ありふれたメガネ
ねぎま
第1話
「世界は今、とんでもない方向に向かおうとしているのかもしれない!」
突然、そんな世迷い言が浮かんだわけじゃない。
あまりに非科学的で、俄に信じられないことなのだが、勿論それなりの根拠がある。
しかし『時すでにおそし……』の可能性が高いのは承知だ。とりあえず何らかの行動に打って出ないことには埒が明かない。
俺はいても立ってもいられず、ここ数日間、自分に起こっている現象、事象――あるいは不思議な体験とでもいおうか――をとにかく一刻でも早く誰かに打ち明けるべく、友人Kと合う機会を持った。
Kは、大学時代からの付き合いで、お互い社会人になってからも一年に二、三回は会って酒を酌み交わす何故か馬の合う友人だった。
呑むのはいつも決まって、二人が通った大学があった街の最寄り駅から、裏道に一歩入ったところにひっそりと暖簾を掲げる、いわゆる隠れ家的な小料理屋だった。
五十代と思われる女将とその旦那さんの二人で切り盛りしている。
決して料理が美味しくないということではないし、さほど繁盛しているとは言い難いところがなおのこと気に入って、もうかれこれ十年以上通い続けている馴染みの店だ。
私は少し早めと店に入り、旬の魚を盛り合わせた刺身をつまみにKが来る前から一杯やっていたところに、やや遅れて友人が店に入ってきた。
挨拶もそこそこに、友人はお品書きを見ることなく「いつもの」とだけ、カウンターの中の女将に向かって注文をした。
女将も「はい、いつものね」と、一言だけ。程なくして彼の好物の肉豆腐と燗酒がすぐに私達が陣取っている小上がりに運ばれてきた。
女将は「ごゆっくり」とだけ言ってカウンターの中の調理場に戻っていく。
「で、話ってなんだよ。まあ、俺の方でもお前に話があったから、こっちから連絡しようと思っていたところだったんで、手間が省けてちょうどよかったんだがな」
Kはそう言うと、塗り箸で器用に肉豆腐を四等分に切り分けて、その一欠片を口に持っていった。
そして美味そうに喉に送り込んだ。
「なあ、K。お前最近なんか良いことなかったか? それもかなりビックリするような出来事というか、前の人生においての分岐点にあたるほどの、そんな大きな出来事がさあ」
それを聞いた途端、それまで好物の肉豆腐をつまんでいたKの箸がピタッと止まった。
「おまえ……、何か俺の女房から何か聞いたのか?」
「は? お前のかみさんから? いいや、M江さんとはもう一年以上電話を含めて話していないけど、どれがどうしたっていうんだよ」
「そうか……。あのな、実を言うと今日お前に話しがあるっていうのは女房にも関わってくる話なのだ。実を言うと、結婚以来八年間出来なかった赤ん坊がやっと出来て、今女房のお腹の中ですくすく育っているころだ」
それは、初耳だった。Kと奥さんのM江さんとは結婚して長いこと子供が出来ないことの愚痴を何度も聞かされていたから、さぞ嬉しかったことだろう。
一時は離婚寸前までいったこともあったと彼が漏らしたこともあった。
「ほんとうか、いやあおめでたい話じゃないか。心からおめでとうと言わせてもらうよ」
「ああ、そう言ってもらうとなんだか照れるものだな、ははは……」
しかし、そう話すKの顔は笑っているどころか、顔面蒼白だ。また怒りで頭から湯気が噴き上がるかのようにも見えたリもして、俺には情緒不安定な形相にしか見えなかった。
ただし、正確には俺のメガネを通してそう見えただけだったと言ったほうがいいだろう。
「でも、お前、女房に聞いてないならどうして? まだ互いの両親にも報告してなっていうのに」
「そうだな。確かにお前が訝るのも分かるよ。信じてもらえないかもしれないが……。ああ、そうだ。子でもが出来たこと意外にも驚くようなハッピーなニュースがあるんじゃないのか?」
「驚いた。お前もしかして、的中率百%の占い師か、預言者にでもなったのかよ。正にそのとおりだよ。ここだけの話しに留めておいてほしいのだが……、実はおめでたの知らせをかみさんから受けてから、気まぐれで宝くじを買ったら驚くなかれ、一等が当選してな。豪華マンションは無理だが、郊外に小さな一戸建てを帰るくらいの当選金額を手に入れたんだ」
「しうか、それは重ね重ねおめでとう」
「ちなみに、お前には奥のテレビで流れているニュース番組のアナウンサーの表情はどんなふうに見えている?」
Kはヒョイと後ろを振り返って、しばらくテレビを見てから俺の方に向き直って言った。
