃんか。熊野や小鹿、兎口だってそうだろ。違うか!? オレはどっちかっていったら、ただそこに居ただけで、オレのせいじゃない)


 過去の自分の行動を思い出しながら、怒りとも言い訳ともいえない思いが膨らむ、とにかく認めたくない、逃避のための言葉ばかりが浮かぶ。

 そんな考えすらも霞がかって、そのうちに意識を失っていた。



「いつまで寝てんの! 早くご飯食べなさい! マサ君はもうお風呂にも入っちゃったよ!」


 母親が息子の部屋の前で声を荒げる。しばらく待ってみたが、返事は無い。


「入るよ!」


 扉に手をかけ、ゆっくりと引き開けた。思春期な男の子だ。何も言わずに急に開けると、強く拒絶される事もあった。まあそれでも、声をかければ開けてしまうのだが。

 部屋の中は暗い。廊下の明かりが射し込むだけでは、どうやらベッドに居るようだとしかわからなかった。

 手で明かりのスイッチを探り、点ける。明るくなった部屋の中では、かろうじて引っ掛かるようにしてベッドに乗っている息子が居た。そうとう疲れていたのか、ギリギリで力尽きたようだ。片足などベッドから外へ出ている。


「ちょっと、大丈夫? 晩ご飯はやめて、お風呂だけ入って暖かくして寝とく?」


 そう言いながら、背中をさする。

 たったそれだけの刺激で、その体はバランスを崩し、床に転がり落ちてしまった。


「あっ、ごめん……」


 あまりに軽い手応えに戸惑いながら、とっさに謝る。

 仰向けに転がって見えるようになったその顔は、苦しみに耐えられない、悲壮な表情で固まっていた。


 母親の悲鳴が響いた。


 慌てて救急車を呼びに階段を駆け下りる。

 虚ろに開いた目が天井を見上げる。顔だけでなく手も足も固まったように動かない。その腹の辺りが、不自然に蠢いていた。


『チチッ』

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