第29話 恋という名の病
それからいくつかの季節が過ぎた。
その間、鹿内さんは私のよき家庭教師として、ずっとサポートしてくれている。
私は大学受験の為の勉強に集中するため、鹿内さんへの恋心を封印することにした。
無事大学受験に合格して成果を表す、それこそが真剣に勉強を教えてくれている鹿内さんへの唯一の恩返しだと思ったから。
梅の蕾が少しづつ花開くころ、いつもの図書館で私は再びある人と出会った。
美也子さんだ。
今日はくびれたウエストを強調した黒いニットのワンピースをさりげなく着こなしている。
「つぐみちゃん、元気にしていた?」
美也子さんは相変わらず、華やかな美しい笑顔で私に声を掛けた。
陶器のような肌によく映える、ベージュ色の口紅がつやつやと輝く唇を、私はみつめていた。
「・・・お久しぶりです。私は元気です。美也子さんも・・・お元気でしたか?」
私はそう言って小さく頭を下げた。
「ええ。随分真面目に勉強しているのね。」
「はい。大学受験がもうすぐなので、すごく緊張しています。」
「そっか。大学受験か・・懐かしいな。私も早慶大学に入るために、予備校に行ったり図書室で勉強したっけ。私、図書委員だったから優先的に読みたい本を借りることが出来たの。」
・・・鹿内さんにも、優先的に本を貸し出してあげたりしたのだろうか?
高校生活を共に送った鹿内さんと美也子さんの姿を思い浮かべて、私は胸が締め付けられるように苦しくなった。
どうして私はそこにいなかったのだろう。
私だって鹿内さんと同じ高校に通い、同じ校舎で学び、同じ空気を吸いたかった。
鹿内さんの悲しい過去を共有したかった。
鹿内さんが一番辛かった時、何も出来なくても、ただそばにいてあげたかった。
恋をすることは楽しいことばかりではないということを、私は鹿内さんと出会ってから学んだ。
美也子さんや大学にいる綺麗な女性達、そして過去に鹿内さんと付き合ったという女性達、自分以外の全ての女性達に向けた嫉妬という醜い感情が心を真っ黒に焦がし、いてもたってもいられなくなる時がある。
美也子さんは私の隣の席に腰かけて、すらりとした細く形の良い足を組んだ。
美也子さんの黒いハイヒールは、私がまだまだ子供なんだということを思い知らされた。
ところで今日はなんの用だろう?
私の胸いっぱいのクエスチョンマークが顔に出ていたのか、美也子さんはクスリと笑った。
「弘毅は元気にしている?」
「・・・はい。」
同じ大学なのに、鹿内さんとまったく会わないのだろうか?
すると美也子さんは前置きもなく、唐突に私にこう告げた。
「私ね・・・完全に振られちゃったの。弘毅に。」
「そ、そうなんですか・・・。」
以前、初詣のときに鹿内さんから、美也子さんとは付き合っていないことは聞いていたけれど、なんとなくそのことには触れちゃいけない気がして、その後の詳しい事情を何ひとつ聞かされていなかった。
私は美也子さんに、何と言っていいか分からなかった。
「つぐみちゃん。もう少し私の話につき合ってくれる?」
「はい。もちろん。」
私は机に並べていた参考書とノートをカバンの中に仕舞った。
そして私と美也子さんは人気のない図書館の中庭にある黄色いベンチに移動した。
「ごめんね。大事な勉強時間を邪魔しちゃって。」
「いえ。私も少し休憩しようかなって思っていたところでしたから、全然気にしないでください。」
私は冷たい空気を肌で感じながら、美也子さんの口から吐き出される言葉を待っていた。
「・・・私は3人兄弟の一番上なの。2つ下の妹と一回り離れた弟がいてね。
妹は良く言えば自由奔放で天真爛漫。
悪く言えば素行が悪くて、夜中になっても家に帰って来ないことなんてしょっちゅうあった。
両親は共稼ぎでいつも忙しかったから、手のかかる妹の世話はずっと私の役目だった。
だから私はいつでもいいお姉ちゃんじゃなきゃいけなくて、いつの間にか家でも外でも優等生キャラを演じていた。
両親にはもっと私を見て欲しかったし、かまってほしかった。誰かに思い切り甘えてみたかった。」
私はひとりっ子だから、漠然と妹や弟が欲しいと思っていた。
でも兄弟がいることで感じる痛みというのものもあるとこのとき知った。
「しばらくして小さな弟が出来ると、今度はその弟が両親の愛を独り占めするようになったの。
もちろん弟は可愛かったけれど・・・やっぱり淋しかったわ。
だから勉強も部活動も頑張ったし、委員会活動にも力を入れた。
その甲斐あって、学校ではマドンナなんて呼ばれたりもしたっけ。
男子からも何度か告白されたけど、みんな子供っぽくみえて、誰にも心が動かなかった。」
