第27話
しまった、村長の家がどこにあるのかわからない。適当に歩いていれば、誰か顔見知りに会うだろう。それに、そんなに広い村ではない。村の中心あたりの大きい家を探せば、それが村長の家に違いない。
宴をした広場では、小さい子供たちが遊んでいた。その中にルネとデカルトとスピノザの姿もあった。スピノザは地面に何か絵を描いていた。きっと絵を描くのが好きなのだろう。ヒッポカンポスの絵も上手だった。ルネとデカルトはその横で人形遊びをしていた。
妻も人形遊びが好きだった。小さい頃、買ってもらえなかった反動だと彼女は言っていた。やたら家中を人形で埋め尽くし、人形の服や家を自分で作るのが好きだった。女の子というのは、いくつになってもそういうことが好きなのだろう。
『だから、子供にも……』
不意に妻の声が頭に響いた。
頭が痛い。また、この頭痛だ。
「大丈夫?」
いつの間にか、ルネが心配そうに僕を見上げていた。
「具合が悪そう。ねえ、ママ」
ルネの隣に、長い煙管をくわえた女が立っていた。彼女の母親だろう。どこかで見た顔だが、どこで見たのか思い出せない。彼女は水を汲みに行っていたらしく、水の入ったバケツを持っていた。
「顔が赤いわ。熱があるのかしら」
女が僕の額に手を当てる。
「やだ、冷たい」
彼女はすぐに手を引っ込めた。
「あなた大丈夫? ルネ、シモーヌを呼んできて」
ルネは頷いて駆け出した。
「大丈夫ですよ」
「全然大丈夫に見えないわ。あなた、ちゃんと自分の名前は言える?」
何を行っているんだこの女は。僕は平気だ。
「僕の名前は……」
不意に頭痛が襲ってきた。頭がぼんやりして、自分の名前が思い出せない。
「僕は40歳の物理学者で……それで……」
「本当に?」
女が驚いた声を上げる。耳障りで、顔をしかめた。
「あなた、その姿で40歳なの?」
何を言っている。どう見たって、僕は――。
彼女が持っていたバケツを覗き込むと、20歳くらいの頃の僕の顔があった。
「なんだこれ」
思わず声をあげた。
そんなはずはない。僕はちゃんと博士課程まで出て――。
博士論文のテーマは何だった?
査読は誰が?
何故か記憶がおぼろげだ。
「本当に大丈夫?」
ブリキのゴミ箱でもかぶっているみたいに、女の声が反響して聞こえた。
頭が痛い。
もう一度、バケツを覗く。今度は10歳位の男の子が見えた。
「ひえ」
僕は腰を抜かしてしまった。
自分の掌を見てみる。砂だらけで、シワシワだった。年寄りの手だ。
「あなたはどこの誰?」
妻の声が聞こえる。顔を上げても、彼女の姿はない。
「本当に結婚なんてしていたの?」
「どこだ、どこにいる?」
突然、聞こえるはずのない声に反応した僕に、周りの人々は怪訝な顔をした。それでもかまわない。彼女の手がかりがあるなら、幻聴でも何でもいい。妻を探したい。
「都合良く思い出を書き換えていない?」
足がもつれて転んでしまった。頭を打った拍子に、幻聴が聞こえなくなった。
「記憶が……記憶が……」
今度はうなされるような自分の声が、他人の声のようにずっと聞こえていた。
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