カボチャの種が食べたくて

藤花スイ

第1話

 昏い水底にいる。

 一寸先も見えないほどの闇。その中でふよふよと遊んでいる。

 水がひんやりとしていて気持ち良い……。このままずっとここにいたい……。とても静かだ……。

 ぐぅー。突然、お腹が鳴った。その瞬間、飢餓と思えるほどの空腹感がやってくる。……このままでは死んでしまう。どこかへ、行かなくては。はやく、行かなくては。

 必死で水を掻いて進んでいくと、遠くに光が見えた。

 僕は迫り来る飢餓感から逃れるために何度もなんども腕を回し、足をばたつかせて前へと進んで行った。

 もうすぐ……、もうすぐだ……。自分にそう言い聞かせながら無我夢中で動いているうちに僕の意識は薄れていった。


 いつのまにか白い部屋にいる。全部が真っ白で、白くないものがない。僕は白いテーブルに肘をつき、白い椅子に座っているようだ。

 目の前には絶世の美人がいる。いることはわかるけれど、なぜか顔を見ることができない。でも、それで良い。そういうときがあっても良いと思う。

 いつからそこにあったのだろうか。テーブルの上には小皿があり、カボチャの種が入っている。美人が手にとり、口に運び出す。ぽりぽりぽりぽりぽり……。音が聞こえてくる。始めは訝しく思っていたのに美人が刻むリズムが段々と心地よくなってきた。彼女がとても喜んでいるのがわかる。それなのに相変わらず顔は見れない。

 あまりにも美味しく食べるものだから、惹きつけられる。

 よし、僕も食べてみよう。そう決意した瞬間、あの飢餓感がまた襲ってきた。

 我慢できない!

 僕はカボチャの種を鷲掴みにし、口の中いっぱいに放り込んだ。もっしゃもっしゃもっしゃもっしゃ。香ばしさと共に旨味が溢れ出てくる。

 あぁ……。本当にうまい……。空腹は最高のスパイスだ。こんなにうまいものがあるなんて……。僕はカボチャの種を何度も口に運び、思うがまま咀嚼していった。

 食べていくうちに段々と種が大きくなっている。さっきまでは手のひらで何十個もの種をつかんでいたはずなのに、今は一個の種を両手で持っている。種ひとつひとつの重みを全身で味わうことができる。なんと幸せなことだろう。一個の種でこんなにも満足できる! ひゃっほう。僕は愉快になってきて大声で叫ぶ。

「もきゅ、もきゅー!」

 あれ、声が変だなあ……。不思議に思いながらも、僕はのぼせ上がった。

 前を見てみると、目の前には見事な白いハムスター……。あぁ、あの美人さんだ。いまは顔がはっきりとわかる。ぽりぽりとカボチャの種を食べている。

 そうだ。そうだ。僕もハムスターなんだ! 僕は頬袋に種がいっぱいに詰まっている幸せな感覚に突き動かされ、器用に四本の肢を使いながら全力で走り出す。

 からからからからから。回し車をまわすまわすまわす……。僕は世界最速だ! 僕は世界一幸せなハムスターだ!

 美人のハムスターが出すぽりぽりという音と、僕が車を回すからからという音が奇妙に混ざり合って白い部屋の中で反響し、この世界一面を硬質な色で染め上げた。



 目が覚めた。

 長年使っているタオルケットの感触、硬くて高い枕⋯⋯。いつもの部屋だ。カーテン越しに入ってくる明るさから推測するに十時頃だろう。昨日は夜九時には布団に入ったので十三時間ほど寝ていたことになる。

 長時間寝ていたおかげで体の調子は良い。官能的で楽しい夢を見ていたような気がするが、よく思い出せない。夢には心に残り続けるものとそうでないものがある。今回は残らなかったようだ。

