砂漠のクジラ

葦沢かもめ

砂漠のクジラ

 僕は今、海辺にいる。砂の上に立って見えるのは、海岸のあっちこっちに点在する漁場。ただひたすら広い砂海。砂、それだけしかない。

 そう、ここは陸地であるのだ。見渡す限り砂の海で、見渡す限り空も陸地も海も、すべてが等しくその世界に息づいていた。

 海と浜辺の境界線は、一見しただけでは分かりづらい。しかし砂海の中では一つ一つの砂粒が流動しており、落ちた物全てを飲み込んでいく。

 黄金に包まれた世界には生命の匂いは微塵も感じられず、ただ苦い砂の味だけが口に中に残っている。

「今日も時化てるな」

「砂の流れも悪い。砂嵐が近いかもしれん」

 二人のサブロ人が僕のところへやってきていた。背の高い方はニハチ。もう一人の小太りはキュウロク。奴らの言葉を盗み聞きして必死に覚えて、ようやく分かった名前だ。

 ニハチは僕の腕輪に繋がった鎖を杭から外すと、力任せに引っ張った。鉄の腕輪が皮膚に食い込み、僕は声を上げるのを堪える。サブロ人は、僕みたいな旧人よりも二回り大きな図体をしていて、皮膚は硬い鱗で覆われている。砂漠での生活に適応した新人類だ。

 それからキュウロクは、僕から離れたところで同じく鎖に繋がれて海辺に横たわっていた彼女を引っ張ってきた。彼女も旧人。砂漠に適応できなかった、僕と同じ人類。だけど彼女の言葉は、よく分からない。隠れて教えてもらおうとしたこともあったけれど、彼女は話をしたがらなかった。だから名前も知らない。

「ここも潮時か」

「分からん。船長次第だ」

「あとマグロ三匹ってところか」

「それで船長が満足すればな」

 僕ら二人を鎖で引っ張りながら、ニハチとキュウロクは船へと近付いていた。

 船は山のように大きく、巨体のサブロ人を百人は収容できる。木造の船体には、砂海を長く航海して刻まれた大小の傷が見える。この船は、旧世界の遺跡から掘り出されたもので、「鉄鬼」という船名を付けられていた。

 10人程のサブロ人が、甲板で漁の準備をしているようだ。

 僕らは船の上へと連れ込まれて、船首近くのマストに僕らの鎖を繋いだ。

「よぉし。お前ら、ちゃんと仕事しろや」

 ニハチに頭をもみくちゃにされてから、僕らは二人、甲板の上に放置された。

「......船酔いしたくないな」

 僕の呟きに彼女は一切反応せず、甲板の上に倒れるように横たわった。

「船を出すぞ!」

 船長の大声が轟き、帆布が広げられる。風を受けた船は島を離れ、砂海へと駆け出して行った。

 僕らは、砂海を黙って見ていた。砂海は、どこまでも続く。僕ら二人は、その砂海をいつまでも見つめていた。

 その時は突然訪れた。

「やぁ! 来たぞ! お前ら、こっちだ!」

 キュウロクが、僕らを呼ぶための指笛を吹く。

「マグロ......! 来た......! やった!」

 興奮したニハチが、何人かのサブロ人とともに銛を海面に向かって構えている。

 船の端から海面を覗くと、船と並走する黒い大きな影が見えた。海面から背ビレが顔を出す度に砂塵が飛び散って、砂煙が尾を引いていた。

 誰かの銛が、マグロ目掛けて投げられる。金属音が上がり、マグロの横っ腹に銛が突き刺さる。続けて、もがくマグロの頭に銛が刺さった。マグロの速度が落ちたのが、目に見えて分かった。

 ここからが僕らの仕事だ。

 キュウロクが、指笛で飛び込みの合図を出した。

 僕と彼女は、鎖に繋がれたまま、同時にマグロ目掛けて砂海へ飛び込んだ。砂に触れた感触が脳に届くよりも早く、マグロへ抱き着く。マグロの金属の体は氷のように冷たい。

 それから僕らはスイッチを探す。個体によって、スイッチの場所は様々だ。鰓の中だったり、尾の先だったりする。スイッチを切ってしまえばマグロは大人しくなるのだが、スイッチは小さく、サブロ人の図太い指では操作ができない。そのために使役されているのが僕らという訳だ。

