第26話
おかしい。
この村、いや、この島はおかしい。天使の村といい、あのメッセージといい、何かがおかしい。
あのメッセージは一体、なんなのだろうか。あのメッセージを掘った人間は何処へ行ったのか。訊いてみたいが、相手を間違えたら最後、僕はどうなってしまうのか考えただけで震えてしまう。
ここは思っていたよりも楽園ではないかもしれない。今までの僕は楽天的すぎたかもしれない。そうなってしまうほど、天使の侵略は恐ろしかったのだ。
寝台を元に戻した。
「おはよう」
入り口からシモーヌの声が聞こえたとき、びくりと体が震えた。
気付かれたか――。
「どうしたの?」
シモーヌの足音が家の中に入ってくる。心臓の音が聞こえやしないかと不安になった。
「おはよう。今起きたところだよ」
立ち上がろうとしたとき、寝台がずれて彫られた文字が丸見えになっていた。
背後にシモーヌの気配がする。
しまった――間に合わない。
「きゃ」
僕は振り返り、シモーヌをベッドに押し倒した。
「何するの。真面目な顔して」
口ぶりは怒っているようだったが、抵抗はされなかった。彼女が何を勘違いしたのか知らないが、彼女に文字を見られる前に、どうにかして彼女の視線をそらさねばならないと真剣だっただけだ。
シモーヌは目を閉じた。掌が汗ばんでゆくのを感じる。
「緊張してるのね。奥さんがいるのに悪い人」
彼女の笑う様子は、とてもチャーミングだった。
「よっ」と言って、シモーヌは僕の腕からすり抜けて寝台から飛び起きた。
「オイタはだめよ」
シモーヌは唇に指を当て、くるりと振り返った。
汗が落ちて、土の地面に染みを作った。まだ心臓が飛び跳ねている。彼女からは、僕の体が邪魔で文字は見えないはずだ。
シモーヌが小走りに家から出ていく。
彼女の姿が見えなくなってから、大きくため息をついた。同時に汗が吹き出す。
「そうだ」
再び、彼女が入り口から顔を出した。ため息が途中で引っ込んだ。
「ど、どうした」
僕は体をビクリと震わせた。
「用事があってきたんだった」
そのまま入ってこようとしたので、逆に僕が彼女の方へ近付いた。彼女と寝台の対角線上を移動して、見えないようにした。
「体調はどう?」
「まあ、悪くないね」
「そう。顔が赤いけど」
「そ、それは……ちょっと、君が魅力的だから」
思ってもいないことを口にするとき特有の、口の重さが僕の体にかかる重力を感じさせる。
「まあ」
シモーヌは僕のおでこを突く。疑ってはいないようだ。
「嬉しいけど、私も夫がいるのよ」
「へ、へえ。残念だな」
もじもじしながら、シモーヌが僕の耳にささやく。
「黙っていても良いのよ」
全身からブワッと汗が吹き出す。それを見て、彼女はうふふと笑った。
「あとね、村長が呼んでるわ。さすがに一ヶ月もいなかったんだもの。心配していると思うわよ」
「わかった」
「本当は私も心配したの。だって、あなたにはここにいてほしいから」
彼女はモジモジして僕を上目遣いに見た。僕は乾いた笑いで返してしまった。
早くシモーヌに帰ってほしいのに、彼女は僕の顔をじっと見つめて動かない。
「着替えるから……その……」
促すと、残念そうにシモーヌは家から離れた。
ふう、と今度こそ大きなため息をつく。早く寝台を元の位置に戻さないと。
「よお、兄弟」
寝台を押そうとしたとき、また入り口から声がした。この声はプラトンだ。
「なんだ」
振り返る勢いで、タオルケットを文字の方へ投げた。ちゃんと隠せているか確認していないが、なんとか上手くいっていることを祈るしか無い。
「おい、兄弟。後ろのそれ……」
プラトンが僕の背後を指さした。彼にしては珍しく、表情がこわばっている。
くそ、隠すのに失敗していたか――。彼と戦っても勝てる自信がない。なんと言っても、彼は筋骨隆々で、漁師のリーダーだ。
なにか武器を探した。しかし、この家には武器に使えそうなものは何もない。