 僕はベッドから出て遅めの朝食を準備することにした。冷蔵庫を開けて中を見てみると、消費期限間近のしらすがあった。好物のしらすトーストを作ることにしよう。

 僕は食パンをトースターに乗せて熱をかけ始めた。まずは上面をしっかり焼く。こんがりと焼いて、表面がパリッとしたトーストが好きだ。やりすぎ一歩手前くらいが美味しい。

 上面にしっかりとした焼き色がついてきたらひっくり返してまた焼く。急いでいるときはこのまま具を乗せてしまっても良いが、パンのカリカリ感は出てこない。

 表面がカラカラになってきたらパンを取り出す。まずは薄くマーガリンを引いて、次にマヨネーズをかける。しらすが良いもののときはマヨネーズはない方が良いのだが、今日は安物だ。構うことはない。

 マーガリンとマヨネーズが表面に塗られたら軽く胡椒をふり、たっぷりとしらすを乗せる。好みでチーズをかけてもいいが、今日は買い置きがないので諦める。

 しらすが乗ったパンを再度トースターに入れ、また焼く。パンの耳がちょっぴり焦げたら完成だ。

 しらすトーストが出来上がるのを今か今かと待っているうちに、自分がひどく空腹であることに気づいた。……そうだ。昨日は家に帰ってからご飯を食べようと思っていたのに、疲れすぎていてすぐに眠ってしまったんだった。お腹が減っている。早くトーストを食べたい。

 トースターのじりじりとした音がキッチンに響いている。いつのまにかパンが焼ける匂いも漂ってきて食欲をそそる。もう少し、もう少しの我慢だ。

 トースターの中で徐々においしくなっていくパンを見ているうちに、なぜかもっと固くてぽりぽりとしたものを食べたくなってきた。小さくて、緑色で、ちょっぴり繊維質な……。

 チーン。トースターから音が鳴る。良い感じだ! 僕は思考を放棄し、できあがったばかりのしらすトーストをお皿に置いた。

 小声で「いただきます」と言って食べ始める。カリッとした食感の中にしらすのふわふわ感が混じっていて心地よい。海の栄養を凝縮したような旨味に唾液が引き出されてくる。

「うま……」

 香ってくる胡椒の存在感が頼もしい。どんどんと食べ進めていくことができる。

 昨日の昼はオイルサーディンのパスタを作ったはずだ。イワシ様々だなぁなんて感謝しているうちに、いつの間にかしらすトーストを食べ終えてしまった。もっとゆっくり味わいたかった。でも良い。また作ろう。

 おいしかったとはいえ、トーストを一枚食べただけだ。足りるはずもない。次はなにを食べようかなぁと考えていると、頭の中に種が五つ浮かんできた。これはカボチャの種だ。そう気づいた瞬間、猛烈にカボチャの種を食べたくなった。

 食べたことはないはずなのに気持ちが止まらない。あの緑の物体を食べてみたい。

「カボチャの種を食べてみたい」

 そう呟きながら僕はシャワーを浴び、着替え、外に出かけた。


 意気揚々と家から出てみたものの、カボチャの種がどこで売っているのか知らない。とりあえず最寄りのスーパーに向かって僕は道を進んで行った。

 セイレーンの加護があるカフェを通り過ぎようとしたとき、携帯が鳴った。画面を見てみると『ラッキー』と表示されている。

 彼の名前は前嶋良太。口癖が「ラッキー」であるため、こんなあだ名になってしまった。厚かましくて面倒なところもあるが一番の友人だ。友達値も高い。

 この友達値というのは僕の頭に直感的に浮かんでくる数値のことで、値が高い人ほど僕と感性が合い、心が通じやすい。この値が一定以上の人のことを僕は友人だと思っている。あまり話したことがなくても、少し目が合っただけでも、友達値が高ければみんな友人だ。相手がどう思っているかも関係ない。自分と似た空気の人の存在を思い浮かべるだけで僕は力強く立つことができる。

