この海の底まで
和田 真央
第1話
『海洋恐怖症』海や川、湖に対する恐怖症。大量の水の中にいること、海の広大な空、海の波、陸からの距離に対する恐怖が含まれる。
「間もなく、玄海港〜。玄海港に到着です。」
博多からの定期船に揺られて約一時間、その孤島は姿を現す。荒々しくも美しい海に囲まれ、山は深緑を纏う。人口約1300人。その名も玄海島。漁業が盛んなこの島では、都会の喧騒などはその影も無く、時間の流れは常に緩やか。それでも、学校や港近くの商店などには人が溢れ、人口は現在でも右肩上がり。そんな何不自由のないこの島の中で、住民は誰一人として不満などあるはずも無かった。たった一人、私だけを除いて。
七月の中旬。世の学校は夏休みに入って、学生達はいよいよ長い自由へと解き放たれる。島内唯一の高校である福岡市立鳴海高校。その二年生である柴井 海好もまた、その自由に酔いしれていた。
昼過ぎの自室で、スマホを片手にベットの上を転がる。夏休み五日目。
ブーッ、ブーッ
「海好〜、この後うちで宿題大掃除パーティーするけどどう?」
友人からのLINE。
「何そのパーティー笑笑、じゃあ今から用意して行くー!」
宿題の類に一切手を付けずにいた私は、これ幸いとその誘いに乗った。
「オッケー、じゃあ早く来てねー」
スマホを脇に置きつつ、ゆっくりと起きる。両腕を上にし、大きく体全体を伸ばした。これをしない事にはどうにも目覚めが悪い。そうして一連の動作を終えると、私はグッと体に力を込めて勢いよく立ち上がった。
「さて、用意しますか!」
「おぉ、海好〜、どっか行くとね?」
「あっ〜、婆ちゃん。ちょっとね、鈴の家まで行って来るけん。」
さっそく用意を終わらせ、今から出ようという所に祖母が声をかけた。
「外は暑いけん気をつけなよ〜。」
彼女は玄関先の私に向かって、冷房の効いた居間の方からくたびれた声を発している。今朝の畑仕事で体力を使い切ったのだろう。
「はいはい、そっちこそね〜。」
私は短く言葉を返す。祖母とは物心ついた時から何故か二人暮らしだ。この歳になって考えれば、祖父も父も母も居ないこの家は周りに比べて結構異質に感じる。しかし、実際何かに困った訳でもなければ、祖母も昔の話はしたがらなかった。そんなこんなで、少し気になることはあれども、この生活は私にとっての”普通”であった。
外に出ると、私はそのすぐ脇に止めた自転車へと脚を掛ける。この日も太陽の下では危険なほどに暑く、私は少しでも風を得ようと、いつもより少しだけ強くペダルを前へ漕ぎ出す。
山間の家から長い一直線の林道を下って、港近くの大通りへと出て行く。いくつもの飲食店を傍に見ながら、その道を五分ほど走ると親友、水神 鈴の家だ。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン
平日の昼間。親は居まいとインターホンを連打してみる。
「うるさい!」
家の中から怒鳴るような声が聞こえる。
ガチャッ
ドアが開くと同時に、内側から手が伸びてくる。私はそのまま胸ぐらを掴まれ、家の中へと引きずり込まれた。
「またやったね〜この悪ガキ!」
見ると目の前には部屋着姿の鈴。彼女は私を少しの間睨みつけると、優しく拳で私の頭を叩いた。
「じゃあさっそく始めよっか。ささっと終わらせて遊ぶぞー。」
そう言うと彼女は軽い足取りのままで、自室への階段を登って行く。
「いや〜それにしても今日いっつもより暑くない?」
「う〜ん、いっつもこんくらい暑いよ。」
勉強開始から約30分。二人して集中が切れ始める。
「あぁ、海行きて〜海。泳ぎて〜。」
そう言いながら鈴は腕を伸ばし、座椅子と共に後ろへ倒れた。
「そうやね・・・。」
私は心ここに在らずの返事をしながら、窓の外を眺める。
ザァー、ザァー、ザァー