「・・・・・・。」
「そんなある日、ちょっとだけ冒険してみたくて通学路をいつもと違う道に変えてみたの。
そしたら運悪く他校の不良に絡まれて・・・そのとき弘毅が私を助けてくれたの。
脱げてしまった片方のローファーを拾ってくれて・・・ああ、この人が私の王子様なんだって思ったわ。
だって片方の靴を拾ってもらえるなんて、まるでシンデレラみたいでしょ?」
「・・・素敵な思い出ですね。」
私は鹿内さんと美也子さんのロマンチックな出来事を聞いて、内心のショックを表情に出さないことに苦心した。
「弘毅が実家ではなく伯父さんの家で暮らしていることを風の噂で知ったわ。
家庭環境が複雑なんだろうなってことはすぐに理解出来た。
同じ淋しさを持っているもの同士、仲良くなれないかなってただ単純にそう思った。
そして弘毅に少しづつ近づいていった。」
「・・・・・・。」
「弘毅のお姫様になりたかった。王子様に求婚されるシンデレラ姫のように。
・・・でも弘毅には、もうその頃には自分だけのお姫様がいたのね。」
「お姫様・・・。」
鹿内さんの心を独占していたお姫様って一体どんな女性なんだろう。
その人が心底羨ましい。
「あの日、つぐみちゃんにお願いしたあの白い封筒の中には、ライブのチケットを入れておいたの。
関係の進展のきっかけにならないかなって思って。」
それも知っていた。
私はこっそり見てしまったから。
「でもね。弘毅来なかった。ラインでこう送ってきたわ。
・・・お前とは付き合えない。だからこういうことはもうやめてくれって。」
「・・・・・・。」
「あとね。こうも書いてあった。つぐみを巻き込まないで欲しいって。」
「・・・・・・。」
あの夜、鹿内さんは帰って来なかったから、てっきり美也子さんと一緒にいるものだと勘違いしていた。
「私、未練がましく、どうしてって返信したの。」
「・・・・・・。」
「そうしたらね。もうずっと前から心に決めた子がいるんだって。
きっとその人が弘毅のお姫様なんだと思う。」
またもや私の身体の中心が熱い痛みを持ち、それがじわじわと胸いっぱいに広がった。
まるで毒が塗られた鋭い矢でハートが撃ち抜かれたような衝撃が全身を駆け抜けた。
・・・ずっと前から心に決めた子・・・
それって熱く秘めた想いを募らせている相手のことだろうか?
だからどんな女性にも冷たくしているの?
「それってつぐみちゃんのことじゃない?」
「・・・え?!わ、わたしですか?」
「弘毅を変えたのはつぐみちゃんだと思うから。」
「鹿内さんを変えた?」
「弘毅、女性に対する態度が柔らかくなったわ。
前は女性と話すとき、苦虫でも潰したような顔をしていたもの。
彼なりに女性への苦手意識を克服しようとし始めたんだわ。」
私が男嫌いを治そうとしていたのと同じように、鹿内さんも努力していたの?
「でも・・・それは私のことじゃないと思います。
私が鹿内さんと知り合ったのはつい最近のことですから。」
そう言いながらも、その相手が自分ではないことを再確認して落ち込んでしまう。
「でも、弘毅のこと、どう思う?」
「どうって・・・」
「嫌い?なんとも思ってない?」
「・・・好き・・・です。」
私は自分の気持ちを言葉として形にしてしまった。
私は、鹿内さんのことが、好きだ。
いますぐ会いたい。
声を聞きたい。
私だけにいつもの笑顔を見せてほしい。
「そう。」
美也子さんはベンチから立ち上がると、私の耳元でこうささやいた。
「その気持ち、弘毅にぶつけてみたら?」
そう言うと、美也子さんはニッコリとほほ笑んだ。
「私は思い切り振られて、なんだかスッキリしちゃった。長い夢から覚めたような気分。
今度は私だけをみつめてくれる王子様を探すつもりよ。」
私も思い切って告白してちゃんと振られたら、鹿内さんへの恋心を諦めることが出来るのだろうか?
それとも叶わぬ恋をいつまでも抱いて、そのまま歳を取っていくのだろうか?
鹿内さんが私の知らない誰かと幸せになるのを、黙って見ているだけなのだろうか?
鹿内さんは私のこと、どう思っているのだろう。
私のことをいつも可愛いと言ってくれるけれど、それは妹としてだと思う。
妹がいきなり女の顔を見せたら、きっと鹿内さんは私から逃げ出してしまう。
そんなの絶対に嫌だ。
「恋とは熱病のようなものである」と言ったのはフランスの有名な小説家だっただろうか。
私はいま、まさにその熱病にうなされているのだ。
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