これまでか――僕は目をぎゅっとつぶった。
プラトンが震える手を僕の方へ伸ばした気配がした。
「それ、シモーヌの髪飾りじゃねえか……?」
「え?」
目を開くと、プラトンが何かを掴み上げた。見覚えのないそれは、恐らく、先程僕がシモーヌを押し倒したときに落としたものだろう。壁の文字が見られたわけではなさそうだ。
「ち、違うんだそれは……」
思ってもいなかった展開にしどろもどろになってしまった。それが逆に彼の疑惑を確信に変えてしまったようだ。
「兄弟よぉ。俺はおめぇのことを信じてたんだぜぇ」
嘘みたいに彼の目から大粒の涙がポロポロ零れた。
「正直に答えてくれ兄弟。おめぇ、シモーヌと寝たのか?」
髭面の大男が、滝のように涙を流しながら直視してくるこの状況、一体なんだ。気を抜いたら笑ってしまいそうになる。
「誓って言うが、あー兄弟。僕はシモーヌとは何もない。僕の妻に誓って本当だ」
僕も真っ直ぐに見返して言った。プラトンは再び雄叫びを上げながら大粒の涙をこぼすと、僕に抱きついてきた。
「よかったぜぇ、兄弟よお。誤解してすまなかったなあ」
強烈なハグで咳き込んでしまったが、それでも離してくれないあたり、この男の人柄が出ているなと思った。悪い人間ではないのだろう。ちょっと感情的すぎるだけで、今まで僕の周りにはいなかった人種だ。なかなか慣れそうにない。
「ああ、理解してくれてよかったよ」
プラトンは服をめくると、裾で顔をゴシゴシと拭いた。
「それで、シモーヌの髪飾りがなんでこんなところにあるんだ」
「ああ、たった今、彼女は僕の調子を見に来たところなのさ。一ヶ月もいなくなっていたらしいからね。ついでに、村長が僕を呼んでいるんだって言いにきたのさ。そのときに落としたんじゃないのかな」
「なるほどなあ。そういやあ、兄弟はしばらく姿を見なかったな。何処行ってたんだ」
「山の向こうの村さ。行ったことあるかい?」
「いや、ねえな。俺達にとって、山の向こうは禁忌だからよ」
禁足地というわけか。なんとなく、納得した。ソクラテスのような人間でさえ、むこうには行ったことがないというのだから、相当な禁忌なのだろう。それに、この村が彼らとは交流がなく、文化も人種も何もかも違うのは、そのせいなのだろう。だからこそ、天使たちはあそこに居を構えることにしたのかもしれない。
「どうして、禁忌なんだ?」
尋ねると、プラトンは首をひねった。
「そういやあ、なんでだろうな。昔っからの決まりごとってことくらいしか、わかんねえなあ」
「行ってみたいと思ったこと無いのか?」
「ねえなあ。それより、この髪飾り、俺から返してもいいか?」
プラトンが髪飾りを持ち上げてみせる。
「ああ、むしろそうしてくれると助かる。僕はシモーヌの家を知らないし」
「よっしゃ、じゃあちょっと行ってくるわ」
プラトンはスキップでもしそうな勢いで家から出ていった。まだ訊きたいことはあったのに、彼は早くシモーヌのところへ行きたかったようだ。彼の誤解を解けてよかった。それと、あの様子では、彼は妻には興味はないだろう。その点も安心した。あの宴のとき、妻が彼を見る目は男を見る目だったのが、気になっていたのだ。
それにしても、立て続けに彼らがやってきたのには参った。壁の文字が見られなくてすんで良かった。
振り返った僕ははっと息を呑んだ。とっさにタオルケットを投げて壁の文字を隠したつもりだったが、タオルケットは文字のある場所から外れていた。そこに文字があると知っていればわかる程度だが、確かに隠せているわけではなかった。プラトンは気付かなかっただろうか。あれだけ涙を流していれば、よく見えなかったはずだ。
寝台を動かして壁の文字を隠す。また誰か家に入ってこないかドキドキした。
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