大好物はお兄ちゃん

モト

0話

 家は不気味に静まり返っていた。

 もう日は暮れているのに窓は真っ暗だ。

 留守番をしているはずの義妹はどうしているのか。

 嫌な予感が俺を襲う。


 学校からの帰り、義妹から頼まれた買い物を済ませるのにずいぶん時間がかかってしまった。

 ずっしりと重い買い物袋のビニールが手に食い込んで痛い。


 扉を開き、ただいまと叫ぶ。

 義妹からの応えはない。

 廊下のところどころに付着しているのは茶色い染みだ。

 まさか、あいつが。


 暗闇に目が慣れてきた俺は慎重に歩を進める。

 魔物の気配を感じる。

 あいつは必ずどこかに潜んで俺を狙っているのだ。

 それでも自分の家から逃げるわけにはいかない。


 暗く寒々しい廊下はまるで敵意に満ちたダンジョン。

 あいつはどこだ。

 罠があるのではないか。

 俺は強い緊張を強いられる。


 歴史の授業で習ったところによると、昔々の冒険者たちは剣や魔法の杖を手に迷宮の地下深く潜っては魔物と戦っていたそうだ。

 科学が発展した現代にもなって同じような体験をするとは。

 ただし俺の手にあるのは武器ではなくただの買い物袋だが。 


 俺は廊下を進む。

 床板に足をゆっくりと下ろしたつもりだったが、ぎしりと軋む音が響く。建付けが悪い。

 音に反応する気配。

 空気が張り詰める。

 

 ごくりと唾を飲み込む。

 床に買い物袋を置き、リビングに通じる扉をできるだけ静かに開く。


 リビングはほとんど真っ暗だった。

 今日は月夜だというのに、なぜ光は窓から差し込んでいないのか。


 照明のスイッチを押すが反応はなく部屋は暗いままだ。

 スマホをライトのモードにして、リビングの入口に置く。手持ちしていると明かりを目印にして狙われる恐れがある。


 スマホの光に照らされてリビングの有様が浮かび上がった。

 窓には紙らしきものが貼り付けられていて光を塞いでいた。

 テーブルがあるはずの場所には平らな段ボールが散乱している。

 段ボールの上には点々と染み。

 いったいここでなにがあったのか。俺は戦慄する。


 小さくかわいらしい花のようだった義妹の姿が脳裏に浮かぶ。

 あまりにも可憐で、臆病で、出会ったときには俺を怖がって隠れてしまった。

 なんとか本当の兄妹らしくなりたいと努力した日々が走馬灯のように脳裏を巡る。


 ともかく窓を元に戻して外光を少しでも取り込もう。

 俺は散乱する段ボールを踏み通って窓に近づこうとした。

 肩にごく軽い衝撃。生ぬるく濡れる感触。集中していたから気付けた。


 上からだ!


 俺は全力で飛び込み前転。

 そこにあいつが落ちてきた。俺をかすめて段ボール上に着地。

 あいつめ、天井に張り付いてきたのか!


「きゃっ!」

 めりめりと音がして段ボールと共にあいつが沈む。

 段ボールの下には穴があった。あいつは自分で掘った落とし穴に落ちたのだ。

 リビングに穴を掘るとは……

 あいつは深い穴にすっぽりとはまってしまって、手を伸ばしても上まで届かないようだ。

  

 窓にガムテープで貼られていた段ボールを俺はべりべりとはがす。

 月明かりが入ってきて部屋の中が少し明るくなる。


「ねえ、お兄ちゃん、出れないよお」

 穴の中からかわいい声。


 俺は穴の中をのぞいてため息をついた。

 少女が困り顔で俺を見上げている。困りたいのは俺のほうだ。


「早く引き上げてよお」

 俺をたった今襲撃したばかりだというのに、さも当然と言わんばかりに俺の方へと手を伸ばしてくる。


 俺は仕方なくその手を掴んで引き上げる。少女の白くきれいな手が土に汚れてしまっている。


「お前なあ…… 床に大穴を開けやがって。無茶苦茶だ」

「なんで落ちてくれないの。板をはがして穴を掘るの大変だったのに」

「落ちたらお前に血を吸われるだろうが!」

「だって…… お兄ちゃんはあたしの大好物なんだもん」


 這い上がってきた少女は口からよだれをたらし、布地の切れ端を咥えている。

 どこかで見た布地だ。

 はっとして俺は自分の肩を見る。着ていたパーカーとシャツの肩部分がきれいに丸く抜けていた。噛み取られたのだ。

 あと少し避けるのが遅ければ、俺の肩に食らいつかれていただろう。俺の背筋に冷たい汗が流れる。


「もうちょっとだったのに」

 少女はそう言いながら布地をもしゃもしゃと咀嚼する。


 少女は長くつややかな黒髪に妖しい美しさの顔立ち、緋色に光る瞳で俺をにらみながら口からは大きく鋭い犬歯をのぞかせる。白く透き通るような肌がなまめかしい。

 そう、これが我が義妹の美夜。人間からヴァンパイアに変わり果てた姿だった。

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