 スイッチの場所は、すぐに分かった。マグロの頭の上、銛が刺さった近くに赤いボタンが見える。

 暴れるマグロに振り解かれそうになりながら、僕は手を伸ばす。

 しかし次の瞬間、マグロが最後の力を振り絞るように海面から跳ね上がり、宙を舞った。不意を突かれた僕は、思わず手を離してしまった。

「クソ」

 砂の海へと落ちていく僕の視界には、次第に離れていくマグロの黒光りした金属光沢を放つ体と、狙いすましたようにマグロの頭のスイッチへ手を伸ばす彼女の姿が映った。



 腕輪に繋がった鎖で船上に引き揚げられた僕は、先に揚げられていたマグロの巨体を横目に見ながら、既に寝転がっている彼女の隣に腰を下ろした。

 砂が口の中でジャリっと音を立てた。



 その日の夜、僕と彼女はいつものように浜辺で鎖に繋がれていた。

「ねえ、まだ眠れないの?」

 僕は、彼女に問いかける。下弦の月に照らされた彼女は、砂の上に足を抱えて座りながら、砂を一掴みしては目の前に掲げて、拳から砂粒が零れていくのを眺めるという不思議な動作を、まるで壊れたアンドロイドみたいに繰り返していた。

 返事は無い。

 でもそれでいいと思う。

「また、明日ね」

 僕は目を閉じる。また明日が来ることを、心の奥底から願った。僕は、きっと彼女と出逢うために生まれたのだ。

 もしかしたら、彼女はこの世界とは別の世界で生きているのかもしれない。けれど。それでも僕は、彼女への想いを止めはしない。



 翌朝も、砂海は時化ていた。だが船長は出漁を指示したらしい。

 またニハチとキュウロクが、僕らを連れ出しにやってきた。昨日と同じ道を港へと引っ張られていく。

 だがその時、僕は違和感を覚えて後ろを振り返った。

「おとなしくこっちへ来い!」

 キュウロクが彼女の鎖を引っ張っているが、彼女は立とうとせずに抵抗していた。あの何を考えているか分からない彼女が、どこの言葉とも分からない声を発して嫌がる素振りを見せている。

「何だコイツは......!? なんでこんなに嫌がっているんだ?」

 戸惑うキュウロクに代わって、ニハチが彼女に歩み寄った。

 彼女の額に大きな中指を当てて、何やら呻いている彼女を凝視した。

「......?」

 不安そうに見守るキュウロクに、ニハチは断言した。

「来るかもしれん」

 ……来る?

「来るって、まさか……」

「クジラだ」

「クジラが、この島に来るか?この辺りで見た奴はいないぜ」

「俺は聞いたことがある。ヒトモドキには、クジラの歌が聞こえる奴がいるんだと。だからクジラが近くにいると怯えだす。昔から漁に使われているのは、それも理由にあるらしい」