 そんなことを考えながら電話に出ると、ラッキーの快活な声が聞こえてくる。

「おい、ユージン。振り返って、右後ろの方を見てみろよ!」

 言われるがままに来た道を振り返ってカフェの方に目をやると、店の中に手を振りながら電話をするラッキーがいた。僕はそのまま電話越しに語りかける。

「そこにいたのか、ラッキー。偶然だな。何しているんだ?」

 そう問いかけると、ガラス越しのラッキーが得意そうな顔になって話出す。

「これからお茶会に行くんだ。まだ時間があるから暇つぶししてたらユージンが通りかかってさ。ラッキーだな!」

 学科の先輩たちと行うおしゃべり会が今日もあるらしい。面倒なことになる前に早く立ち去ったほうがいいな……。そう思っているうちに、電話が切れてしまった。店からきびきびした動きのラッキーがやってくる。

「で? ユージンはいま何してるんだ? どうせ暇だろう? 一緒に大学行こうぜ!」

 しまった。一手遅かった。だけど、ラッキーは話せばわかるやつだ。

「それが今日は暇じゃないんだよ。どうしてもカボチャの種を買いに行きたいんだ。ラッキー、カボチャの種がどこに売っているのか知ってるか?」

 できるだけ真剣に伝えたつもりだが、ラッキーはお腹を抱えて笑いだしてしまった。

「ユージン、何言ってるんだ? そんな真面目な顔してさ。でも、まぁいいよ。暇ってことだよな?」

 僕はもう一度「暇じゃない」と否定して、自分の真剣さをラッキーに説明してみた。何度か目をパチクリさせたあと、ラッキーは「本当にまじなのか?」と呟きながら目を伏せた後、頭を掻いて応えた。

「わかったよ。じゃあ、今日の会合が終わったら一緒に探してやるからさ。何時間かの辛抱だ。なんでそんなに焦っているのかしらないけど、カボチャの種は逃げないよ。探すにしたって二人のほうが効率いいだろう?」

 僕は「図々しい奴だな」と口にしながらラッキーの肩を横から軽くはたいた。

「よし。じゃあそういうことでいいな。それにこれは悪い話じゃないんだよ。今日は久しぶりに紋子先輩がお茶会にくるんだからな」

 いつもの得意げな顔でラッキーが話す。


 紋子先輩はとても美人な先輩で、学科の二大マドンナの一人だ。かわいいのエミリー先輩にキレイの紋子先輩……。男が多い僕らの学科の中で二人の存在は輝いている。煌めいている。知的で奥ゆかしい紋子先輩と、フレンドリーで元気なエミリー先輩。僕はもちろん紋子先輩派だが、ラッキーはエミリー先輩派だ。

 いつものようにラッキーと先輩たちの話をしようと思ったが、不思議なことにテンションが上がってこない。紋子先輩のことよりもカボチャの種のことが気になって仕方がない。僕はさっと踵を返しながら、つぶやくように言葉を発する。

「そうなのか……。でもやっぱりいいよ。カボチャの種を探しに行かないと」

 そんな僕の様子を見て、ラッキーが心配そうな顔になる。

「おい、ユージン。お前大丈夫か? なんかあったか?」

 僕は、自分がいつもの自分ではないような感覚を持ちながらも「いや、なんもないけどさ」と言った。

「それならいいが……」

 うつむきながら神妙な顔を作ったラッキーだったが、すぐさまこちらに一歩踏み出し、厚かましくも晴れやかな笑顔を向けてくる。

「やっぱり一緒に行こう! ってかお願いだから一緒に来てくれ。本当はラムダ先輩にお前のことを連れてくるように言われてたんだけど伝えるのをすっかり忘れていてさ……。それに、これはエミリー先輩から聞いたことだけど、今日のお茶会にお前がくるのかどうか紋子先輩が尋ねていたらしいぞ。とにかく、俺の顔を立てると思ってくれ。お前がすぐにカボチャの種を探しに行きたいのは分かったけど、お茶会の時間くらいは俺に貸してくれ」

 そこまでラッキーが言うのなら……。僕は「しょうがないなぁ」と呟いて、ラッキーが差し出した手に強くタッチした。

 ラッキーの顔をよく見てみると、信頼のこもった笑顔を浮かべていた。

「ラッキー!」

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