第2話




 目を覚ますと知らない天井があった。


 最初、この島で目を覚ましたとき、僕はまだ夢の中にいるのだと思った。寝台から見える窓の向こうは穏やかで、この島は、外の世界の地獄のような惨事とは無縁に見えた。僕たちが日本を出発したときは冬だったはずなのに、気候は暑いくらいだった。まるで『大災害』以前のように穏やかだ。


 なぜ、僕はこんなところに寝ているのだろうか。記憶を巡らせてみる。


 ボンヤリとした頭痛が、僕の思考を邪魔しようとしたが、それでも、頭蓋骨の裏側にこびりついたような恐怖は忘れられなかった。


 僕たちは、未曾有の大災害から逃れて『箱舟』に乗ったのだ。


 僕たちは、残った人類を載せた最後の希望。ここはその終着点だろうか。船は目的地に着いたのか。


 僕が寝ている建物は、壁は木で出来ており、屋根は茅葺きのようになっていた。簡易な南国風の家だ。キョロキョロと見回すと、自分が寝ている寝台の横の壁に、小さく文字が掘られているのが見えた。目を凝らしてみると、「この島から出るな」と掘られていた。これは一体何だろうと思って、指で文字をなぞろうとした時、背後から猫の鳴き声が聞こえた。振り返ると、入り口に誰か立っていた。浅黒い肌で、下半身はスカートのような腰布を巻いているが、上半身は裸でやたら派手なビーズを連ねたアクセサリをいくつも首から下げている。顔には独特の化粧を施しており、頭には布を巻いていた。こういう格好を、ケニアで見たことがある。すると、ここはアフリカのどこかだろうか。


「目を覚ましたか。大丈夫か? 言葉はわかるか?」


 浅黒い肌の老人が家に入ってきて、僕の顔をのぞき込んだ。彼はいくつかの言葉を操り、そのうちの一つが日本語だったので返答できた。何か国語も操るなんて、きっと彼は偉い立場に違いない。こんな未開の地の部族は、どうせ低能の快楽主義者だと思っていたが、そうではないようだ。


「ここはどこですか」


 そういった瞬間、自分の言葉が、どこかで聞き覚えがある言葉に感じた。ずっと遠い昔に聞いたような、つい最近だったような、そんな奇妙な気分だった。


 起き上がろうとすると、体中が痛んだ。


「無理をするな。随分ひどい怪我だ」


 かけられたシーツのような布をどかすと、左足の太ももが包帯でぐるぐる巻きにされていた。折れてはいないようだったが、触ってみるとひどく痛んだ。足だけではなく、体中が包帯だらけだった。


 寝台は岩で出来ているのかと思うほど堅くて、改めてみると、家は南国のリゾートのようだった。もしくは図鑑の中でしか見ないような未開の部族の住居のようだ。ハエがぶんぶん飛んでいる。高級リゾートには見えない。目の前にいる老人も、お世辞にもコンシェルジュとは言い難かった。


 一体、どうして僕はこんなところで目を覚ましたのか。思い出そうとすると頭が痛んだ。


「ゆっくりしていろ。医者を呼んでくる」


 医者がいるのか、と安堵のため息をついた。安心すると同時に大切なことを思い出した。


「あの、妻は? 一緒にいませんでしたか?」


 僕は妻と船に乗っていた。そして、その船が難破したのだ。船が難破する最後の時、僕は強く妻の手を握っていたことを覚えている。


「大丈夫。大丈夫」


 何を尋ねても、老人はそれしか言わなかった。急に不安が胸にこみ上げる。とにかく、彼は「大丈夫」と言いながら、扉のない出入り口から外に出て行った。


 何が大丈夫なのか。それに、あの船に乗っていたのは僕たち夫婦だけではないはずだ。どれくらいの人間が乗っていたのかはわからないが、彼らはどこへ行ったのか。


 寝台から降りようとして、足が痛むことを思いだした。左足は折れてはいないようだが、太ももに巻かれた包帯に血が滲んだ。寝台についた右手も痛むので見ると、薬指と小指とが包帯で一緒に巻かれており、小指がイチジクの実のように腫れていた。包帯の隙間からのぞき込むと、腐っているのではないかと思うほど赤黒く変色している。