「どうする?漁は中止か?」

 キュウロクは不安げに目を細めていたが、ニハチの顔には不敵な笑みが浮かんでいた。

「あの船長のことだ。クジラが来ると聞いたら大喜びするに決まってる」

 ニハチは暴れる彼女の体を軽々と担ぎ上げると、船へと向かって歩き出した。



 僕らはされるがままマストに繋がれ、船は出港してしまった。

 彼女は相変わらず暴れようとしていたけれど、彼女の体はニハチとキュウロクが二人がかりで押さえつけていた。

「ヒトモドキが嫌がる方向へ舵を取れ! 目指すはクジラ、ただ一つ!」

 船長の号令に、船員たちが次々に動き出した。

 そして実際に、彼女の嫌がる声が大きくなるたびにニハチが操舵手に指示を出し、船は次第にクジラに近付いて行っているようだった。

「銛を取れ!」

 突然、マストの上の見張りが声を上げた。

 と同時に、右舷側の海面から何か巨大な影が飛び出してきた。その影は、この巨大な船さえも丸ごと隠してしまうほど大きかった。

「来るぞ! 気を付けろ!」

 そう叫んだのは、ニハチだった。雷雲のようなどす黒い影が海中に沈んだ瞬間、山のような砂波が船に襲い掛かる。

 船は大きく傾き、甲板の上を砂が滑って行く。何人かの水夫は砂海に投げ出されたようだったが、鎖に繋がれていた僕らは、まだ甲板にしがみついていた。

 そして、海面からクジラが顔を出した。

「オオオオオ!」

 体表は夜の闇のように黒い鋼の鱗で覆われており、帆と同じくらい巨大な胸ビレを備えている。口を開けば、船ごと簡単に飲み込まれてしまいそうだ。

 だが、水夫達は戦いを止めようとしなかった。

「総員配置に付け! 銛を放て!」

 船長の掛け声で、銛が次々にクジラへと飛んで行く。だがその硬い鱗に阻まれて、一本も銛は刺さらない。

「でかすぎて無理だぜ、船長!」

 水夫達の表情には、明らかに焦りが見て取れた。

 その時、僕はふと「あのクジラが、救世主なんだろうか」と思った。サブロ人に囚われ、使役されるだけの僕たちを助けに来てくれたのかもしれない。

 そう考えると、僕はいてもたってもいられなくなった。

 既にニハチとキュウロクはクジラにかかりっきりで、暴れている彼女は一人放置されていた。

 僕は隙を見て彼女を抱えると、素早くマストに上る。

「危ない! 早く戻れ!」

 気付いたキュウロクに声を掛けられたが、もう遅い。

 クジラは巨大な砂波を立てながら、僕達のいるマスト目掛けて飛び跳ねた。

「ウギャー!」

 悲鳴の飛び交う中で、僕ははっきりとクジラを見据えていた。

 クジラは大きな口を開いて、マストごと僕ら二人を呑み込んだ。全てが真っ暗になった。



 どのくらい時間が経っただろうか。

 気が付くと、僕と彼女は明るい部屋の中にいた。僕は咄嗟に彼女を抱きかかえた。だが危険は無いようだった。

 まだ眠っている彼女を起こさないようにしながら、僕は部屋の中を観察する。部屋は円形になっていて、壁のあちこちに外の様子が映し出されている。周りは一面穏やかな砂海だった。船の姿は無い。

 そして壁の一角には扉があった。

「これは……?」

 僕が近付くと、突然扉から「謎の声」が聞こえてきた。

「物理キーは必要ありません。扉の前に立てば認証は解除されます。早く安全な部屋の中へお戻り下さいませ」

 半透明の窓から小部屋の中を覗くと、狭い部屋の中にソファが置いてあり、拘束具で人間を縛り付けられるようになっていた。そしてソファを囲むように、怪しげな機械が配置されている。どう考えても、この中に入ることが安全であるようには思えない。

 そこで僕は気付く。彼女が暴れていたのは、この部屋に戻りたくなかったからなのではないだろうか。

 もしそうなら、僕は彼女をここに連れてきてはいけなかった。責任感が、僕の貧弱な心をお構いなしに押し潰す。

 しかし落ち込んでばかりもいられない。僕は、彼女を守らなければならない。

 そのための手段は一つ。僕が代わりにあのソファの上に縛り付けられることだけだ。

 迷いなんてなかった。

 「謎の声」に従って、僕は扉の前に立つ。だが何も起こらない。

 もう鍵が開いているのかとも思ったが、押しても引いても扉はびくともしない。



 そうこうしているうちに、彼女は目を覚ましてしまった。彼女の立ち上がる音で気付いたが、もう遅い。彼女は溜息をついてから、扉へと近付いていく。

 僕は慌てて彼女の前に立って制止した。

「駄目だ。この部屋に入るのは僕だ」

 しかし同時に「謎の声」が、僕の知らない言語で叫び出した。僕は咄嗟に耳を塞ぐ。

 彼女が壁に触ると、「謎の声」は止んだ。途端に静けさが辺りに立ち込める。

 それから彼女は壁に向かって、何事かを喋った。

 するとさっきの「謎の声」が、また僕の分かる言語で話し出した。

「こちらの方は『私の邪魔をするな』と仰っています」

 僕は驚いた。この「謎の声」もそうだが、彼女と意思疎通できる機会が来るだなんて、思ってもみなかったからだ。

 それから彼女は、「謎の声」を介して僕に語り出した。

「私はその部屋に帰らなくてはならない」

「でもこの部屋は、君を拷問する部屋じゃないのか?」

「そうかもしれない。でもその部屋に入らなければ、私は餓死してしまう」

「いや、君はここから出るんだ。僕が代わりにこの部屋に入るから」

 すると彼女は僕を嘲笑うような目で見つめた。

「あなたはこの部屋に入れない」

「どうして?」

「あなたは人間ではない。あなたはアンドロイド。サブロ人が旧人に命じて作らせた、旧人そっくりのアンドロイド」

 面白い冗談だ。彼女にこんなユーモアがあっただなんて、僕は初めて知った。

「そんなはずはない。僕は君と同じ旧人だよ。見た目だって変わらないだろう?」

「でもあなたは、あの太陽で焼かれた灼熱の甲板の上で平気な顔をしていたでしょう? 私が暑さにやられてぐったりしている横で」

 僕は何も返答することができなかった。何かがおかしいことに気付いたからだ。僕が頭の中で、自分がアンドロイドなのではないかと疑うと、次の瞬間にはそれを忘れてしまっていた。

