第24話




 雨の中、お腹の大きな妻が僕を睨みつけている。僕に向かってなにか叫んでいるが、雨の音がうるさくて聞こえない。それでも、妻は僕を強く責めているのはわかる。


 僕は妻を殴った。我を忘れて何度も。何度も。


 妻は地面に伏し、股から血を流していた。


 それを、猫がじっと見つめていた。




 天使の村から戻った翌日は、よく晴れた日だった。村の男たちは、漁に出ていた。僕は砂浜に座って、その様子を眺めていた。


 昨日はあのまま、僕は一度も振り返ることなくこの村に逃げ帰ってきた。どういうわけか、トンネルは行きのときほど長くなく、山もどう走ったものかわからないままに村に戻ってきていた。気がつけば日はとっぷりと暮れ、村人は皆、寝静まっていた。汚れた服は捨てた。


 僕はいつも肝心な時に逃げ出してしまう。何一つ、有意義な情報を持ち帰れなかった。船に乗っていたほかの漂着者から、もっと話を聞くべきだったし、あの謎の少女にも話を聞くべきだった。でも、僕は逃げた。


「これじゃあ、まるでおとぎ話じゃあないか」


 浦島太郎の話を思い出して、僕は自嘲気味に笑った。


 あれきり、天使の村のことは思い出さないようにしていた。少しでも頭をよぎるだけで吐き気が襲ってくる。


 戻ってきたてから、ヘルヴィムには悪いことをしたなと反省した。彼なりに気を遣って僕を村に案内してくれたのに、彼を置いて逃げてきてしまった。もし、また今度会えるなら謝罪しようと思った。


 あの子供のことが、頭から離れなかった。あの顔、妻にそっくりだった。妻はなにか知っているだろうか。もしかしたら、妻の親類の子供だったのかもしれない。


 そこで、ふと僕は気付いた。妻の家族のことを何も知らなかった。彼女に兄弟姉妹がいるのかも、両親が健在であるかどうかも知らない。僕と妻は、ほとんど駆け落ち同然に結婚したのだ。


 当時の僕は、まだ大学院の博士課程に在籍しており、将来なんて何も見えなかった。今どき、博士課程を出れば研究者になれるなんて夢物語だということは知っていた。日本中に、どれだけ博士号と関係ない仕事をしている人間がいるのかも知っていた。それでも、僕だけは違うと思っていた。論文を提出し終わって、最後の公聴会も無事に終わり、博士号を取得した僕に、進むべき道はなかった。大学を去った僕は、ただの無職の大人だった。そんな僕を、彼女の両親は認めないだろう。だから、僕は彼女を連れて逃げたのだ。その後、運良く研究者としての仕事にありついたので、挨拶くらいは行けばよかったかもしれないが、いまさらと妻が笑うので、僕もなあなあにしていた。


 深いため息をついた。子供に怯えて、一体何をやっているんだ僕は。肝心なことが何もわからないまま帰ってきてしまったではないか。結局、この島がどんな島で、天使の村の村人たちが何者なのかわからない。


「おじさんは大人なのに漁に行かないの」


 いつの間にか、ルネが背後に立っていた。


「間抜けが漁に出たら死んじまうもんなあ」


 暇なのか、ソクラテスも子供にくっついてきていた。今は彼の相手をしていられるほど元気がない。無視することにした。


「やあ、ルネ。デカルトも」


 彼女の後ろには、隠れるようにデカルトが立っていた。体格差が大きいので隠れられていないが。


「おいおい、俺のことは無視かよ。俺だって、お前の心配はしたんだぜえ。またどっかで溺れてるんじゃねえかってなあ」


 いやらしい笑いを浮かべる。


「僕はね、まだ許されていないんだ」


「儀式がまだなのね。一ヶ月も姿が見えなかったから、もう儀式を済ませたと思っていたわ」


「一ヶ月だって?」


 僕は驚いた。この子達が僕を担いでいるんだと思った。思わず、ソクラテスの方を見ると、やつはニヤニヤ笑いを張り付けたまま僕を見下ろしていた。


「そうよ。デカルトがすごく心配していたんだから。ねえ?」


 デカルトがブンブンと頷く。勢いが強くて風がきた。ソクラテスに比べたら、まだデカルトのほうがずっと信用できる。彼が嘘を行っているようには見えない。


「僕が向こうの村に行っていたのは、一日だけだよ」


「嘘よ。一ヶ月いなかったわ」


 この島はきっと赤道に近いのだろう。一年中常夏の島では、季節感による時間経過はわかりにくい。だから、彼女が言っていることが本当かどうかは判断しづらい。本当だとしたら、やはり僕は浦島太郎になってしまった。


 彼女らが嘘をつく理由も思い浮かばなかったが、そんな非現実なことを、すぐには信じられなかった。


 ルネは腕を組んで仁王立ちした。ふくれっ面が子供らしい。デカルトはおどおどしてはいたが、やはり嘘をついているようには見えなかった。


「こんな健気な子供たちを疑うなんて、お前は心が汚れてんなあ」


「うるさい」


 僕とルネが同時に言った。僕はともかく、ルネに言われたことがショックだったらしく、ソクラテスはいじけたように背を向けた。


「本当なのか……。僕は岩場にいるヘルヴィムという男と一緒に、山の向こうの村に行ったんだ。そんなにたっているなんて……」


「博士も、一ヶ月いなかった」


 デカルトがおどおどしていった。「まだ、いない」


「おいおい、良いなあ。俺も行ってみてえなあ。今度つれてってくれよ」


「勝手に行けよ」


 ソクラテスが天使の村に生きたがるのは意外だった。


 まだヘルヴィムは戻ってきていないということか。彼らがもし天使だったとしたら、このおかしい現象も説明がつく。そうだとしたら、僕は早くこの島から逃げなくてはならない。だから、天使の村の村人たちは早くこの島から出て行けと言ったのではないか。


 もし、ではないだろう。恐らく彼らは天使か、それに類する存在だ。僕の中の勘がそう告げている。


 しかし、どういうわけか、この島の天使たちは人間と共存しているようだ。哲学者の村の村人たちは、天使には見えない。つまり、ここにいても安全なのではないかという希望が頭をよぎる。


 とはいえ、いつ天使が掌を返して哲学者の村を滅ぼすかもしれない。考えれば考えるほど、不安が脳裏を焼く。


「この島は安全かい?」


 こんな子供に訊いてどうする。どうかしている。


「当たり前じゃない。ここは世界一安全よ」


 ルネが胸を張って答えた。


 今の僕には、子供にすがることくらいしか出来ないのだ。

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