 気候は温暖である。船に乗っていたときは、真冬で着ぶくれするほど防寒着を着ていた。今は下着しか身につけていないが、寒さは微塵も感じない。むしろ快適である。一体どこなのだろうか。


 状況を把握してゆくに連れ、足の痛みが襲ってくる。足が痛み始めると、腕やそのほかの部分も痛み出し、心臓が早鐘を打つように体を責め始めた。痛みと共に頭が混乱してきた。船は難破した。助けは来るのか。妻はどこにいるのだ。


 パニック発作を起こして、目の前がぐるぐる回った。急激に吐き気がしてくる。嘔吐感はあるが、何も腹に入っていないので、胃袋が跳ねるだけだった。全身の筋肉が硬直したようになって、鼻から胃液が垂れてくる。


 入り口の方から女の声がした。なんと言っているのかわからないが、彼女は僕に駆け寄ってきた。冷たくて気持ちよい何かを僕の顔に押しつけた。


「大丈夫?」


 女が言う。彼女も日本語を話した。冷たいもので顔が冷やされると、少し気分が落ち着いた。徐々に視界がはっきりしてくる。視界に映った彼女の肌も、先程の老人のように浅黒く、老人よりも鮮やかで色の布を全身に纏っていた。彼女が手に持っていたのは、洗面器とタオルだった。洗面器にはケロリンと書かれていて、僕は目を疑った。ここは日本なのだろうか。これは日本の銭湯によくある洗面器だ。なぜ、こんな、明らかに南国のような場所にこれがあるのだろう。


 胃液を吐きながら、鼻をくすぐる香りに気付いた。煙草のような――煙草にしては刺激的な甘い香りで、ガラナにも似ていた。正常な思考が出来ず、どこかで嗅いだような気がすると言うことしかわからない。


「いったい、ここは何なんだ」


 ぜえぜえと息切れを起こしながら、僕は彼女に尋ねた。彼女は「島」とだけ答えた。


「島って言ったって、どこの島だ。アフリカか? 東南アジアか? 南米か?」


 彼女は首をかしげ、僕の知らない言葉で何か言った。彼らの母国語らしき言葉は、東南アジア風だった。複数の言語を使いこなしているところを見ると、教養が無いわけでは無いように思う。しかし、彼女に土地のことを尋ねても、具体的な答えは得られなかった。


 大災害以降、世界地図のどこがどの国の領土だとか、そんなことを言えなくなってしまったが、それでも自分が世界のどのあたりで暮らしているのかくらいはわかるはず、と考えるのは驕りだろうか。


「妻が、一緒に保護されているはずなんだ。安否を確認したい」


 ズボンのポケットから財布を取り出そうとして、自分が下着姿であることを思いだした。財布の中に入っている妻の写真を見せれば、彼女の居場所がわかるかもしれないと思ったが、僕のズボンどころか荷物の一切を、この家の中に見当たらない。


「僕の荷物はどこにあるかな。着ていた服とか」


 尋ねたが、彼女はやはり首を傾げるだけだった。もしかしたら、簡単な言葉しかわからなくて、僕の言っていることが伝わっていないのかもしれない。それなら、「島」とだけ答えたのもうなずける。


「先程の老人を呼んできてくれないか」


 僕の頼みは無視された。彼女はシーツをめくり、僕の足を突き始めた。あまりの痛みに僕が叫ぶと、ふんふんとうなずきながら、また別のところを突く。そして、どこかから取り出したすり鉢の中に入っていた緑色のネバネバした何かを、包帯の上から体や顔に塗りたくった。あの老人が言っていた医者というのは彼女のことだったらしい。それにしても、こんな怪しいものを塗りたくって、本当に大丈夫なのだろうかと不安になったが、彼らも厚意でしてくれていることだ。無碍には出来ない。家の作りを見ても、ここはそういう未開の地なのかもしれない。


 全身があらかた緑になったあと、彼女は僕の寝台の周りに蝋燭を立てた。


「それは何?」


 ジンジンと痛む怪我に顔をしかめながら、僕は尋ねた。


「これは悪魔を近づけない結界。ここから出ないように」


 彼女は流暢な日本語で言った。


「悪魔だって?」


 不意に胸が痛む。なぜなら、僕たちは悪魔ではなく、天使から逃げていたのだから。

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