1話
綺堂美夜は吸血鬼である。しかし血を吸ったことはない。
血を吸わなければ吸血鬼の能力を満足に発揮できない以上、美夜はまだ吸血鬼ではないとも言える。せいぜいハーフヴァンパイアというところだろう。
だから美夜は血を吸うべく日々がんばっている。
問題は美夜が吸いたくなるような血が義兄の衛士のものだけであり、衛士がなんとしても血を吸わせようとしないことだった。
美夜は夢を見ている。
青い水の中をお魚の群れが泳いでいる。
揺らぎ戯れ交差する魚たちのきらめきは、まさしく夢のように美しい。
幻のようでもあり、いつかどこかでこんな光景を見たような気もする。
美夜は吸血鬼化する前の記憶を持っていない。
吸血鬼になりたての頃を思い出すと美夜は怖くなる。
心が空っぽで、死んだように過ごしていた。本当に死んでいるのだけれども。
もしかしたら自分の魂は死んだときに消えてしまい、悪魔に乗っ取られた血も涙もない化け物が今の自分なのかもしれない。
でもお兄ちゃんにだけは心を動かされた。
お兄ちゃんに接したら、もう自分は死んでいるのに心臓がどきどきしてしまって、これは吸血鬼の本能がお兄ちゃんの血を求めているんだと思った。
だのにお兄ちゃんは血を吸わせてくれない。むかつく。
血を吸えない代わりにお兄ちゃんの持ち物をかじっていたら、なんだかモノクロの心に色がついてきた。
昨日はパーカーとシャツをかじった。水色のパーカーとイルカが描かれたTシャツ。銀色のお魚たちと一緒に見たことがあるような気がする。
新鮮なお魚、おいしいのかな。ずっと牛ばかり食べてきたけれども。
ぎゅるるるる
午前三時、美夜は自分のお腹が鳴る音で目を覚ました。恥ずかしすぎる。これも義兄のせいで血を吸えていないからだ。
「お兄ちゃん、マジむかつく」
脳裏に浮かんだ義兄の顔に悪態をついてから起き上がる。
深夜な上に遮光カーテンを閉めているので部屋の中は真っ暗だ。
しかし明かりをつけなくても美夜にはよく見える。
耳をすませば壁の向こうから義兄の安らかな寝息もよく聞こえてくる。チャンスだ。寝ている義兄から血を吸ってやる。
パジャマ姿で自室から出た美夜は、隣の部屋の前に陣取る。義兄である衛士の部屋だ。扉にはステッカーが何枚も貼られていて、これが問題だった。
ステッカーには「Gガード」のトレードマークが描かれている。Gガードといえばテレビで宣伝している有名な商品、GはグリーンのGでゴブリンのG。ゴブリンは体長三十センチ程度の小さな魔物で、あちこちに入り込んでは悪さをする嫌われ者だ。Gガードはゴブリン避けに便利なグッズで、よく宣伝していてホームセンターの売れ筋らしい。
ステッカーには「痛みを与えず追い返すセーフティタイプ!」とのキャッチコピーも踊っている。
美夜が扉に近づくと、魔法陣の紋様がステッカーの表面に浮かび上がる。紋様は多重円と複雑な記号で構成されていて、ゆっくりと回転し始める。
それに伴い、美夜を押し返す力が生じた。美夜がステッカーへと近づくほどに力は強まって、美夜は扉に触れることができない。対魔物結界が働いているのだ。
「負けないもんね」
通販で買った塗料スプレー缶を美夜は取り出す。
隠ぺい力が高いという能書きの黒色スプレーだ。
美夜はスプレーを構え、気合を込めて狙いをステッカーに定め、缶のてっぺんの赤い部分を押す。ガスの抜ける音と共に黒い塗料の霧が扉に吹き付けられる。
扉にべったりと黒い塗料が付着した。
「やった!」
しかしステッカーに付いた塗料がたちまち流れ落ちていく。よく見ればステッカーに塗料は届いておらず、球形の空間に阻まれている。
美夜はぽかんとした。
彼女は知らないが、ゴブリンの中には比較的知性が高い系統も存在していて、飛び道具で結界を潰そうとしてくることがある。Gガードはそんな行動にも対策してあり、接近する物体に対する物理結界も張る二重ガードが売りなのだ。
「これぐらいで負けないもん。しゃきーん!」
美夜は続いてバールを取り出す。これも通販で購入したものだ。
ステッカーからできるだけ離れた扉の縁にバールの爪を近づける。
Gガードの発する物理結界からの斥力でバールの動きがぶれる。
しかし対魔物結界と比べれば物理結界の効果範囲は狭い。
美夜はバールをぎゅっと握りしめて力をこめる。
扉と部屋の隙間にバールの爪が食い込んだ。
美夜は自分の体重をかけて扉をえぐろうとする。
いきなり扉が開いて、美夜はすっころんだ。びたんと廊下に張り付く。落としたバールが転がって派手な金属音を立てる。
「いったああい!」
「大丈夫か……」
呆れた衛士の声が美夜の上から降ってくる。
「大丈夫じゃないもん! ひどいよお兄ちゃん!」
衛士が差し出した手を掴み、歯ぎしりしながら涙目で美夜は起き上がる。
「真夜中に大声を出すなよ。それとなあ、Gガードには警報機能もあるんだよ。接近すれば俺に教えてくれるんだ。夜中だとサイレントモードで光るだけだから美夜は気が付かなかったんだろうけど」
衛士が諭すように言う。
美夜は頬を膨らませる。
「だからなに! わかってたなら普通に開けてくれればいいじゃない!」
「普通じゃなく入ろうとしていたのは美夜だろ」
衛士の顔を見た美夜の脳裏に、銀色の魚群のイメージが蘇る。
「そうだ、お魚の夢を見たの」
「は?」
「夢に出てきたお魚を見に行きたい」
「魚屋か? 魚は好物じゃないと思ってたけど」
美夜はさらに頬を膨らませる。
「そうじゃなくて! きらきらきれいなお魚がたくさん泳いでるの! そういう場所に行きたいの!」
衛士は頭をひねり、
「……水族館か? 前に一度行ったことがあるよな」
「連れてって、今すぐ」
衛士は眉根を寄せる。
「おいおい、今何時と思ってるんだよ」
「知ってるでしょ。夜が明けてから出かけるのはまぶしいから嫌」
美夜はつんとした態度だ。
「ううむ。そりゃそうだが」
衛士はうなる。
美夜は吸血鬼として半端なので日の光を浴びても消滅したりはしない。でも熱いしまぶしいし、日の光なんて嫌いなのだ。
「お願い、お兄ちゃん」
「……仕方ないな、わかったよ。でもまだ早すぎるからちょっと待ってろ」
美夜は満足する。お願いすれば衛士はいつも美夜のために動いてくれる。心の底から美夜のことを考えてくれていることは美夜にもわかっている。だから美夜は衛士を…… でも、でも血は吸わせてくれない……
「お兄ちゃん、大嫌い!」
「な、なんで!?」
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