寄せては返す波の音。海は嫌いだ。こんなにも近くにあると言うのに壮大な未知を孕んでいるから。底には何かが潜んでいながら、自分たちのことを見ている。そんな妄想に駆られていつも冷たい汗をかくのだ。当然船に乗ることなどなく、私は今まで一度たりとも”本土”に渡ったことが無い。”牢獄”そんな言葉が頭の中には浮かび上がった。
「み・・・き、みず・・・海好!」
「えっ、あっ!何?」
頭の中が突然スッと晴れて現実へ戻る。
「何?じゃ無いわ、何ぼーっとしとるん?」
「いや、ごめん・・・。」
よほど酷かったのだろう。しばらくの間鈴はその眉をひそめる様にし、私の顔をじっと見つめた。
「そういえば海好、ずっと聞こうと思っとったんやけどさ、あんた大学とかってもう決めとる?」
次の瞬間、彼女はそう言いながら私の方へと身を乗り出した。
「え、いや・・・。」
瞬間的に言葉が詰まる。目は泳ぎ始め、何か言おうにも頭で言葉を纏められない。そうして30秒ほどあたふたした後、私はまたも気不味そうに目線を逸らし、俯いてしまった。
「いや、別に決まってないならそんな無理せんくてもいいよ・・・。」
鈴はそう言いながら苦笑いを浮かべる。私は突然自分が情けなくなり、両手で顔を覆った。
「うん・・・。何かごめん・・・。」
「進路希望、出してないのお前だけやったけんね・・・柴井。」
夏休み前日。私は職員室に呼び出された。
「いやぁ、すみません。何というかまだ全然決まらなくって・・・。」
冷房の効いた部屋の中では教室とはまた違う緊張が満ち溢れている。教師は少し呆れたような目をして、こちらへと体を向けた。私はそれが気不味くなり、目を逸らし俯く。
「まぁ、今すぐにとは言わんけども、うちの高校が夏休み明けからクラスを分けるのは知っとるよね?やけん、それまでに決めてもらわな困る。夏休み中でも俺は学校おるけん、書いて持って来なさい。」
そう言うと教師は笑いながらも、私への大きな圧と共に白紙の書類を突き出してきた。
「ぜ、善処します・・・。」
その日の帰り。休み前の修了式は早々に終わって、結局昼過ぎには家に着く事となった。ふと空を見ると暗い雲が太陽へと迫る。その日は午後から大雨の予報で、私はそのまま自転車を裏口へと回した。裏口の戸を開け、そのまま家の中へ入る。その時、
「ってことで〜、申し訳ないんやけど、光さんの船はこっちで処理させてもらっても良かね?」
玄関の方から何やら男性の声が聞こえてくる。祖母と誰かが話し込んでいる様子だ。私は思わず身を潜める。別段何かがある訳でもなく、その割り込めない空気感の様な何かがそうしろと囁く。
「組合で話し合った結果の事やん。僕らだけではどうすることもできん・・・。悔しいけど。」
その潰れたような独特の声質、そして口調。どうやら相手は漁業組合の会長、島津さんらしい。島津さんとは中学の時に食育の授業で学校に来た時以来、妙に記憶に残っていた。
「って言うか海好ちゃんには光さんのことは・・・?」
「話しとらん・・・。もういいやろ・・・。そのことなら。何回も言っとる。」
突然聞こえた自分の名前に私は驚き耳を疑う。聞き間違いかと考えながらも、それ以上に彼らが一体何の話をしているのか。その事への疑心が一気に体を這って回った。しかし次の瞬間、
「んん・・・。分かった・・・。でも、報告はしたけん。」
島津さんはそう言い、諦めるように玄関を離れる。私は咄嗟に質問を投げる勇気すらなく、一人その場に立ち尽くした。
「婆ちゃん・・・。」
ようやく声が出たのはその約数十秒後。
「あぁ、おかえり・・・。”海好”」
祖母は白々しくも笑ってそう言う。私はそれに対して何かを言う気にすらなれない。そうして、
「ただいま・・・。」
ただそう言って笑った。”この疑心はいずれ必ず”そう心に誓って。
つづく
この度は『この海の底まで第1話』をご愛読いただきまして誠にありがとうございました。もしこの物語が気に入っていただけましたら応援やフォローもよろしくお願いいたします。今度の更新はまだ未定となっております。
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