「私たち旧人によって、アンドロイドは自らが旧人であると思い込むようにプログラムされている。いつか旧人がサブロ人に反抗する時に、アンドロイドには旧人の味方をしてもらうために。結局、サブロ人に勝つことはできなかったけれど」

 そう言って、彼女は扉の前に立った。静かに扉がスライドして口を開けた。

「待ってくれ。聞きたいことがある」

「一つだけなら」

 扉の向こうのソファを見つめる彼女の瞳は、虚無に満たされていた。もう彼女の心は、あのソファの上でくつろいでいるように見えた。

「君はここにかつて居たんだろ? ここが嫌だから外に出たんだろ? それなら外に出ることを諦めちゃいけない」

 彼女は再び溜息をついた。

「このソファに座ると、私はこのクジラになれる。薬を打たれて、頭が空っぽになる。そして何処かから聞こえる指示に従って、サブロ人の乗っている船を沈める。そしたらまたマグロ達が、サブロ人の船の場所を教えてくれるから、また沈める。それの繰り返し。それが旧人の選んだ、サブロ人への最後の対抗策であり、生存戦略。それが嫌だったから、私は家出した。

 でも、あなたにここへ連れてこられて、またあのソファが目に入った時、私はほっとした。鎖に繋がれて、熱い甲板の上で丸焼きにされ、砂まみれになってマグロを止める毎日よりも、このソファの上で一生を溶かす方が百倍マシだって思った。ああ、そうか。これが私にとっての最大の幸福だったのかって気付くことができた。ありがとう」

 彼女は微笑みを顔に貼り付けて、その小部屋へと入っていった。扉は音もなく閉じた。

 僕が小部屋の窓から覗くと、彼女がソファに腰掛けるところだった。ソファを囲む機械は命が吹き込まれたようにランプを灯し、まずは彼女の頭を銀色のヘルメットで覆う。続けて、腕輪の付いたままの細い腕に沿ってアームが伸び、幾つもの腕輪が彼女の腕を捕らえていく。華奢な胴体も、傷だらけの脚も、金属の鎧で覆われていく。彼女にとっての幸せを、僕はこの目に焼き付けた。

 僕は彼女を止められなかった。僕と彼女はずっと近くにいたけれど、その間には広大な砂海が広がっていたことを、今知った。そしてもう既に、彼女の心は鋼の鎧の下に隠されてしまった。

 太い鳴き声が響いて、クジラが速度を上げる。



 閉じた扉の前で呆然と立っている僕に、さっきの「謎の声」が話しかけた。

「あなた様はどうされますか?」

「……帰ろうかな」

「その前にお一つ、ゲームでもどうでしょう。私、長いこと一人遊びばかりで、退屈していたのです。ご存じなければ、ルールもお教えしますから」

 僕が答える前に、壁からテーブルがスライドして現れた。その上には使い込まれた盤と駒が乗っている。大分やりこんでいるらしい。

 僕は、彼女が居る小部屋の扉をちらりと見遣る。時が止まったみたいに、扉は閉じたままだった。

「そんな気分じゃない」

「気になるなら、データを見ますか?」

 「謎の声」は、壁に表を映し出した。海の中の砂粒のように沢山の数字がラベルと共に羅列され、数字は目まぐるしく変化し続けていた。

「ちょうど今、薬を注射したところです。血中濃度がこれから徐々に上がっていきますよ。ゲームが一局終わった頃には、この辺まで上がります。あとですね、船を沈める時には心拍数が上がったりするんです。おっ、海馬のニューロンが発火しましたね。何か思い出してるみたいです。人間の体というものは神秘の塊ですよ。興味深いでしょう?」

 目の前に広がる、彼女の数値。目まぐるしく変わっていく数値は、まるで彼女が僕に語りかけてきているみたいで、僕にはその言葉の一つ一つが愛おしく思えた。

「では帰る前に、ちょっとだけ」

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砂漠のクジラ 葦沢かもめ @seagulloid

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