「ああ、なんか悲惨な交通事故があったらしいな。アナウンサーは悲痛な表情でニュース原稿を淡々と読んでいるようだが、それが何か?」
カウンターの奥の壁に掛かっているテレビでは、夕方のニュースをやっていて、その中で男のアナウンサーが満面の笑みを浮かべながら、一家四人が乗った乗用車が対向車線からはみ出してきた大型トラックと衝突して大破、家族四人共即死だったと話している。
「そうだろうな、それが普通だろうな。だがな、俺にはそのアナウンサーがニコニコしながら……、いや今にも笑い転げそうな勢いでニュースを読み上げている映像が見えているのだ。正しくはこのメガネを通して見るとそう映るのだが」
「お前、俺をからかっているのか? さっきの予言めいた発言といい、公共の電波で笑い転げながら、事故のニュースを読み上げる局アナがどこの世界にいるっていうんだ」
事情を知らないKなら、当然の反応だ。
俺はメガネの柄の部分に指を添えてKの疑問に答えた。
「実は、このメガネなのだが……」
「メガネ? いつも掛けているメガネと同じやつじゃないか。それがどうした?」
「ああ、そのとおり。五年ほど前に買って、それ以来ずっと愛用しているメガネだ。だがな、このメガネ普通のメガネじゃないんだ。いや、正しくはある日突然……、俺も未だに信じられないんだが、ここ数日の経験したことから鑑みるとどうやら、このメガネ、とんでもない代物に突如変化というか、豹変したっていうか……、とにかくここ数日間、俺は常に恐怖に慄く日々を送っているのが現状なんだ」
「はあ? どうもお前の話は要領を得ないなあ~。一体全体そのメガネがどうしたっていうんだよ」
Kは少し声を荒げ、テーブルに肩肘をつけて俺に詰め寄るような態度で言った。
彼の気持ち大いに分かる。しかし、論より証拠。Kに実際、このメガネを掛けて見える世界を体感してもらうのが一番手っ取り早いと判断した俺は、ニコニコしながら俺ににらみを睨みつけるKにメガネを渡して、テレビの映像を見るように勧めてみた。
大して度の強くないメガネだ。Kが使ってもおそらくぼやけて見えることもないだろう。もしかしたら他人が使う時は度数など関係なくなるのかもしれない。
Kは用心深く俺のメガネを掛けて、テレビの画面を見つめた。
画面では、水遊びをする幼児たちと、それを見守る家族の微笑ましい映像が映し出されていた。画面が切り替わり、先程の男のアナウンサーが公園で水と戯れる幼児の映像をバックに口元を緩めて、穏やかな声色がテレビから流れてくる。
俺は、Kに向かってアナウンサーの表情はどうだと問うてみた。
するとKはしばらく、俺の声が聞こえないかのように押し黙っていた。
「マジカよ! あのアナウンサー頭がどうかしたんじゃないのか? 眉間にシワを寄せて今にも怒鳴りそうな形相で、家族が無邪気に楽しんでいるニュース原稿を呼んでいやがるぞ! 信じられない、ほんとマジか、これって?!」
Kの反応は予想していたとは言え、すこし大仰に感じられた。
「要するに、このメガネを通して見える景色や映像は、事実とは真逆のことを伝えているってことでいいのか?」
「ああ多分。信じたくないが、それが事実だ」
「それが本当なら――いあ、それを今確認した俺が言うのもなんだが――俺たち夫婦に赤ん坊が授かったこと以上に、えらく大変なビッグニュースじゃないか!?」
「いあ、お前ら夫婦の間に出来た子供のほうがビッグニュースだろう」
「いやいや! 家が一軒建つどころの話じゃ済まされないだろう。世界的な話題になるぞ、このメガネ」
Kはメガネを外すと、上から下から、そして右から左から、盛んに目を凝らしてその変哲もない普通のメガネを観察している。
俺は、Kの態度が落ち着きを取り戻した頃合いを見計らって、現在最も憂慮していることをKに打ち明けてみた。
「最近のニュースに限ったことでは無いんだが、このメガネを通して見る世界の人間たちが、揃いも揃って上機嫌で、常に笑顔を絶やさず、ハツラツとしているのがどうも気になって……。なにか、途轍もなく悪い出来事が近々この地球上で起きるような気がしてならないんだ」
すると、Kから受け取ったメガネを掛けると「まさかそんな事……」と真っ青な表情のKが、手にしたグラスをガタガタいわせ、満面の笑みを浮かべている姿がメガネ越しの俺には見えた。
〈おわり〉
ありふれたメガネ ねぎま @komukomu39
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